■ 信濃毎日新聞の今日19日の地域面(17面)に上掲した見出しの記事が載っていた。
記事は現在の安曇野市出身の臼井吉見の『安曇野』が現在絶版で、二つの市民団体がこの小説の復刊に向けた協議を発行元の筑摩書房と進めるよう、安曇野市の太田市長に要望したことを伝えている。また、太田市長は筑摩書房の喜入冬子社長と7月に面会した際、復刊を要望し、その時、喜入社長から安曇野市の一定額の負担があれば文庫本の復刊は可能という回答を得たということも伝えている。
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今年(2023年)7月12日に堀金公民館で筑摩書房の喜入社長の講演会が開催され、私も参加したが、会場に太田市長の姿もあったからこの時に話しをされたのだろう。尚、この日は臼井吉見の命日。
筑摩書房は現塩尻市出身の古田 晁が創業した出版社だが、古田 晁と臼井吉見は大正7年(1918年)旧制松本中学(現松本深志高校)に入学し、その日に出会った。その後、共に松高、東大に進学した親友同士。
古田 晁は出版社の創業について臼井吉見に相談していて、筑摩書房という社名は臼井が提案したということはよく知られている。また、筑摩書房が経営危機に陥った際には、臼井が企画した「現代日本文学全集」の出版が筑摩書房を救うことになった、ということも知られている。だから、講演で『安曇野』が現在絶版であることを聞いた時はびっくりした。筑摩書房は臼井吉見が10年がかりで書いた代表作『安曇野』を絶版にしてはいけないと思う。
本は次々絶版になる。売れなくとも名作は出版し続けるという責務が出版社にはあると私は言いたい。
晩年、古田 晁は健康を損ない禁酒していたそうだが、臼井吉見から『安曇野』の脱稿を聞いて飲酒。梯子して行きつけのバーで倒れ、自宅に送られる車内で亡くなったこと、駆け付けた臼井吉見が号泣し、泣き声が家の外まで聞こえたこと、また『安曇野』の刊行記念の祝賀会では臼井吉見の席の隣が空席で、そのことについて臼井吉見が挨拶で触れたことなどを別の講演で聴いた(過去ログ)。
安曇野という呼称がいつ頃からあるのか知らない。だが、臼井吉見の『安曇野』によってよく知られるようになったということは知っている。『安曇野』の復刊を願う。