11月20日朝日新聞のオピニオン欄に〈死刑 悩み深き森〉というタイトルで千葉景子前法務大臣へのインタビュー記事が載っていた。副題として《執行の署名は私なりの小石》とあった。この記事を読まなければならないと思いつつやりすごしていたのだが、ようやく読んだ。『小石』という表現にひどく違和感があるが、それはそれとして本文のなかにとても気になるが納得もできる表現があった。死刑執行に立ち会った時のことを回想しての述懐で『えらくあっけないと言えばあっけない。でも何か、とってもこう、美しくないというか、何か醜悪というか、でも形の上では厳粛。そこのなんとも落差というか、ある意味で自己嫌悪みたいなものもありました。』とある。
この前に自分の矛盾のことも述べているのだが、矛盾を承知しているから論理では説明できないところを感覚的に語っていて、こうとしか言いようがないというもどかしさの表現が腑に落ちた。理性で組み立てた考えではなく、本能的な直感が拒否反応をして正邪の判断を下した瞬間を表現していて、意外に素直で正直な人なのだなと思った。
死刑廃止論者が法務大臣になって死刑執行の決裁をするという矛盾に身をおいた場合、男なら自分に言い訳を作り居直る場合が多いだろう。女だったから執行の現場に立会い、執行室の公表までできたのだろう。女性ならではの蛮勇という以外に言いようがないと感じた。看護師だった人が法務大臣になって死刑執行の決裁をした例もあったが、この人は弁護士でありながらなのだ。野に居て権力の横暴を批判し不正を暴くというのでもなく、野党に属して国会で論戦を挑むのでもなく、権力の中枢に位置したのだから何が何でも改革変革の端緒を開こうという考えは理解できる。
人の生き死に関わる仕事なので現場を見ておこうという実証主義の人だ。実証主義といえば、坂口安吾の書いたもののなかに、織田信長は残忍な面を強調されることも多いが実証主義の人だったと、多くの事例を挙げて考察した文があった。火あぶりの刑をじっと観察したり、奇怪なうわさのある沼には自分で飛び込んで確かめたり・・・といった調子。
千葉元法務大臣は自分で認めている自己矛盾や死刑執行目撃の事を、この先ずっと、美しくない事に加担してしまったという悔悟を噛みしめ抱え込んで生きていくことになるのだろう。むごいことだ。執行命令の決裁をしても、それを中止させる権限はあるのだろうか? その寸前にも『中止!』と命令したくなっただろうに。
以上のような憶測による情緒的書き方をしていくと、いくらでも連想されるものがある。映画で言えば、アイスランドの歌手ビョークが主役をやったデンマーク映画の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や、アメリカ映画で親子三代の死刑執行刑務官の『MONSTER'S BALL』や、萩原健一主演のテレビドラマ『宣告』(ネットで調べたら1984年にTBS系で放送されたもので加賀乙彦原作)など。いずれもイヤな感触の残るものだった。
男性の側から見れば、女性は論理的理性的に物事を判断せずに、生理的感覚的に判断していると思うことがよくある。しかし、生理的感覚的直感は往々にして本能からくる正しい判断だ。法は論理だけで判断実施されていいものではないのではないか。法のトップたる法務大臣などは特に男女一人ずつのペアでやらなければならないのではないか・・・と思えてくる。男女共同参画のツー・トップではいけないのだろうか。何だか、どう〆たらいいのか迷走するばかりだ。今回も尻切れトンボのまま、また次回ということにしよう。
この前に自分の矛盾のことも述べているのだが、矛盾を承知しているから論理では説明できないところを感覚的に語っていて、こうとしか言いようがないというもどかしさの表現が腑に落ちた。理性で組み立てた考えではなく、本能的な直感が拒否反応をして正邪の判断を下した瞬間を表現していて、意外に素直で正直な人なのだなと思った。
死刑廃止論者が法務大臣になって死刑執行の決裁をするという矛盾に身をおいた場合、男なら自分に言い訳を作り居直る場合が多いだろう。女だったから執行の現場に立会い、執行室の公表までできたのだろう。女性ならではの蛮勇という以外に言いようがないと感じた。看護師だった人が法務大臣になって死刑執行の決裁をした例もあったが、この人は弁護士でありながらなのだ。野に居て権力の横暴を批判し不正を暴くというのでもなく、野党に属して国会で論戦を挑むのでもなく、権力の中枢に位置したのだから何が何でも改革変革の端緒を開こうという考えは理解できる。
人の生き死に関わる仕事なので現場を見ておこうという実証主義の人だ。実証主義といえば、坂口安吾の書いたもののなかに、織田信長は残忍な面を強調されることも多いが実証主義の人だったと、多くの事例を挙げて考察した文があった。火あぶりの刑をじっと観察したり、奇怪なうわさのある沼には自分で飛び込んで確かめたり・・・といった調子。
千葉元法務大臣は自分で認めている自己矛盾や死刑執行目撃の事を、この先ずっと、美しくない事に加担してしまったという悔悟を噛みしめ抱え込んで生きていくことになるのだろう。むごいことだ。執行命令の決裁をしても、それを中止させる権限はあるのだろうか? その寸前にも『中止!』と命令したくなっただろうに。
以上のような憶測による情緒的書き方をしていくと、いくらでも連想されるものがある。映画で言えば、アイスランドの歌手ビョークが主役をやったデンマーク映画の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や、アメリカ映画で親子三代の死刑執行刑務官の『MONSTER'S BALL』や、萩原健一主演のテレビドラマ『宣告』(ネットで調べたら1984年にTBS系で放送されたもので加賀乙彦原作)など。いずれもイヤな感触の残るものだった。
男性の側から見れば、女性は論理的理性的に物事を判断せずに、生理的感覚的に判断していると思うことがよくある。しかし、生理的感覚的直感は往々にして本能からくる正しい判断だ。法は論理だけで判断実施されていいものではないのではないか。法のトップたる法務大臣などは特に男女一人ずつのペアでやらなければならないのではないか・・・と思えてくる。男女共同参画のツー・トップではいけないのだろうか。何だか、どう〆たらいいのか迷走するばかりだ。今回も尻切れトンボのまま、また次回ということにしよう。