透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「非日常」の演出

2006-10-26 | A あれこれ

「建築家とアートがつくり出す空間を損なうもの」というタイトルの記事を目にした(「建築ジャーナル」 2006/10)。
この7月に開館した青森県立美術館に関する話題だ。

美術館という「非日常的な空間」のなかのレストランの家具や器、あるいは壁の絵などがすべてありふれたものだ、とこの美術館を取材した記者が指摘している。非日常の空間のなかにそれとは無関係に日常的な空間がある、ということだ。美術館全体のイメージにそれはマイナス。でもこのようなことはときどき経験する。

では、建築の内部の全てが非日常な空間で満ちていればそれでOK、ということなのだろうか・・・。

音楽ホールでも外に出た瞬間に街の喧騒に巻き込まれて余韻にひたることなしに日常に引き戻されてしまう、ということを経験する。非日常的な空間は単に建築の内部だけに限定されていてよいわけではない。そういう観点で最近の建築のロケーションをみると、疑問に思わざるを得ないところが少なくないように思う。日本の都市にはもはや恵まれた環境が無いのかもしれない。

周辺環境との親和性を断ち切ってひたすら自閉する建築が多いのは、そのことの証左なのか、設計者の努力が足りないのか、諦めの結果なのか・・・。

「まつもと市民芸術館」もまさにそのような場所に創られた。伊東さんも、自閉した建築を設計した。ただしメインホールの入り口を一番奥にして、敢えてエントランスからの動線を長くしている。そうすることで建築の内部に余韻に浸る空間を確保しようという意図がみてとれる。尤もそうすることで一番高くなるステージを後方に置かないで周辺への圧迫感を軽減するという意図もあるだろうが。

この芸術館のコンペの応募案で、このような発想で客席を前面道路に向けた案は他には無かった。 伊東さん、凄い!と思ったことを覚えている。

その意図に沿って演奏の余韻に浸りながらゆっくりエントランスに向う。館外に出る前にレストランでコーヒーでも飲みながら、さらにその時間を延ばしたい。

頭の中にはそのようなシミュレーションができているのだが、なかなかコンサートを聴く機会が無いのが残念だ。