鳥瞰ニュース

空にいるような軽い気分で・・・

『マンマ・ミーア』を観て思ったこと

2009年03月06日 01時00分23秒 | テレビ・ネット・映画
このドラマのキーワードは『I miss you.』これに尽きるのではないか・・と思った。何年ぶりかで映画館に入って映画を観たのがこれ。観ていて英語のI miss you.の感じが完全に理解できた気がした。勘違いかも知れないけれど・・・。

ソフィーの母親のドナは20年前の若い時分に3人の男と付き合いがあった。そしてソフィーが生まれ、ドナはシングルマザーとして娘を育てながら一生懸命小さなホテルの経営をして生きて来たのだが、何故3人と次々に関係を持ってしまったかといえば、寂しかったからなのだ。心の中のどうしようもない空虚感、それがI miss you.だ。

20歳のソフィーは父親が居なくても明るく健康的な娘に育ったのだが、間近にせまった結婚式の直前に父親をつきとめたい、そして父親にエスコートされバージンロードを歩きたいと願う。その気持ちは、やはりI miss ・・・.だ。それはソフィーにとっては永年のI miss my papa.なのだ。

このミュージカル映画は陽気な歌と踊りが何とも楽天的で楽しい。ドタバタ喜劇的表現はシットリとした感情の裏返しだ。おばさんトリオも、おじさんトリオも、ソフィーもソフィーの結婚しようとしている婚約者も皆、I miss ・・・.の感受性が豊かな人間として描かれていて効果的だ。

それにしてもメリル・ストリープという女優は個性的。美しい表情をするし涙が似合うし上手い。他の出演映画は「クレイマー・クレイマー」と「マディソン郡の橋」を観た。その程度の映画鑑賞歴でしかないので彼女をもっと観たいと想う。
I miss Meryl Streep.

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「私の頭の中の消しゴム」(韓国映画)を観て思ったこと。(すこしネタバレ)

2008年04月20日 00時02分42秒 | テレビ・ネット・映画
これもまた偶然BS放送で観た。ヒロインのスジン役と相手のチョルス役が、単に女と男という以上に対照的な際立ち方で見事なラブ・ストーリーだった。顔が大写しになるシーンが多用されていたが、その時の二人の眼差し、口元、表情の微妙な演技が実に見事なのだ。アップに堪えるというのはこういうことか・・と思った。

裕福な家庭で恵まれた境遇の美女に、自分を生んだ母親から捨てられ一人で生きて来たと語る荒んだ野獣が徐々に心を開いていく。スジン演じる女優が実にはかなげで育ちがよさそうで美しい。対するチョルス役の野獣は、がっしりと大きくふてぶてしい男振りが頼もしい。観ていて自然に両方に感情移入してしまっていた。

そして切ないのが、稀な例だという若年性のアルツハイマーの症状がすすむスジンの現実を知って動揺するチョルスの演技だ。現実を受け入れ難くて、無理な希望的未来を語ったりするやるせなさも胸を打つ。

記憶が喪われていくという感覚はどんなものなのだろう。縁あって認知症にはかかわりがあった。将来自分自身が認知症になる可能性がある。認知症患者との付き合いは未知との遭遇だ。予期せぬことが起り、その場その場で試される。

この映画のラストはとても印象的だった。愛し合ったことを想い出して欲しい、自分を判って欲しい、そして一度も言わないでしまった『愛してる』を伝えたいチョルス。初めての出会いのファミリー・マートから始めるのだ。ファミリー・マートというのがこれ又計算された設定なんだろうか?

想い出して欲しいというのは患者への気配りのない、自分のエゴでしかないわけで、現実にはあり得ない展開のような気がしたけれど、感動的なラストはラブ・ストーリーとして上手い仕上げだった。とても心温まる映画を観た。いや、これはよい映画ミダ!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「北京ヴァイオリン」を観て思ったこと(少しだけネタバレ)

2008年04月15日 23時14分39秒 | テレビ・ネット・映画
BSで何の予備知識もなく観たのだが、心温まるよい映画だった。同じく中国映画の「この櫂に手をそえて」を観た時の心持ちを思い出した。しかし「この櫂~」の子役の圧倒的な存在感ある演技力と比較すると、見劣りする気がした。

「北京ヴァイオリン」は現代中国が舞台だが、大掛かりなセットを用いるようなストーリーではないのでアクションシーンや大事故シーンがあるわけではないし何箇所かの同じ場所でのシーンが多い。まったくの素人としての感想だが、あまり金を掛けていない連続テレビドラマを縮小して映画仕様にしたというような印象を受けた。

