透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

抽象的な建築の抽象的な人間

2006-10-03 | A あれこれ


路上観察 松本市内にて

 青木淳(*1)は最近の雑誌(建築技術 10月号)に青森県立美術館について「コンペ時におけるプロジェクトの発想」と題する小論を寄せている。

その中で**現在の美術館展示室の主流はホワイトキューブである。白い長方形の部屋。均質な光。サイズとプロポーションだけに還元された四角い部屋。世界中にホワイトキューブの展示室が広まっているし、多くの美術作家もまたそれを望んでいる。**と指摘している。このような「抽象的な建築」は美術館だけにとどまらず、最近のあらゆる用途の建築の特徴のようにも思われる。青木はこのあとに**しかし私たちは、青森にあってここでなければできない空間をもつことも、同じくらいに重要だと考えた。**と続け、敢えてそういう建築にはしなかったと書いている。

*1 青森県立美術館の設計者

塩尻市の「市民交流センター」の一次審査に残った5作品のプレゼンテーションボードに描かれた建築はどれもこの特徴を備えている。そこに描かれているパース(完成予想図)からは、実体としての建築がイメージしにくい。点景として描かれている人間も抽象的な形をしている(以前5作品を紹介しているサイトのアドレスを載せたので確かめて欲しい)。(09/21のブログ)

先日松本市内で見かけたショーウィンドウのディスプレイを見てふと思った。最近パースに描かれる抽象的な人間と同じではないか、と。

抽象的な空間には抽象的な人間が似つかわしいということなのだろうか。生身でない、無機的で抽象的な人間、実社会でも人をそのように捉えてしまう傾向があるのかも知れない。そしてそのことと最近の理解不能な悲惨な事件とも或いは関係があるのかも知れない。


 


「木精」 北杜夫

2006-10-03 | A 読書日記

 先日、東京へ日帰りで出張した。私には車中は最適な読書空間。

『木精(こだま)』北杜夫/新潮文庫を持参した。往路の3時間に加えて、セミナーの休憩時間で読了した。再読することはあまりないが、この小説と『幽霊』だけは繰り返し読んできた。81年、96年、00年に続き今回で4回目だ。

人妻との不倫関係を清算するためにドイツに留学した青年医師が、帰国する直前トーマス・マンゆかりの地を辿る旅に出る。旅の終りに作家として生きることを自覚して『幽霊』を書き出す・・・。

不倫関係の清算などと書いてしまうと、なにやら俗っぽい小説のようだが、たまたま恋した女性が既婚者だったということだ。それはあたかも初恋物語のように初々しい。
 
**ぼくは椅子にかけた女に近づき、その腕を調べようとして、なにげなくその顔立ちを見た。すると、幼いころから思春期を通じて、ぼくが訳もなく惹きつけられていった幾人かの少女や少年の記憶が、たちまちのうちに、幻想のごとく立ちのぼってきた。あの切り抜いた少女歌劇の少女の顔にしても、たしか片側は愉しげで、もう一方の片側は、生真面目な、憂鬱そうな顔をしてはいなかったか。その女性―まだ少女っぽさが残っている彼女の顔は、あの写真の片面同様、沈んで、気がふさいで、もの悲しげだった。**

蕁麻疹の治療のために往診して初めて会った女性の最初の印象はこうだ。

**君を愛したということは、或いはぼくの人生が表面的な不幸の形で終るにせよ、なおかつ幸福であったといえることにつながるのだ。倫子、ではさようなら。ぼくは自分のもっと古い過去の時代に戻っていかねばならない。それを書き造形することがぼくの孤独な凍えた宿命なのだから。**

物語の終盤でこの恋を主人公はこのように総括する。

そして「人はなぜ追憶を語るのだろうか」に続けて「どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。・・・」と『幽霊』を書きはじめる。
『木精』は『幽霊』の続編とされているが、『木精』『幽霊』の順に読むのもいいかもしれない。次回はそうしたい。

この小説を越える作品などないということを確認するために読書を続けているようなものだ、と書いてしまおう。