透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「身体知 カラダをちゃんと使うと幸せがやってくる」

2013-05-12 | A 読書日記



■ 『身体知 カラダをちゃんと使うと幸せがやってくる』 内田樹 三砂ちづる/講談社+α文庫 なんとなく興味があってネット注文で入手した。

ざっと読んで、なるほどと思ったところを以下に記す。

今日読んだこの本(内田樹さんと三砂ちづるさんの対談を収録した本)にこんなくだりがあった。内田さんの発言。**デートというのも基本的に「いっしょにごはんを食べに行くこと」ですよね。どうしていっしょにごはんを食べるかって言えば、ごはんを食べている時に、美味しいかどうかで、その人といて楽しいか楽しくないかがわかるからですよ。**(47頁)

この指摘には素直に頷くことができる。

次は三砂さんの発言。**コミュニケーション能力が持てない、相手のことをきちんと信頼できない、というのはどこから来ているのでしょうか。(中略) いちばん最初の母子経験はとても大切なものではないか、と考えています。(中略)言語化される以前の受容の感覚、自分の思いが相手に伝わっている、という安心感が必要なのだと思います。**(167頁)

内田さんがこの発言を受けて次のように発言している。**本当に大事なのは、他者が発する「ノイズ」を「声」に変換して聴き取るという、強引な力業なんだと思うんですよ。**(170頁)

**母子関係において子どもが最初に発するのは言語ではないです。ノイズです。ノイズをお母さんは声として聴き取っているわけですよ。幼児のコミュニケーション体験というのは、意味をなさないノイズを発しても、それを声として聴き取ってくれた人が「いる」という原事実にあると思うんです。それがコミュニケーションに対する根本的な信頼をかたちづくる。ぼくはそう思うんです。**(170頁)

至極当然、この指摘にも素直に頷くことができる。

発言の全てに共感できたわけではないが、今年は何でも読んでやろうと思っているから、よしとしておく。


 


「古事記の宇宙 ―神と自然」

2013-05-12 | A 読書日記



■ 昨年(2012年)は『古事記』撰上から1300年にあたる節目の年で、書店には「古事記本」が並んだ。『古事記』は教科書でその名を目にするだけで全く縁のないものと思っていたが、上巻の神話の世界を覗いてみておもしろいと思った。小学生の時に読んだ海幸彦・山幸彦や稲羽(因幡)の素兎(しろうさぎ)などの物語との再会だった。

『古事記の宇宙 ―神と自然』千田 稔/中公新書を読み終えた。著者は『古事記』の神話には日本人の自然の捉え方、自然観が反映しているという考えに基づき、『古事記』から日本人の自然観を読み解くという試みをしている。

以下、読後の備忘録。

第3章 海―神々の原郷  **海のかなたに神がいるとする信仰は、海のはるかかなたに対する憧憬であって、(中略)日本文化の成立には常に海洋民的な動機があったとみてよい。**(68頁)

この章に出てくるイザナギ・イザナミの二神による国生み神話は混沌とした海を矛でかき混ぜ、その矛を引き上げる時に落ちたしずくが島になったという何とも壮大な物語だが、やはり小学生の時に読んだ記憶がある。

海幸彦と山幸彦の物語では兄の海幸彦から借りた釣り針を失くして困り果てた弟の山幸彦を海の神様の娘が助けてくれる。やがて山幸彦は神様の娘(トヨタマヒメ、豊玉毘売)と結婚する。ちなみに神武天皇はこのふたり、もといこの二神の孫にあたる。

著者はこの物語と浦島太郎の物語との類似性を指摘している。日本人の海に対する親和性、憧憬を示した物語というような視点で浦島太郎を読んではいなかったが、このような指摘を読むと、なるほど!確かにと思う。

海での出来事が次々と新しい神を誕生させる・・・。海は産むものというシンボル性を持つという著者の指摘。海(うみ)と産む(うむ)は音が似ている。もしかしたら同じ語源なのかもしれない。

海で誕生した生命  はるか彼方のできごとを人類は神話という形式で語り継いできているのだろう・・・。

以下本書は

第4章 山―神と精気

第5章 植物―王権と精霊

第6章 鳥―天と地を結ぶ

第7章 身体―内なる自然

終章 言霊としての『古事記』

と続く。

第6章の鳥について読んでみたいと思って買い求めたが、他の章も興味深く読んだ。

なにかを読み解く時には視点を明確に設定することがポイントだと改めて思った。