良い映画だったのだ。そこそこ感動もしたのだ。けれども、ここはこうしたらいいのになぁ、あそこはもっとあれを強調してあーやったら・・・というような意見が自分の中にむくむくと湧いてくるのだ。名前のある登場人物は皆すばらしいキャラクターを演じていて、それぞれによかったのだけれど・・。

映画というのは沢山フィルムを回して、それを監督が切り貼りして完成させるらしいから、その完成品を試写してみないと、俳優はじめスタッフはどういう映画になったのか判らないのかも知れない・・・などと思ったりして、何だかすっかり監督気分にさせてくれる映画だ。もしかしたら、切り貼りの仕方でストーリーさえ変わってしまうのだろう・・・か。

そうだとしたら、というよりこの「北京ヴァイオリン」ではそうなのだろうと確信に近い感じを持った。観ている途中で、父親が二番目の先生に接近する時に話した事は作り話なのだろう・・と思ったのに、作り話ではなく真実という形で終わってしまった。実は作り話として映画を撮っていたけれど、監督が編集している間に、作り話としての部分を割愛してしまったのではないか・・・と思ったのだ。

作り話にした方が、ぐっと作品に深みが増すのになぁ・・・と自分が監督なら、こーしてあーして、そうしてというのを今楽しんでいる。それぞれのキャラクターに不満も不足もない。もっと沢山それぞれに演じさせて、長く深い作品にしたい・・・などと思ってしまうのだ。こんな風に思わせて楽しませてくれるのもそこそこすばらしい作品だからなのだろう。「北京ヴァイオリン」は余韻に浸るより、監督遊びを楽しませてくれる作品だ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「Mr.& Mrs.スミス」を観て思ったこと。(ネタバレ)

2008年04月13日 16時33分33秒 | テレビ・ネット・映画
殺し屋(すご腕ヒットマン)どうしの男女が偶然にお互いのことを全く知らないまま運命的な出会いをして一気に燃え上がり結婚してしまう。6年後に仮面夫婦となっていて二人でカウンセリングを受けいるのだが、その後互いの正体を知り殺し合いになり、両方の組織(闇の結社?)からの攻撃を受け、それを危うくかわしながらもその間に理解し合い感じ合い、最終場面ではカウンセラーの前に二人嬉しそうに座って『セックスの事を聞いてくれ!』なんて言うのだ。

こういうのをどういうジャンルに入れるのだろう。アクション映画の振りをしたラブ・コメディなんだろうか? カーチェイスにしても、爆破シーンにしても、アクションシーンにしても、CGなのか合成などの特撮なのか、スタントマンを使った実写なのか、これでもかこれでもかという位の無茶苦茶な破壊に次ぐ破壊だ。そして例によって名前のない兵隊脇役はコロコロ殺され、主役の二人は命がどんなにあっても足りない程の危機に際しても不死身の、有り得ないスーパーマン振りで打開していく。だから痛快で面白い。

アメリカの映画を観ていていつも感じるのは、どんな状況設定のどんな人間の組み合わせでも、夫婦や家族のテイストと言うのか、核のようなものは全く同じだということだ。教会で神父か牧師の前での結婚、そしてマリッジ・リング、芝生のある家、夕食を共にする家庭生活。

この映画では、外していた指輪を帰宅寸前に指に嵌めるというシーンが夫婦双方にあった。夫の方では衿に付いた口紅を拭くというシーンもあった。仮面夫婦になっていても、サイボーグ並のタフ人間であっても夫婦としての礼儀というのか作法というのか、古典的なスタンダードに縛られているのが面白い。そういう安定した生活ベースが必ずあるという前提がないと、映画として成立しなくなるのかも知れない。アメリカの映画は、観客を裏切る展開ばかりで緊張感を連続させてはいけないと考えての創り方が確立しているのだろうか。

以前に、周防監督の「それでもボクはやってない」の感想を書いたとき、映画にはウフフの温暖化効果を期待したい、と書いた。この映画は、リアリズムの点でハイテクの機器も爆発も衝突もリアルだが、現実には有り得ないストーリーで生々しくはない。大規模な仕掛け花火を観ているのとあまり変わらないという意味で、スカッとする娯楽映画だ。夫婦の会話のセリフもウフフだ。

しかし、観ているときは面白いがあまり心に残らない。前言を翻してしまうのだが、何か少し重い感じというか、胃がもたれて欲しいのだ。それで想いだすのが、ここでのブラッド・ピットが女たらしのチョイ悪役で出ていた「テルマ&ルイーズ」だ。あの映画のラストは感慨深かった。ロードムービーなのだが、物語が進行する間にはスカッとする部分もあるが、さまざまな事件展開のなかでこれではハッピーエンドには終われないというハラハラ感があり劇的なラストへと突き進んでいく。あの映画はフーと胃もたれがした。ブラピのチョイ悪もよかった。知的なスーザン・サランドンと官能的なジーナ・デイヴィスの対照的な役割と演技がよかった。ああ。

