254 冬のフォトアルバム 火の見櫓のある風景
安曇野市三郷七日市場にて 撮影日120212
塩尻市洗馬の道祖神
■ 伊耶那岐神は、亡くなってしまった妻、伊耶那美神に会うために黄泉国(よみのくに)を訪ねる。そこで「国造りはまだ終わっていない、一緒に帰ろう」という。伊耶那美神は「もう黄泉国の竃で料理されたものを食べてしまったから無理だと思うが、神々に相談してみます」と言って、扉の奥へ行ってしまう。いつまで経っても戻ってこないので、伊耶那美神から中をのぞかないでくださいと言われていたのに、伊耶那岐神はしびれを切らして神殿の中へ入って行く・・・。
そこで目にしたのは全身にうじを湧かせた伊耶那美神の姿だった・・・。「私に恥をかかせましたね」と伊耶那美神。逃げる伊耶那岐神の後を黄泉醜女(よもつしこめ)が追い掛けてくる。醜女を追い払って黄泉比良坂を逃げる伊耶那岐神を伊耶那美神自身が追いかけてくる。伊耶那岐神は黄泉国と葦原中国(あしはらのなかつくに)の境を千引岩(ちびきのいわ)で塞いでしまう。この千引岩を道反之大神という。この道反之大神が塞神(さえのかみ)、道祖神の原型だという説があるという。
また、天照大御神の孫の邇邇芸神が天から降臨する際にガイド役を務めた猿田毘古神が道祖神だともいわれている。尚、邇邇芸神が天から降臨するとき、随行した神の中に天岩戸の前で裸踊り、ストリップショーをした天宇受売命(あめのうずめのみこと)もいた。
道祖神と古事記に出てくる神がこのように関係していたとは・・・。
『古事記』 橋本治/講談社 21世紀版少年少女古典文学館 (監修 司馬遼太郎、田辺聖子、井上ひさし)
■ 古事記の上巻には多くの神々が登場する。天地の始まりとともに天(高天原)に最初に登場したのが天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。名前の通りの神。その後誕生する5組の男女ペアの神のうち、伊耶那岐神(いざなきのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)を覚える。いざは誘うこと、きは男性、みは女性をあらわす。
伊耶那岐神は、火の神を生んだ際に大やけどをして亡くなった伊耶那美神に会いに黄泉の国へ行く。黄泉の国で禁をおかして伊耶那岐神が目にしたショッキングな光景。伊耶那岐神は黄泉の国から逃げ帰ってきて、穢れを落とすために禊(みそぎ)をする。その時に多くの神々が生まれる。そのなかに天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の姉弟がいる。天照大御神が天の岩屋戸の中にかくれてしまったのは弟のせい。高原原を追放されて出雲国に降り立った須佐之男命が八俣の大蛇を退治する。
須佐之男命の6代目の子孫が因幡の白うさぎを助けた大国主神。大国主神には兄弟が80柱もいた。神は○柱と数える。兄弟に2度殺されたので(生き返っているが)母親神が心配して、木国(きのくに、紀の国)へ逃げるように指示する。逃げて逃げて、須佐之男命がいる根の堅洲国まで逃げていく。ここで須佐之男命の娘、須勢理毘売(すせりびめ)と恋仲になる。この姫は今でいう肉食系女子だったのですぐに「して」しまう。6代も前の先祖の娘だから、時系列的に不自然だが、神々の世界ではある話。
因幡の白うさぎを助けた大国主神だが、様々の国へ出かけていって、その土地に住む美人と次々に結婚して、180人、じゃなかった、180柱も子どもがいた。恋多き神だったのだ。因幡の白うさぎの予言通り、八上比売(やがみひめ)と結婚したときは、既に正妻として須勢理毘売がいた・・・。
その後、大国主神は少名毘古那神(すくなびこなのかみ)、それから大物主神(おおものぬしのかみ)とともに国づくりを進める。
*****
大国主神や息子の建御名方神(たけみなかたのかみ)が国譲りを了承してから、天照大御神の孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)が地上の統治を始める。諏訪大社は建御名方神を祀っている神社。そう、諏訪大社は因幡の白うさぎを助けた大国主神の息子を祀ってあるのだ。
邇邇芸命の3人の息子のうち、長男が海佐知毘古(海幸彦)、三男が山佐知毘古(山幸彦)。この兄弟の物語を小学生の時に読んだのだった。で、山佐知毘古(仕事を交換してみようということで、海に釣りに出かけていって、兄の釣り針をなくして苦労する)の孫のひとりが神武天皇。そうだったのか・・・。
以下「古事記」の中巻に続く・・・。
神武天皇は実在しないとかいう議論はあまり意味がないというか、史実として捉えるのではなくあくまでも神話、神話の延長線上にある物語として考えるべきだろう。キリストの父親は誰だと問わないのと同様に・・・。まあこのあたりのことについては異論、反論があることを承知しているからこの辺で。
■ ショパンはピアノの詩人、シャガールは色彩の詩人。
作曲家を10人挙げてくださいと言われれば、ベートーベンとモーツァルト、それからバッハ、シューベルトは間違いなく入るでしょう。画家ではピカソやゴッホ、シャガールの名前が必ず入るのではないでしょうか。セザンヌはどうかな・・・。
松本市美術館では開館10周年を記念して「シャガール展」が開催されています。チケットにはシャガールの代表作、「街の上で」が使われています。空に浮かんでいるのはシャガール自身と奥さんのベラ。幸福な日々を送っていた時の油絵ですが、色彩はシャガールにしては地味です。もっとも、モノクロのような作品もありましたが。
会場は第Ⅰ章 故郷ロシア(シャガールはベラルーシの出身)、第Ⅱ章 結婚―幸福な日々、第Ⅲ章 悲しみの日々そして追憶・幻想へ、第Ⅳ章 版画シリーズ「ダフニスとクロエ」という構成で、約100点の作品が展示されています。
「ダフニスとクロエ」は北杜夫が『神々の消えた土地』という瑞々しい長編小説のモチーフにしていました。この章にはカラーリトグラフの作品が42点展示されています。「クリアリスティから着物を着せられ髪を結ってもらうクロニエ」という長いタイトルの作品が印象に残りました。リトグラフは好きですし、基調色の濃いワインレッドも好きですから。
色彩豊かなシャガールの作品が並ぶ会場は一足先に「春」が訪れたかのようでした。
「古事記」21世紀少年少女古典文学館 橋本治/講談社
■ 昨日(12日)松本駅前の丸善で「古事記」に関する本を探しました。「古事記」 上勉のさし絵がすばらしいです。
残念なことをひとつだけ挙げます。それは神様の名前がカタカナ表記なことです。例えば、高天原に最初に出現した天御中主(あめのみなかのぬし)は天の中央にいて天地を支配する至上の神というように、名前はそのまま御神得をあらわしているということですから、漢字表記をして欲しかったです。ただし漢字は読めませんからふりがな付で。ただでさえ名前を覚えるのが苦手なのに、カタカナの神様は無理です、覚えることができません。
私は雑誌「日本の神様」徳間書店を参照しながら読みました。中身が濃いです。
因幡の白うさぎ(稲羽の素兎)の物語、八俣の大蛇(おろち)退治の物語、海幸彦・山幸彦(海佐知昆古・山佐知昆古)の物語。小学校の低学年の時に読んだことのあるこれらの神話、遥か昔の記憶がよみがえってきます。そして古事記の神話の大きな流れの中にそれぞれの物語が位置づけられていきます。
**日本人の心と行動すべての原初の姿を見つけることができる。**と本のカバーにありますが、神様たちも嫉妬するし、悪さもするし、本当にその通りです。
日本の神話がこんなに面白いとは! 定価1400円(税別) 安い!
