産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載され、惜しまれながらこの3月末で連載終了となった「なら再発見」、当ブログで未紹介のものを順次紹介させていただく。今回(2/28付)は「椿井城跡(つばいじょうせき) 城主は嶋左近か松永久秀か」、筆者はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」会員の藤村清彦さんである。まず、椿井城跡とは何か。平群町(へぐりちょう 奈良県生駒郡)の公式観光HPに、簡潔に紹介されている。
トップ写真を含む3枚の写真は、平群町の公式観光HPから拝借
矢田(やた)丘陵の稜線上に築かれた山城跡。南北が300mもある細長い城で、多くの曲輪(くるわ)や深い切り通し堀、土塁が残っておりごく一部に石垣も見られる。中央部がやや低く、城域が南北に別れ、高い北側部分が中心の主郭にあたる。西側山裾と主郭部との比高差が180mもあり、西側の平群谷への見通しが常に良く、谷の南半を抑える要衝に位置し、西側が城の防御正面と考えられる。
城主は当初椿井氏が築城し後に嶋氏が取って変わったと考えられ、戦国末には筒井傘下の嶋左近と信貴山城に入った松永久秀との間で幾度もの争奪戦が繰り広げれられたと考えられる。天正8年(1580)織田信長が筒井順慶に命じ、郡山城を残して大和の諸城を破却させており、本城もこの時に放棄されたとみられる。
つまり「城は椿井氏が築き、その後嶋氏が入り、のち松永久秀と争奪戦が繰り広げられた」ということだが、最近は「松永勢が築き、久秀が滅びたあと嶋左近が入ったのでは」という説が出て来ている、と藤村さんは指摘している。だから見出しが「城主は嶋左近か松永久秀か」となっているのだ。
(6/12追記)「平群人」さんから、こんなコメントをいただきましたので追記します。
西が防御正面ではありません、西の尾根続きは開放的で防御が薄い特徴のある城です。各堀切の延長、竪堀の長さを比べてください。西が長いか東が長いかを見れば、どっちの斜面の横移動を封鎖したかったか一目瞭然ですよ。それと、東斜面には当城唯一の横堀まであって東を警戒しています。警戒度の高さからみても西より東が高いのです。正確には北東の白石畑集落方面から、平群谷の平等寺集落に繋がる道を警戒しています。有名な嶋氏なので幻想を持つ方は多いのですが、当時の嶋氏にこんな城を作れる実力はありませんし、筒井氏にしても信貴山城の鼻先への進出など無理だったでしょう。また、松永氏の城の特徴も垣間見える城ですから、松永氏の可能性が限りなく高い城です。
さて、そろそろ全文を紹介する。
椿井(つばい)城跡は矢田丘陵の南端に近い尾根の西側に築かれた戦国期の山城(やまじろ)跡だ。矢田丘陵は、奈良盆地の西側を南北に走る丘陵で、平行して走る生駒山地との間には、竜田川を軸とした平群谷(へぐりだに)が広がる。
椿井城跡には近鉄生駒線竜田川駅からまず東に進む。徒歩15分で麓(ふもと)の春日神社に着く。神社から城跡までは500メートル。遺構保存のため北郭跡への立ち入りは禁止されているので、春日神社の南にある椿井井戸の側から登らねばならない。
地元では、筒井順慶(つついじゅんけい)に仕えた後、豊臣家(とよとみけ)の五奉行の一人であった石田三成(いしだみつなり)に召し抱えられ、関ケ原の戦いに散った嶋左近ゆかりの城として左近使用の三つ柏(みつかしわ)紋の幟(のぼり)を要所に立てて道案内に努めている。
※ ※ ※
城跡から西側の展望は素晴らしい。眼下に平群谷とその向こうにそびえる生駒山地が一望でき、平群谷の領主になった気分が味わえる。生駒山地の南端には、二上山のように盛り上がった信貴山が間近に見える。そこに築城の名手松永久秀(まつながひさひで)が信貴山城を築いたのだ。
平群谷椿井集落から見た椿井城跡
標高は椿井城が243メートルに対し、信貴山城は437メートルと高いが、椿井城から信貴山城までは直線距離で約4キロ余り。復元された現在の平城宮大極殿から大仏殿までの距離に相当する。まさしく指呼(しこ)の間(かん)で、両城が対峙(たいじ)していたとすれば、互いの人馬(じんば)の動きまで読めたであろう。