また横道にそれた。アンジェリーナ・ジョリー! いいですねぇ。あの唇が堪らない。何とか姉妹という巨乳姉妹が日本にいますが、あの姉の方はもしかして、アンジェリーナ・ジョリーを取り込んでるんだろうか? アクション映画で、高級コールガール実は国籍不明すご腕ヒット・ウーマンみたいな役を、巨乳キリキリ締め付けて演じさせてみたい・・・と思う監督はいないのだろうか? 観てみたい!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「オリバー・ツイスト」を観て思ったこと。(ネタばれ)

2008年04月12日 15時08分02秒 | テレビ・ネット・映画
少し前になるがテレビでポランスキー監督の映画「オリバー・ツイスト」を観た。この映画は何十年も前に別の監督作品のものを観た。ディッケンズの小説が映画化されたものを続けてやっていたのかも知れない。と言うのは、「二都物語」を同時期に観たからだ。こちらの方は、えらく感激して本を買い夢中で読んだ。しかし「オリバー・ツイスト」の方は、主人公オリバーが少年スリ集団を率いるフェイギンの住み家に行って、スリ技を披露されて驚くシーンあたりしか覚えていなかった。「二都物語」が圧倒的に印象深くて「オリバー・ツイスト」は影薄く本も読んでいない。

映画を観に行くことは久しくなくて、テレビでやる時に偶然観るという程度の映画好きでしかないけれど、ポランスキーの映画は昔たまたま映画館で「チャイナ・タウン」を観たことがあった。ジャック・ニコルソンが、チョイ役で出た監督に小鼻を切られるシーンとラストのシーンが忘れられない。望遠レンズで、大きな夕陽が撮られ、それに向かって行く車に銃が発射され、車がゆっくりと止まり、車内が映される・・・。

そして今回、そのポランスキーが監督をした「オリバー・ツイスト」をこれも又たまたまテレビでやると知って期待を持って観たのだ。正直なところ、莫大な制作費をかけたという時代考証のセットに一番感銘を受けた。下層階級、中層階級、そして、上流貴族階級の感じがよく解った。あれが当時のイギリス、そしてヨーロッパ・・・という感じでわたしの記憶回路にしっかりインプットされた。

作品としての感想はここで述べようとは思わない。「小公子」や「小公女」のような、あるいは、「安寿と厨子王」のようなものかな・・という印象だ。本を読まなければ、ディッケンズの書きたかった意図はあまり解らないだろうと思われるし、名作を映画化することはなかなか大変なんだろうな・・などという不遜な感想まで持ってしまった。

それより、以前の作品で記憶していたシーンがそっくりこの作品でも踏襲されていて、そこがやはり印象深かった。オリバーがロンドンに歩いて向かう途中で粗末な食事を振舞ってもらうことはあったが、それ以外では初めて大人に親切に温かく迎えられて仲間を得た場面だからなのだろう。この映画では何たってフェイギン役がすばらしかった。この人は『ガンジー』を演じたサー・ベン・キングズレーという名優だそうだ。あの映画も良かった。勉強になった映画だった。

さて、フェイギンのこと。子供を手なずけて悪事を働き、盗品を売って稼ぐ老獪な悪党ではあるが手荒なことは望まない。やさしい面があり、言葉巧みに少年達を操っていて、既に年寄りなのに老後の蓄えと称して、貴金属宝石を鍵付きの箱に入れて秘密の場所に隠している。オリバーに対して優しいのは、オリバーの風貌が将来有望で女を手玉に取ってだまし、いくらでも貢がせたりできる筈だと見究めているからでもあったのだろうと思わせるセリフがあった。

そうなのか、やはり風貌、顔立ちが人生を左右する大きな要因なのか・・・。この映画ではオリバーの憂いを含んだ眼差しが大きな転機となる条件になったというシーンがある。この作品の主人公は、憂いを含んだ顔立ちの将来女性に持てるだろう美少年でなければならないのだ。

さて物語の最後、幸運にも最良の安寧を得たオリバーが(これも実は映画では彼の性格描写やその因果関係はあまり出てこないので、ほとんど風貌のおかげ)フェイギンに親切にされたことが忘れられなくて、彼に面会に行くシーンがある。牢にいるフェイギンはほとんど気が狂っているのだが、オリバーに対して老後のために貯めていたあの宝石類を『全部おまえにやる』と言うのだ。その演技とシーンがすばらしい。
人はモノではなくキモチのものだ。そんな事を感じさせてくれた映画だった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カミング・アウト

