金峯山寺長臈(ちょうろう)で種智院大学客員教授の田中利典(りてん)師の名著『吉野薫風抄』(白馬社刊)が加筆・再編集され、4月1日からKindle版『修験道あるがままに』としてハーモニーライフ出版部から5分割され順次リリースされている。
旧著はご自身が「処女作にして最高傑作」とおっしゃる自信作だ。「金峯山時報」に連載(昭和57年~平成3年)された短編エッセイをまとめたもので、わずか27歳から36歳のときの文章である。以下、旧著から文章を抜粋して紹介する。
師の盟友で宗教学者の正木晃氏はこんな序文を寄せた。「ここに書かれた主題は重い。いつの日か実践されたとき、日本の宗教界を一変させるほどの力を秘めている。なぜかといえば、ここには日本における伝統仏教の真の姿が語られているからだ」。正木氏は、神仏を自然の中に見出す「修験道」こそが「仏教の真の姿」だとする。
「人類の平和と仏恩」は利典師が30歳のときの作。先輩僧侶が、人間は「自然を次々と破壊し、今や、地球上の癌細胞みたいなものじゃないか。こんな人間達など、いっそ消えてなくなる方がよっぽどましだ」。
これに師は反論する。「滅亡に値するものかも知れません。けれど、人間がどのような重罪を犯そうが、どのような過ちを行おうが、常に仏祖(お釈迦さま)の加護というものは相変わりなく我々に与えられているわけでしょう。そうするなら、我々は素直に仏祖の恩に感謝し、人々の幸せを祈らずにはいられないということになるのではないでしょうか」。先輩からは屁理屈だと一喝されたそうだが、私は師の意見の方が正しいと思う。
「人間は何のために生まれて来たか?」で師は「魂・心の修行のために生まれて来た」とする。ひとくくりに「物心」というが「心の中に、際限なく湧き起こってくる欲望を満たさんがため、それだけのために生きているのではないのである。心そのものを満たさなければならない。心そのものを高めねばならない」。このような信念が、利典師の原点だったのだ。
圧巻は「仏教を現代に問う」だ。オウム真理教事件の約3年前の作。仏教徒として「功を積んできたような人でさえ仏教のことや、自分のお宗旨の教えについて全然理解していないことに度々驚かされている」。人々は宗教的な欲求を「伝統仏教のお坊さんに求めるのではなく、新新宗教などともてはやされる今どき流行の宗教に求め、心身ともに傾倒させている」。
お坊さんにとって大切なのは「信仰の実践、信心決定(けつじょう)に尽きる。もちろん、自分の信仰が不退位(もう後戻りしない位)にまで到達していたら、それが理想であるのだけれど、そうでなくてもいつも菩提を目指す者(つまり菩薩)であらねばならない。正しき法に生きている者なれば、必ずや求法の人々の光明となり得る」。
お坊さんは人々の模範となるべく菩提(悟りの境地)をめざさねばならない。仏教徒は仏教や宗旨の教えをよく理解しなければならない。きわめて当たり前のことだが、これができていなかったから、怪しげな新興宗教につけ入るスキを与えたのだ。
「作家は処女作に向かって成熟する」とは亀井勝一郎の名言だが、この本には利典師のすべての萌芽がある。電子版のご一読をお薦めしたい。
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