〇 最近の新聞(記憶が曖昧、たぶん市民タイムス)から
老人力がついてきた方にはこの写真はちょっときついかも知れませんね。一番上のあづみ野の里が見えますか? 一番下のあずみ野温泉ホテル、読めますね。安曇のひらがな表記には「あづみ」と「あずみ」両方あるんですよね。電話帳で調べても両方載っています。
安曇って海洋民族の安曇族に由来するってことは聞いたことがあります。各地の神社に残るお船祭りって海洋民族のなごりなんだとか・・・。で、「づ」と「ず」 どっちなんだ、ってことを調べようとすると一気に古代史の世界に入り込んでしまうんですよね。
海人津見「あまつみ」が「あつみ」に転化したもの、だから「あづみ」。
ちょっと俗っぽいのかな、海女住み「あますみ」から「あずみ」なんだと聞いたこともあります。
この海洋民族は九州地方から各地に移動していって今の安曇野には日本海側を北上して糸魚川から姫川沿いに入ってきたとする説が有力なようですね。途中、「安曇郷」鳥取、「安津見」石川、「安住」富山などと地名に名を残しながら移動してきたんだ、などと聞かされると、なるほど!と思ってしまいます。九州に有明海があって、安曇野には有明山があるだろ、海がないから山に同じ名前を付けたんだなんて駄目押しされると、酒飲み話としては説得力抜群、盛り上ってしまいます。太平洋側から入ったという説もあるようで、途中渥美(あつみ)半島にその名を残したんだとか。
ところで、邪馬台国がどこにあったのか、という謎をめぐっては学者や作家、一般の古代史ファン達がいろんな説を唱えて盛り上った時期があったんですね。作家の中にはあの松本清張もいました。清張はそれを小説にも論文にも書きました。小説のタイトルは忘れましたが、東経135度の線上に位置する何だっけかな、何かが卑弥呼に関係するもので135をヒミコと読ませていたものがありました。これは清張の単なる思い付き、遊びでしょう。
地名の由来が古代史にまで繋がっているというのは驚きです。暇な時間が増えたらこんなことを調べてみるのも楽しいでしょうね。