2008年04月01日 18時15分26秒 | テレビ・ネット・映画
「自分が何者であるかを明らかにせず、ここで書くことにより何者かになっていくことを期待するページ」として、このブログを始めたのに、友人数人にカミング・アウトと言うか、このブログを書いていると伝えてしまった。もうわたしのブログは誰にも明かしていなかった時のブログではいられないだろう。吉とでるか凶とでるかわからないが、確実に変化してしまうだろう。

今こうして、この文章を書いているのでさえ、もう友人がこれを読む表情さえ想像してしまっている。前は誰ともわからない不特定少数の行きずりの通行人に対して独り言とあまり変わらないことを呟いていたのだ。でも誰が通るかわからないという奇妙な緊張感をもったり、どうせ誰も聞いてくれないんだからと自嘲気味になったりしながら、何の反応もない(コメントがない)インターネット通りで誰かがいるものとみなしてパフォーマンスをしてきたのだ。

でも反応がないのは、知人の誰にも知らせていなかったし、よそのブログを訪ねて自分のURLを残してくることもしてこなかったのだから仕方ないし、大抵そんなものだろうとも思う。不特定多数の他人に受けるような文章を書くなんて、そうそう簡単にできるわけがない。逆に炎上?といった猛烈なアクセスがあっても困るという自主規制の気持ちも働いて、自由奔放に書くことは意外にできにくいものだということが解ってきた。

10代の頃に「アンネの日記」を読んだ。アンネ・フランクは架空の人物を設定して、その人に宛てて手紙を書くというスタイルの日記を書いていた。わたしの今までに書いたこのブログを読み返してみると、誰に書いているのか不明瞭不可解だ。それに一つの文章の中ででも文体が変わることがよくある。書き方はいつまでたっても統一性がなくて、文体が定まらない。口調が変わるのだ。独り遊びは得意だと思っていたのだが、自分は無人島では生きられないタイプなのだろうか?えーいそんなことはどうだっていいのだ。わたしの中に湧き上がった『感動』を書いたらいいのだ。

このごろ、話上手と書き上手のどちらだろうと他人のことを思うことが多い。話し上手の反対は聞き上手となるところだけれど、携帯メールで仕事でもプライベートでも連絡を取り合うことが多くなったからだ。自分のことを言うなら、話し下手の書き下手は間違いない。ただしそれを『話しオシャベリ』と『書きオシャベリ』という造語をしたうえで、どちらかということになると、わたしはもう決定的に『書きオシャベリ』だ。

口での言い訳はからっ下手だけれど、書いたらいくらでも書けそうなのだ。。書きはじめたら、ついついだらだらと冗舌になるのだ。と言っても文字を書くのは苦手なので、これはもうパソコンと携帯電話にインターネット普及のお陰だ。

さて、まただらだらと書いているが、この文章にどうオチをつけよう。ここまで読んでいただいた人がいたら気の毒だ。今日はエイプリルフールだから、「なんちゃって」を最後につけて、全部チャラにして、コケにしてもいいかも知れないのだけれど・・・。

そうだ、今日はエド・はるみのブログを見た。そして彼女のギャグをユーチューブでたくさん観て独りで大笑いしてしまった。じつに面白い。あのひと突き抜けてます。そこそこの美人なのに、「グーグーグーグーグー」と言うときの顔芸と最近の「まぁ、お子ちゃまね~おっぱい呑みたいの?」と言うときの仕草と絶妙な顔がいかしてる。あまり嫌味なく人をコケにする、あの芸当は是非見習いたい。わたしのブログの目標のひとつだ・・なんちゃって。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「花粉嫌い!」とつぶやくCM

2008年03月29日 15時36分56秒 | テレビ・ネット・映画
パブロン鼻炎カプセルSのCMを観る度に『ふふっ』と笑ってしまう。うまいなぁと感心してしまう。こういうのを観ると、何だか能書きを垂れたくなる。と言っても、薬効ではなくて、コマーシャルの創りの面白さ。

オーケストラの演奏中にかわいらしい女性がとんでもなく大きいクシャミをして、クシャミの風圧が指揮者の髪を襲う。指揮者は一瞬フリーズして、そこでクシャミ女が「花粉嫌い!」とつぶやくのだ。その後はお決まりのコマーシャル。

普通に考えたら、粗相をして周りすべてに大迷惑をかけた事を恥じて居たたまれない状況。クシャミをしそうならそもそも演奏会なんて行かないだろうし、突発的に出そうになったら何としても会場を抜け出す筈のところだ。

