都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
北海道はこれから、七夕、花火大会、盆踊りと浴衣を着て出かける機会が多くなります。しかし、昔は外出に着るようなものではなかったようです。
浴衣(ゆかた)の語源は、平安時代に貴族が入浴時にまとった「湯帷子(ゆかたびら)」にさかのぼるといいます。
湯帷子は平安中期に成立した『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』によると、「内衣布で沐浴するための衣」とされています。この時代、入浴とはいっても今のように湯につかるのではなく、当時は、蒸気を浴びる蒸風呂で、複数の人と入浴する機会があったため汗取りと火傷防止、裸を隠す目的で使用されたものとされています。
素材は、水に強く水切れの良い麻の薄い単(ひとえ)を着ました。これが「湯帷子」です。当時は、白っぽい麻地のものにかぎられていました。
当時の入浴は宗教的なもので、日常的には行はれていなかったようです。仏教では汚れを落とすことは仏に仕える者の大切な仕事と沐浴の功徳を説いたと言われ、多くの寺院で浴堂を構え施浴が行われたと言われています。
ですから、平安時代の貴族は、ひどく不潔だったわけです。厚化粧の下は皮膚病だったのかもしれません。
ゆ‐かたびら【湯帷子】
昔、入浴の際、または入浴後に着た、麻や木綿の単(ひとえ)。湯具。ゆかた。
大辞泉
室町時代には手拭いならぬ「身拭(みのごい)」と言っていました。
みのごい【身拭】
[1] 身体をぬぐうもの。手拭(てぬぐ)い。[日葡] [2] 湯帷子(ゆかたびら)のこと。
大辞泉
安土桃山時代頃から湯上りに着て肌の水分を吸い取らせる目的で広く用いられるようになり、これが江戸時代になり、町人文化の発展にともなって、「浴衣(ゆかた)」も進化してきました。
「ゆかた」の名は「ゆかたびら」の略で、「浴衣」は当て字です。
浴衣
浴衣(ゆかた)とは和服の一種である。通常の和服とは違い、長襦袢を着用せず、素肌の上に着る略装である。歴史平安時代の湯帷子(ゆかたびら)がその原型とされる。
Feペディア
浴衣が庶民の間にひろがったのは江戸後期に風呂屋が普及したことによります。
このころは風呂には裸で入るようになっていました。だから浴衣もはじめは湯上りの汗をふき取るために、今のバスローブのように風呂屋の2階などで着ていたものが、次第にそのまま着て外へ出るようになり、下着から外着へとその用途を変えていきました。生地も木綿に変わってゆきました。
江戸町民の間では、盆踊りや花見などに揃いの浴衣で出かけることが流行し華やかな文様が生まれ、また、歌舞伎役者が舞台で着た衣装を庶民が真似るなどしたことで浴衣文化が江戸に花開きました。
もう一つ江戸時代に浴衣が広まった要因として「天保の改革」があげられます。
天保の改革で町人は絹を着てはならないという掟が出されてからは、木綿の浴衣がますます発達しました。
天保の改革
徳川時代後期、天保年間(1830~1843)将軍徳川家慶のときに老中水野忠邦が中心となって行った幕政の改革と諸藩の藩政改革の総
浴衣が夏の普段着として全国的に定着したのは明治に入ってからです。
それまでの本藍の手染めにかわって、大量生産が可能な「注染」という染色方法が発明されてからです。
例えば、古典的な浴衣には、紺地と白地が多く見られます。
白地の浴衣は昼用で、家の中で着ると真夏でも涼しく過ごせます。
紺地の浴衣の場合、紺色に染めるために使われている「藍」の香りを虫が嫌うことから、虫の多く出る夕方から夜にかけて着用するのが良いとされています。
浴衣には暑い夏を快適に過ごすための日本人の生活の知恵が染み込んでいます。
したっけ。