■ 言葉に対して抱いているイメージは人によって少しずつ異なっている。例えば「数日」にも2、3日から1週間くらいまでの幅があるように。
「女子会」という言葉の女子について、私は年齢の上限はある、というイメージを抱いている。具体的にそれがどのくらいか、明確に示すことは難しいが、目安としては孫がいてもおかしくない年齢くらいだろうか。だからおばあちゃんが「今日は女子会に行く」という表現は、ちょっと馴染まないというか、違うんじゃないかな~、と思ってしまう。前々稿ではこのことを書きたかった。
今日、勤務先で同僚(女性)に聞いてみた。「女子会という言葉に年齢制限ってあると思う?」
「無いと思います」きっぱりと回答があった。「じゃあ、おばあちゃんが孫に、おばあちゃん今日女子会って言うのもありなんだ」と返すと、「かわいい(おばあちゃんだ)と思います」という答えが返ってきた。
なるほどね~ と思った。いつまでも気持ちを若く保つには言葉にも気を使うことって大事かも、と思った。「年相応」などということはあまり意識しないほうがいいのかも知れない。でもこれもケースバイケース、臨機応変にということだろうな・・・。
■ 松本市梓川に祀られている馬頭観世音塔です。これほど勢いのある字を彫った石塔を私は他に知りません。
馬頭観世音は「地獄」、「餓鬼」、「天上」などの六道のひとつ、「畜生」を教化する観世音菩薩の化身で煩悩や悪心を断つ功徳があるとのことですが、次第に馬の神様として祀られるようになったそうです。安曇野の馬頭観世音の半数以上が、このような文字塔だということです。石塔の右側面に万延元庚申八月十八日と彫ってあります。
東筑摩郡朝日村西洗馬
しばらく前に取り上げたこの庚申塔も万延元年の八月に建立されています。同じ年の同じ月です。庚申塔の多くは庚申の年に建立されたようですが、馬頭観世音塔もそうだったのか、いくつも調べてみる必要がありそうです。
前稿で紹介した道祖神、男神と女神を収める枠は桃の形と見ることができそうです。道教の影響で桃は邪気を祓う霊物だとされていたそうです。ですから桃の形は道祖神に相応しいです。桃太郎の話もこれと関連がある、と西川久寿男氏が『安曇野 道祖の神と石神様たち』/穂高神社(*1)の中で指摘しています。この本は長野の古書店で買い求めたのですが、とても参考になります。むかし話も奥が深いんですね・・・。
*****
■ さて本題、今回は「女子会」について考えるの巻。
女子会という言葉を聞くようになったのはいつごろからでしょう・・・。2、3年前からでしょうか。
「男子」と「女子」という言葉は小学生のころ「男子が掃除をさぼっています」とか、「女子は体操をきちんとしてません」とかなんとか、学級会といったのか覚えていませんが、そのような会でよく使われていました。あのころは男子と女子はなぜか集団では対立的な関係になることがよくありました。初恋の子が中にいても。
女子会という言葉、たとえばおばあちゃんが孫に向かって「おばあちゃんは今日の午後女子会で出かけるからね」と言うんでしょうか。女子会の女子には年齢制限ってないんでしょうかね。女子アナはどうでしょう。なんとなく年齢の上限があるような気がしますが・・・。
昔は婦人参政権とかあるいはズバリ婦人会とか、婦人という言葉が使われていました。「婦人公論」という雑誌もあります。婦人には年齢の上限はないでしょう。
次は女性。「女性セブン」という雑誌は今もあるのでしょうか、あるんですよね。働く女性、女性町長の誕生、え~と、女性消防団、「元始、女性は太陽であった」・・・。女性にも年齢制限はなさそうです。婦人と共に下限はあるのかな。成人した人の呼称というイメージでしょうか。