一瞬の内に《あたしが悪いんじゃない!花粉が悪いんだもん》と責任転嫁してぶりっ子する。相当えげつない大阪のオバチャンでさえやらない芸当。すばらしい。かわいいならそれが許されるのか!? そう!たいてい許される。

言い訳にもならない言い訳。でもこんな類の言い訳は、現実にいくらでもありますね。あれだって、これだって、ほら!それだって大差ないじゃないですか!という揶揄ですね。このコマーシャル。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「それでもボクはやってない」;周防正行監督の映画を観て思ったこと

2008年03月02日 14時02分06秒 | テレビ・ネット・映画
フジテレビで放映されたのを観た。
「それでもボクはやってない」は観たくない映画だった。
痴漢の冤罪事件を取り扱っていることを知っていたので、どうしたって今までの周防作品のように『うふふ』と笑えないだろうと思ったからだ。
案の定とっても不愉快な作品だった。
ものの見事にリアルそのもの。
警察の事件対応の実態、検察や判事の考え方や態度などが正確そのもの。
絵に描いたようなリアリズムだった。
行政と司法の一体となった権力構造とそのひどさが実に見事にあらわされていた。
実はわたしは縁あって・・・と言うより不幸にも、不運にもこれらの実態をかなり実感として知っているので、観たくなかったのだ。

そして深夜、高知で起きた白バイ警官の殉職事件が全くの冤罪であり、証拠が捏造されて被害者たる人が加害者にされて最高裁の判断を待っている状態だというドキュメントをみた。

それに続いて今朝になって見たのが、長崎県警が組織的に行なっていた銃摘発のやらせ事件だ。
一人の人間に罪をなすりつけて幹部は知らん顔という構図。
北海道警察の元幹部が告発した裏金問題では少しだけ、その構図が明らかになったようだが、自殺者二人を出しているとのこと。
こういうのを見始めて、考えさせられる状態になると、連鎖的に現れてくるのだ。
現実の恐ろしさが。

映画には痛快さを求めたい。『うふふ』の温暖化効果が欲しい。
でも、周防監督は現実をクソリアリズムで描いてしまった。
本当に残念だ。ご苦労様。ありがとう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トラックバックの事

2008年02月28日 00時22分56秒 | テレビ・ネット・映画
加藤ローサAV出演記念・・・というのがトラックバックに入っていました。
今までトラックバックして頂いたものはほとんどヤバそうなものばかりだったので、ちょっとそのサイトを覗いて直ぐに削除していたのです。
一応必ず検分してみないといけません。
で、今回の加藤ローサ・・・ブログを見てみると、最初のかわいらしい顔アップの画像は加藤ローサその人に間違いないでしょうし、youtubeの動画はゼクシーのCFなんでしょう。間違いない!
ところが、次のブラを外して乳首を半分ほど見せてる悩殺美人画像はどうも加藤ローサではないような気がします。
で、動画はこちら!!とか書いてあるのは、わたしどうしてもクリックできないのです。何だか恐ろしくて・・・。
でも何となく削除しがたくてそのままにしていたら、更新もしないのにアクセス数が増えてる。
加藤ローサさんのおかげでしょうか?
本当に加藤ローサの動画?
『加藤』と『ローサ』の間に小さく『ダ』なんて入ってるんじゃないの?
加藤ダローサ ってか!?  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログをつくることにしてみました。  

2008年01月19日 13時16分42秒 | テレビ・ネット・映画
あーもしもし ハロ~ アロ~?
もしもし?って、電話じゃないんだからさ。
そう、ブログ。
まず、自分をどう呼ぶかの一人称を決めなくては。
これからはじまるんだね。
わたくしでもオレでもI(アイ)ですんじゃう語圏じゃないから、私俺拙者わたいあたしに、僕おいら。
tonbimawarebaというIDにしましたから、トビーと称すことにしましょう。
『ハリーポッター』にドビーという愛すべきキャラクターがいましたね。
「ドビーめは・・・」と上目使いでしゃべる。
フィギュアスケートのミキティも真央ちゃんも、ついこの前まで「美姫は・・・」「真央は・・・」なんてインタビューでも言ってましたよね。
などと、ふと連想しましたが卑屈になるわけでも、舌足らずのぶりっこぶるつもりでもなく、ただ自分を客観的に見たらどうかと思っただけなんです。
一人称をどのように決めようと考えるだけで、誰かに話してるような文体になってきました。
たぶんブログは、誰にむかって語るかを想定することから始まるんですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする