■ 柴井博四郎さんの『紫式部考』(信濃毎日新聞社2016年 図書館本)を昨年(2023年)2月に読んだが、やはり柴井さんの『源氏物語はいかに創られたか』(信濃毎日新聞社2024年 図書館本)を読んであれこれ考えた。
『紫式部考』に関連した記事を2023年2月16日に書いている(過去ログ)。その記事の最後は次の通り(一部書き改めた)。
**『紫式部考』は「なぜ紫式部は『源氏物語』を書いたのか」という自問に大きなヒントを与えてくれた。紫式部は光源氏亡き後、浮舟に彼の役を引き継がせる。「雲隠」の内容は浮舟の死から再生への道に暗示されている。紫式部は愛しい我が子、光源氏の再生という願いを浮舟に託した。浮舟は入水を決意して、実行する。だが、僧都に発見されて命を救われる。その後、浮舟は出家して仏に救われる。このことは紫式部が光源氏に向けた願いでもあった。光源氏を退廃した貴族社会の象徴、とまで読むかどうか・・・。読むなら退廃した貴族社会の再生ということになるが。**(注:拙ブログでは引用範囲を**で示している)
朝カフェ読書@スタバ 2024.05.13
『源氏物語はいかに創られたか』で著者の柴井さんは『源氏物語』の作者紫式部の想いを読み解く。柴井さんはこの長大な物語が、細部まできっちり頭に入っているのだな。読んでいてそう感じた。
本書で柴井さんはズバリ、次のように説いている。**『源氏物語』の主人公は浮舟であり、紫式部が意図するテーマは、浮舟の「死と再生」であり、それは、源氏、さらには平安貴族社会の「死と再生」を意味していると考えられる。**(84頁)
このくだりを読んで、やはり紫式部は貴族社会の退廃を嘆き、その再生の願いをこの長大な物語に託したのだな、と思った。柴井さんは浮舟について、本書全体のおよそ半分の頁を割いて論考している。
以前、NHKの100分de名著「源氏物語」4回分の再放送(4月7日午前0時40分~)を録画で見たことを思い出す。番組では**国文学者で平安文学、中でも「源氏物語」と「枕草子」が専門だという三田村雅子さんが解説していた。三田村さんは物語最後のヒロイン浮舟が好きだと言っていた。浮舟には紫式部の願いが投影されているとも。**(2024年4月9日の記事の一部を転載した)
『源氏物語』全五十四帖のうち、最後の十帖が「宇治十帖」で、ここに最後のヒロイン・浮舟が登場する。柴井さんの見解によれば、浮舟はこの長大な物語の主人公、三田村さんは浮舟に紫式部の願いが投影されていると指摘している。
この「宇治十帖」については紫式部ではなく別人が書いたのではないか、という説が昔からあるという。ぼくもこの説を唱える本を読んだ(*1)。
だが、ぼくはただ単に願望として、紫式部がしがらみを解き、書きたいことを書きたいように書いた結果だと解したい。
紫式部にも出家したいという願望があったのだろう。横川(よかわ)の僧都に助けられ、出家した浮舟は紫式部が理想とする姿。浮舟は薫が俗世に引き戻そうとするのを、毅然とした態度で拒否する。このラストに紫式部は思いの丈を込めたのだ。こう考えると、唐突な終わり方だという印象も変わる。実に効果的な結末ではないか。
柴井さんが『源氏物語はいかに創られたか』で示した、浮舟が主人公だという見解を知り、浮舟は紫式部が理想とする姿だという三田村さんの指摘を考えあわせると『源氏物語』のこのラストが説得力をもって迫ってくる。
『源氏物語』を再読する気力は無いが、「宇治十帖」を再読しようかな、と思っている(などと書くと読まなくてはならないことになるが・・・)。
*1『データサイエンスが解く邪馬台国 北部九州説はゆるがない』安本美典(朝日新書2021年)
本書で、安本さんは単なる印象論ではなく、直喩、色彩語、助詞など文体に関するいくつかの項目について計量分析を行い、「宇治十帖」には他の四十四帖と偶然とはいえない違いがあることを示している。