婦人、女性、女子 この並びって、なんとなく時系列に沿っているような気もします。時代と共に言葉も変わるということですね。でも孫に向かっていや、孫にではなくても、おばあちゃんが女子会と使うのはどうも私は違和感というか、不自然に感じるというか・・・。
中年の女性が少し自嘲気味に「おばさんの会」などというのもいかがなものかなと思いますが・・・。
どうも女子会に替わる言葉が浮かびません。このブログを読んでいただいている女性の皆さん、どうぞ「女子会」という言葉を使ってください。女子という言葉に相応しい程若くはなくても・・・。いやいや、いくつになっても利用するのは女子更衣室、女子トイレでしたね。
**明科町では、昭和の初期までは各で二十三夜講が行われていた。(中略)古くは男のみでやっていたが、後には女性にも楽しみがなくてはいけないとして、男は庚申講を、女が二十三夜講をするようになった** (*1 117頁) (筆者注:明科町 現在は安曇野市明科)
そうか、明科の二十三夜講って女子会だったんだ!「おじいさん、あたしゃ、今夜○○さんのところで女子会ですからね」か・・・。
塩尻市の下小曽部大日の双体道祖神
■ 鬼は節分の豆まきに欠かせないキャラクタ―ですが、この鬼って、厄神を具体的なものとして可視化したものなんですよね。目に見えないものを可視化することで、みんなで共通なものとして認識することができるわけで、これってすごく意味のあることのように思います。仏の姿を具体的な形で表現した仏像の場合もそうです。
*****
厄神というのは空間の境目、時間の境目から侵入してくると考えられているということで、道祖神は集落の入り口やはずれ、つまり空間の境目に祀られていることが多いですし、豆まきは節分、つまり時間の境目に行われます。道祖神のことを塞(さえ、さい)の神ということも頷けます。塞は塞ぐという意味ですから、空間の隙間を塞ぎ厄神の侵入を防ぐ神様と理解することができるというわけです。
この道祖神は抱肩握手像です。男神と女神がお互い相手の肩に手をかけ、握手をしています。道祖神によくみられるポーズです。裏面に下小曽部村中と彫ってありますが、他の文字は見当たらず、建立年も分かりません。像の摩耗の状態などから古いものだろうと思います。
道祖神にはこのように仲のいい神様が彫られていますが、これは熱々のところには厄神は寄りつこうとはしないと考えられていたからだとか。
**道祖の神々に官能的な姿態をとらせ、生命力の旺盛さを強調し、それによって悪霊などの外敵の侵入を防ごうとした人たちの心根は微笑ましい。**『道祖神』降旗勝次編/鹿島出版会に収録されている加藤氏の「三国街道の道祖神」より引用(182頁)
道祖神巡り まだまだ続けます。
大黒様
大きな袋を 肩にかけ
大黒様が 来かかると
ここに因幡の 白うさぎ
皮をむかれて 赤裸
大黒様は あわれがり
きれいな水に 身を洗い
がまの穂綿に くるまれと
よくよく教えて やりました
大黒様の いうとおり
きれいな水に 身を洗い
がまの穂綿に くるまれば
うさぎはもとの 白うさぎ
大黒様は 誰だろう
おおくにぬしの みこととて
国をひらきて 世の人を
助けなされた 神様よ
作詞 石原和三郎
作曲 田村 虎蔵
この歌、今の若い人たちには馴染みがないかもしれません。「今の若い人たち」、なんだか年寄りの台詞のようでいやですが・・・。
この歌の大黒様は大国主神(おおくにぬしのかみ)のことです(私は大国主命(おおくにぬしのみこと)と記憶しています)。ですから大黒様という漢字表記ではなく、大国様が正しいのではなかと思います。このことについて今読んでいる『日本の神様』徳間書店には大黒天について**「だいこく」という音や大きな袋を担ぐ姿から大国主と同一視され(後略)**(57頁)とあります。
