都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
昔のホウレン草といえば、茎に赤みが混じり、葉っぱは今のものより薄く、全体的にスリムな野菜だった。それが、安土桃山時代から栽培されてきた日本古来のホウレン草なのです。菠薐草、法蓮草、鳳蓮草などとも表記されます。
私たちが昔食べていたホウレン草は、西アジア原産で、ペルシャで栽培されていたホウレン草なのです。ホウレン草の「菠薐(ほうれん)」とは中国語でペルシャのことです。
中国へは、唐の時代に書かれた『嘉話録(627~649年)』によりますと、ホウレン草は前漢の時代(紀元前206~紀元8年)にペルシャ(今のイラン)から伝わったと記載されています。
唐の時代にはイスラム教国との交流が盛んで、この時代にもホウレン草の新たな伝播もあったもの思われます。そのため、ホウレン草の中国への伝来を唐の時代とする説もあります。
日本への伝播は比較的遅く、16世紀に入って中国より伝わったと言われていますが、戦国時代末期から江戸時代初頭(1546~1629年)の農業を記載した書・『清良記(土居水也著:1629~1654年)』には、まだ、ホウレン草は登場しません。しかし、江戸時代に入ると、『多織編(1631年)』、『本朝食鑑(人見必大著:1697年刊)』や『農業全書(宮崎安貞著:1696年刊)』等にも登場します。なお、このホウレン草は、葉が細く、先が尖ってギザギザがあり、根の赤い、今で言う所の東洋種のホウレン草でした。これが日本在来種となりました。
だが、この日本のホウレン草には、商業的には大きな欠陥がありました。2、3日しか保存がきかないため、遠隔地から消費地へ運ぶことができなかったのです。
そこで西洋種の肉厚で葉が丸いホウレン草が登場することになったのです。こちらは、低温保存すれば、2週間は持つといわれます。
最近では日本産と西洋種を掛け合わせたものが、主流になっているそうです。
ただ、2週間保存できるといっても、見た目がしおれないだけで、水気は徐々に抜けて、味は日に日に落ちていることには違いがありません。悪く言えば、品種改良のせいで、鮮度と味が落ちたホウレン草が流通するようになったのです。このホウレン草は丸葉系といわれるものだそうです。
しかし、最近は在来種のホウレン草もスーパーで見かけると思っていたら、一代雑種の剣葉系だそうです。
したっけ。