逆に東の奈良盆地側は全く見通せない。矢田丘陵は椿井城の北で東西に分岐しており、城跡の東側は、浅い谷の向こうにある高い尾根に遮られて展望がきかないのだ。
※ ※ ※
椿井城築城の記録は残されていないので、戦国期の動きと城跡の構造から築城者を推定するしかない。
戦国期の勢力関係は連携と離反が常だが単純化すれば、織田信長(おだのぶなが)の麾下(きか)、奈良盆地西部を拠点とした筒井順慶に仕えたのが嶋左近であり、この勢力と敵対していたのが松永久秀だ。久秀は一時織田信長に臣従するも、最後には叛(そむ)いて信貴山城で自爆(じばく)したとされる。
椿井城跡のV字形堀切(空堀)から見た信貴山城跡
かつては、嶋勢が椿井城を築き、信貴山城の松永久秀と敵対していたと考えられていたが、最近では松永勢が信貴山城の出城として築き、久秀が滅びたあと石田三成に仕えるまでの間、嶋左近が入ったのではないかという説が浮上している。
確かに城跡の東斜面は急峻(きゅうしゅん)で、奈良盆地側の筒井勢に備えて人工的に削られたとも見える。また、平群谷をおさえた力のある久秀の信貴山城から見てこの城は西に進出しすぎており、目障りであったと思われる。
※ ※ ※
城跡はクヌギ林に囲まれており、とりわけ秋の紅葉の時季が素晴らしい。城跡の梢をわたる風の音に耳をすますもよし、戦国の豪傑たちの築城構想に思いをはせるもよし、戦国時代に関心のある人にとって、興味は尽きない所だ。
ちなみに嶋左近の墓は京都、大阪、対馬にもあるが奈良では三笠霊園東大寺墓地にある。左近が天正5(1577)年、春日大社に寄進した石燈籠が楼門の東側に残る。信貴山城の主(ぬし)であった松永久秀は王寺町の達磨(だるま)寺に眠っている。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)
奈良県と言えば古代史のイメージだが、戦国~安土桃山時代の遺構もたくさん残っているのだ。そんな遺跡を訪ねて古(いにしえ)に思いを寄せるのもいい。藤村さん、興味深いお話、有難うございました!
トップ写真を含む3枚の写真は、平群町の公式観光HPから拝借
矢田(やた)丘陵の稜線上に築かれた山城跡。南北が300mもある細長い城で、多くの曲輪(くるわ)や深い切り通し堀、土塁が残っておりごく一部に石垣も見られる。中央部がやや低く、城域が南北に別れ、高い北側部分が中心の主郭にあたる。西側山裾と主郭部との比高差が180mもあり、西側の平群谷への見通しが常に良く、谷の南半を抑える要衝に位置し、西側が城の防御正面と考えられる。
城主は当初椿井氏が築城し後に嶋氏が取って変わったと考えられ、戦国末には筒井傘下の嶋左近と信貴山城に入った松永久秀との間で幾度もの争奪戦が繰り広げれられたと考えられる。天正8年(1580)織田信長が筒井順慶に命じ、郡山城を残して大和の諸城を破却させており、本城もこの時に放棄されたとみられる。
つまり「城は椿井氏が築き、その後嶋氏が入り、のち松永久秀と争奪戦が繰り広げられた」ということだが、最近は「松永勢が築き、久秀が滅びたあと嶋左近が入ったのでは」という説が出て来ている、と藤村さんは指摘している。だから見出しが「城主は嶋左近か松永久秀か」となっているのだ。
(6/12追記)「平群人」さんから、こんなコメントをいただきましたので追記します。
西が防御正面ではありません、西の尾根続きは開放的で防御が薄い特徴のある城です。各堀切の延長、竪堀の長さを比べてください。西が長いか東が長いかを見れば、どっちの斜面の横移動を封鎖したかったか一目瞭然ですよ。それと、東斜面には当城唯一の横堀まであって東を警戒しています。警戒度の高さからみても西より東が高いのです。正確には北東の白石畑集落方面から、平群谷の平等寺集落に繋がる道を警戒しています。有名な嶋氏なので幻想を持つ方は多いのですが、当時の嶋氏にこんな城を作れる実力はありませんし、筒井氏にしても信貴山城の鼻先への進出など無理だったでしょう。また、松永氏の城の特徴も垣間見える城ですから、松永氏の可能性が限りなく高い城です。
