■ 「ぼくはこんな本を読んできた」 このカテゴリーの最終、100稿目は北 杜夫の作品。
北 杜夫の作品は文庫本で38冊、単行本他でも同じくらい書棚にあるが、次の4作品を取り上げたい。
『どくとるマンボウ青春記』(中公文庫1973年6版)
『幽霊』(新潮文庫1981年29刷)
『木精』(新潮文庫1979年4刷)
『楡家の人びと 上下』(上:1978年16刷 下:1978年14刷)
『どくとるマンボウ青春記』過去ログ
**そうしたつまらない、そのくせ貴重なように思える数々の追憶も今は幻(まぼろし)となって、闇に溶けこんでいる。私は卒業生で、たとえ松本にいるにせよ、もはや松高生ではないのであった。たしかに、あれこれの変ちくりんな友人たちの姿は私のかたわらにすでになく、自分は借着のように身につかぬ大学生とやらになって、ただ一人、懐しさのこびりついた町を単なる外来者として蹌踉(そうろう)と歩いているのだな、と私は思った。**(173、4頁)
北杜夫はこういう表現が上手い作家だなあ、と改めて思う。私が惹かれるのは作品に漂うこの寂寥感。
『幽霊』過去ログ
『木精』過去ログ
**ぼくは椅子にかけた女に近づき、その腕を調べようとして、なにげなくその顔立ちを見た。すると、幼いころから思春期を通じて、ぼくが訳もなく惹きつけられていった幾人かの少女や少年の記憶が、たちまちのうちに、幻想のごとく立ちのぼってきた。あの切抜いた少女歌劇の少女の顔にしても、たしか片側は愉しげで、もう一方の片側は、生真面目な、憂鬱そうな顔をしてはいなかったか。その女性―まだ少女っぽさが残っている彼女の顔は、あの写真の片面同様、沈んで、気がふさいで、もの悲しげだった。**(33頁)
ぼくはブログにこの件を何回も載せた。
『楡家の人びと』過去ログ
下巻のカバー折り返しに三島由紀夫の書評が掲載されている。その一部を抜粋する。
**戦後に書かれたもっとも重要な小説の一つである。
これほど巨大で、しかも不健全な観念性をみごとに脱却した小説を、今までわれわれは夢想することもできなかった。
これは北氏の小説におけるみごとな勝利である。これこそ小説なのだ!** 三島、激賞。
本稿を以って「ぼくはこんな本を読んできた」を終了するが、総括的な一文を別稿で書きたいと思う。
安部公房、夏目漱石、北 杜夫、この3人で文庫本80冊。 131
そういえば、昨日今日とラジオ深夜便でやっていた浅田次郎の「書くことは至福」のインタビューも面白かったです。この作家も案外遅咲きなんですね。
私もラジオ深夜便で浅田次郎の話を聞きました。40歳で作家デビューしたんですね。
きっちり仕事をしているんですね。ギャンブルのせいにされたくないから、とのことでした。
書くことが至福とは言うこと無しですね。