透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

知的喜び 感覚的喜び

2024-03-28 | D 新聞を読んで

 信濃毎日新聞の文化面。毎週火曜日は「火曜アート」、アートに関する記事が掲載される。「国・個人超えた 感覚的喜び」は3月26日(火)に掲載されたアート逍遥の記事の見出し。この記事のもう一つの見出しは 東京都美術館「印象派   モネからアメリカへ」展 。4月7日まで開催されている同展の解説記事で、作家の中野京子さんが印象派の絵画について書いている。

知的喜びから感覚的喜びへ

ぼくは文中のこの言葉に惹かれた。西洋美術史の大きな変換点を捉え、的確にそしてこれ以上無いほど簡潔に表現しているから。ぼくも知的好奇心、美的感性というような言葉を何年も前から使っているが(過去ログ)。感覚的喜びというのは美的感性を刺激されるという喜びということであろう。

記事から引く。**注文主が教会や王侯貴族など超富裕層に限られていた時代は、歴史、神話、聖書といった教養必須の大作が求めらてきたが、(後略)**

宗教画には宗教的な約束事がある。このことについて『名画を見る眼Ⅰ』高階秀爾(岩波新書1969年10月20日第1刷発行、2023年5月19日カラー版第1刷発行)から引く。**マリアの服装は、(中略)普通は赤い上衣に青いマントをはおることになっている。(中略)キリスト教の図像学では、赤は天の聖愛を象徴し、青は天の真実を象徴することになっているため、聖母の衣装はつねにこのふたつの色の組み合わせによるということに決められているからである。**(51頁)

だからラファエロでもレオナルドでもボッティチェリでも色は同じ。これは一例に過ぎず、約束ごとはいろいろある。宗教画鑑賞にはこのような約束ごとに関する知識が必要というわけだ。

時は流れ、時代は変わる。印象派からポスト印象派へ。

また記事から引く。**(前略)知識無しで、つまり己の感覚だけで絵を楽しみたい、と思う鑑賞者が増えていたのだ。読み解く絵から、意味のない、見て疲れない絵への移行、知的喜びから感覚的喜びへの移行である。**

印象派といえばモネ、モネといえば「睡蓮」。でもぼくは印象派の絵よりその後、ポスト印象派の絵の方が好きだ(*1)。中でもセザンヌの絵。例えば「リンゴと桃のある静物」。机上の対象物の形を輪郭線によって表現している。このような表現は好み。そして、もっと好きなのがマティス。

ポスト印象派の定義、範囲は曖昧でよく分からないが、「芸術新潮」の特集記事に掲載されているポスト印象派の系統図にはマティスやキュビズムのピカソやブラックまで入っている。ブラックの作品も好き。

現在、国立新美術館で「マティス 自由なフォルム」展が開催中(02.14~05.27)だ。この展覧会には行く。

構成も考えずに書き出してしまうと、まとまりのないこんな記事になってしまう・・・。ま、いいか。


*1 「芸術新潮」4月号を買い求めた理由(わけ)、それはポスト印象派の画家と作品を特集していて、そのナビを原田マハさんがしているから。


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