さて、そろそろ全文を紹介する。
椿井(つばい)城跡は矢田丘陵の南端に近い尾根の西側に築かれた戦国期の山城(やまじろ)跡だ。矢田丘陵は、奈良盆地の西側を南北に走る丘陵で、平行して走る生駒山地との間には、竜田川を軸とした平群谷(へぐりだに)が広がる。
椿井城跡には近鉄生駒線竜田川駅からまず東に進む。徒歩15分で麓(ふもと)の春日神社に着く。神社から城跡までは500メートル。遺構保存のため北郭跡への立ち入りは禁止されているので、春日神社の南にある椿井井戸の側から登らねばならない。
地元では、筒井順慶(つついじゅんけい)に仕えた後、豊臣家(とよとみけ)の五奉行の一人であった石田三成(いしだみつなり)に召し抱えられ、関ケ原の戦いに散った嶋左近ゆかりの城として左近使用の三つ柏(みつかしわ)紋の幟(のぼり)を要所に立てて道案内に努めている。
※ ※ ※
城跡から西側の展望は素晴らしい。眼下に平群谷とその向こうにそびえる生駒山地が一望でき、平群谷の領主になった気分が味わえる。生駒山地の南端には、二上山のように盛り上がった信貴山が間近に見える。そこに築城の名手松永久秀(まつながひさひで)が信貴山城を築いたのだ。
平群谷椿井集落から見た椿井城跡
標高は椿井城が243メートルに対し、信貴山城は437メートルと高いが、椿井城から信貴山城までは直線距離で約4キロ余り。復元された現在の平城宮大極殿から大仏殿までの距離に相当する。まさしく指呼(しこ)の間(かん)で、両城が対峙(たいじ)していたとすれば、互いの人馬(じんば)の動きまで読めたであろう。
逆に東の奈良盆地側は全く見通せない。矢田丘陵は椿井城の北で東西に分岐しており、城跡の東側は、浅い谷の向こうにある高い尾根に遮られて展望がきかないのだ。
※ ※ ※
椿井城築城の記録は残されていないので、戦国期の動きと城跡の構造から築城者を推定するしかない。
戦国期の勢力関係は連携と離反が常だが単純化すれば、織田信長(おだのぶなが)の麾下(きか)、奈良盆地西部を拠点とした筒井順慶に仕えたのが嶋左近であり、この勢力と敵対していたのが松永久秀だ。久秀は一時織田信長に臣従するも、最後には叛(そむ)いて信貴山城で自爆(じばく)したとされる。
椿井城跡のV字形堀切(空堀)から見た信貴山城跡
かつては、嶋勢が椿井城を築き、信貴山城の松永久秀と敵対していたと考えられていたが、最近では松永勢が信貴山城の出城として築き、久秀が滅びたあと石田三成に仕えるまでの間、嶋左近が入ったのではないかという説が浮上している。
確かに城跡の東斜面は急峻(きゅうしゅん)で、奈良盆地側の筒井勢に備えて人工的に削られたとも見える。また、平群谷をおさえた力のある久秀の信貴山城から見てこの城は西に進出しすぎており、目障りであったと思われる。
※ ※ ※
城跡はクヌギ林に囲まれており、とりわけ秋の紅葉の時季が素晴らしい。城跡の梢をわたる風の音に耳をすますもよし、戦国の豪傑たちの築城構想に思いをはせるもよし、戦国時代に関心のある人にとって、興味は尽きない所だ。
ちなみに嶋左近の墓は京都、大阪、対馬にもあるが奈良では三笠霊園東大寺墓地にある。左近が天正5(1577)年、春日大社に寄進した石燈籠が楼門の東側に残る。信貴山城の主(ぬし)であった松永久秀は王寺町の達磨(だるま)寺に眠っている。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)
奈良県と言えば古代史のイメージだが、戦国~安土桃山時代の遺構もたくさん残っているのだ。そんな遺跡を訪ねて古(いにしえ)に思いを寄せるのもいい。藤村さん、興味深いお話、有難うございました!
それと、東斜面には当城唯一の横堀まであって東を警戒しています。警戒度の高さからみても西より東が高いのです。正確には北東の白石畑集落方面から、平群谷の平等寺集落に繋がる道を警戒しています。有名な嶋氏なので幻想を持つ方は多いのですが、当時の嶋氏にこんな城を作れる実力はありませんし、筒井氏にしても信貴山城の鼻先への進出など無理だったでしょう。
また、松永氏の城の特徴も垣間見える城ですから、松永氏の可能性が限りなく高い城です。