壇上伽藍
■ 宿泊した恵光院を8時半過ぎにバスで出発して壇上伽藍に向かう。伽藍北側の道路から階段を上り、根本大塔の西側に出る。
以下、旅行前に読んだ本やリーフレット等を参考に記した旅行記録。
金堂
正面に金堂の背面を見る。高野山の堂塔は火災で焼失したものが多い。この金堂は1926年(昭和元年)に失火で焼失、1932年(昭和7年)に再建された。
御影堂
檜皮葺きの方形の屋根、吊り上げ式の格子戸、内側に障子戸。 低く抑えられた御堂は落ち着いた佇まい。伽藍内の御堂で一番美しい。
御影堂越しに根本大塔を見る。右側は松葉が3本という珍しい三鈷の松。弘法大師が唐から帰国する際、伽藍建立の地を占うために投げた三鈷が架かったと伝えられる。人を写さないように気を使ったが、やはり人がいた方が現実感があっていいかも。
西塔
伽藍の西北の隅に樹木に囲まれて建つ多宝塔。この塔は1834年の再建。
大屋根の出が大きいので4隅に柱を立てて支えている。法隆寺の金堂にも同様の柱が立っているが、確か後年建てたものだった。この柱は建立当初からのものだろう。
六角経蔵
鳥羽上皇の菩提を弔うために皇后の美福門院得子が1159年に建立した。この蔵は1934年(昭和9年)の再建。
回廊の下の環状の帯の部分は象の鼻を模したと思われる腕木を力を合わせて押すとまわる。右まわりで1回転すると願い事が叶うと聞き、同行者何人かでまわしたが、1回転する前に止まってしまった。上層の軒裏を白く塗ってあるので他の堂塔とは印象が異なる。
根本大塔
高野山開創の816年頃着工、887年頃竣工、工期約70年。高さ約50メートル。この塔は1937年(昭和12年)の再建。鉄筋コンクリート造。上層の屋根を支える柱は無い。高野山で最も有名な建物かもしれない。
東塔
西塔とともに9世紀後半に建立されたが何回か焼失、この塔は1984年(昭和59年)に建てられた。中尊は尊勝仏頂尊、脇侍に不動、降三世の両明王を祀っている。
不動堂
1198年、鳥羽上皇の皇女・八条女院の発願により建立された。高野山に現存する最古の建造物で国宝。四方の屋根がそれぞれ異なった形をしている。4人の大工が打ち合わせ無しで4方から造りだしたからだ、という冗談を案内の方から聞いた。優雅な姿が好ましい。
本尊の不動明王の脇侍の八大童子(国宝)のうち、6体は、運慶とその一門の作だという。八大童子はサントリー美術館で12月7日までの会期で開催されている「高野山の名宝」展に出張中。東京まで出かけていくか・・・。
蛇腹路と呼ばれる伽藍へのアプローチの紅葉
六時の鐘@蛇腹路の起点
作家の高村薫が新聞に「21世紀の空海 高野山開創1200年」という記事を連載しているが、その第16回目の記事(信濃毎日新聞11月20日付朝刊文化面)で**高野山はもはや真言密教の道場というより、人びとに死後の安寧を約束する霊場として日本じゅうに認知されていたのである。**と書いている。
奥之院の記念燈籠堂に納められた燈籠や参道のおびただしい数の墓石などを見ると、この指摘が十分な説得力をもって迫ってくる。