都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
「安全第一 (safety-first)」は、アメリカ合衆国で誕生した標語だそうです。
1900年代初頭、アメリカ国内では不景気のあおりを受け、労働者たちは劣悪な環境の中で危険な業務に従事していたそうです。その結果、労働災害が多発していたそうです。
当時、世界有数の規模を誇っていた製鉄会社、「USスチール」の社長であったエルバート・ヘンリー・ゲーリーは労働者たちの環境をなんとかしなければならないと考えていたそうです。
熱心なキリスト教徒でもあった彼は人道的見地から、当時は当たり前だった「生産第一、品質第二、安全第三」という会社の経営方針を抜本的に変革したのです。
「安全第一、品質第二、生産第三」としたのです。1902年のことです。
この方針が実行されると、同社の労働災害は減少し生産性や品質も向上しました。
その後、景気の波に乗り、この「安全第一」という標語は「セーフティ・ファースト」運動としてアメリカ全土に広まっていき、やがて世界中に広まったのです。
日本もこれにならい、1912年に古河鉱業足尾鉱業所の小田川全之所長が「安全専一」の標示板を坑内外に掲げ、安全活動に取り組んだそうです。これが日本の産業界における自主的安全運動の創始と考えられており、今年がちょうど1世紀の節目となります。
日本経済団体連合会、中央労働災害防止協会など38団体で構成する産業安全運動100年記念事業実行委員会は、10月12日に東京・千代田区の東京国際フォーラムで産業安全運動100年記念「第70回全国産業安全衛生大会」を開催するそうです。
今では、日本でも「安全第一」の標語は工事現場や工場などで掲示されており、目にすることができます。
「安全」と「第一」の間に緑十字が配置されている看板や垂れ幕などが多いようです。
したっけ。