この雑誌には青木繁が描いた「大穴牟知命」という絵が載っています。大穴牟知は大穴牟遅(おおなむぢ)と表記するのが一般的なようですが、大国主神の別名です。青木繁は「海の幸」で有名な画家ですね。日本の神話をモチーフにした絵も描いていて、この絵もその内の一作です。
さて絵について簡潔に説明したいのですが・・・。
大穴牟遅神(おおなむぢのかみ 神様の名前は難しいです)には多くの兄弟神がいて、ある時、稲羽(因幡・鳥取県)に住んでいる八上比売(やがみひめ)に求婚しようと出かけて、途中で因幡の白うさぎと出会った、というわけです。
和邇(わに)に皮をむかれて苦しんでいた白うさぎに「海水を浴びて、風のよく通る高い場所で横になるのがよい」と、とんでもないことを言ったのは「八十神」と呼ばれた兄弟神たち。荷物持ちとして同行していた(だから大きな袋を肩にかけていたんですね)大穴牟遅神が後から通りかかって白うさぎを助けたんですよね。経緯は歌詞の通りです。
助けてもらった白うさぎは予言します。「八上比売と結婚できるのはあなたです、八十神の望みはかないません」と。予言の通り、八上比売は八十神たちの求婚を断って、「私は大穴牟遅神に嫁ぎます」と答えるのです。これに怒った八十神たちは2度も大穴牟遅神を殺してしまいます。そういえば2度死ぬって007にもありました。
「この山に暮らすイノシシを捕まえたい。私たちがイノシシを追い落とすので、お前が捕まえよ」と言って八十神たちはイノシシに見せかけて山の上から熱く焼いた石を落とします。石をイノシシと誤認、大穴牟遅神は全身にやけどを負って死んでしまいます。大穴牟遅神のために高天原(古事記に描かれている神話の世界で神々が住んでいるところ)に助けを求めた母親(刺国若比売)。それに神産巣日命(かみむすひのみこと)が応え、ふたりの(ニ柱のと書くべきでしょうか)女神を地上に遣わします。
青木繁の「大穴牟知命」には大穴牟遅神とふたりの女神が描かれています。貝を削った粉を自らの乳で溶かし、大穴牟遅神の全身に塗ったところ息を吹き返した・・・。正面を向いて鑑賞者を見つめる女神は「海の幸」の女性とよく似ています。この女神も海の幸に描かれた女性同様、青木繁の恋人がモデルでしょう。
出雲大社には大穴牟遅神(大国主神)と白うさぎの像「御慈愛の御神像」があるそうで、雑誌に載っています。青木繁の「大穴牟知命」と同一人物、じゃなかった同一神様ということになりますが、まったくイメージが違います。
今日は建国記念の日、神話の世界に親しむのもよいかと・・・。
「大穴牟知命」青木繁 全裸で倒れているのが因幡の白うさぎを助けた神様
253 池田町花見の火の見櫓
この火の見櫓では前稿のように高さを押さえることはしませんでしたが、細部を観察しました。
■ 屋根のてっぺんの飾り。なるほど、こうなっているのか・・・、上下両端をつるのように巻いた細い鋼材を3本避雷針にとめています。
屋根の下、山形鋼の3本の柱の上端を横材で繋いで屋根を載せています。更に半鐘を吊るすための横材を架けています。この様子を見ると3角形の櫓には3角形か6角形、あるいは円形の屋根でないと、うまく載せることは難しいことが分かります。え~と、このような平面どうしの関係って、なんて言うんでしたっけ・・・、忘れました。
252 北安曇郡池田町会染
■ 河岸段丘があるようなところではその上の集落は一般的には古く、その下、つまり河川と同レベルのところの集落は比較的新しいという傾向にあるようです。やはり昔の人たちは河川の氾濫に対して用心深かったんでしょうね。それで河川より少しでも高い土地に住んでいたのでしょう。
北安曇郡池田町。この町の西側を高瀬川が流れ、東側は河岸段丘、更に里山へと続きます。河岸段丘の上には古い集落があります。もっとも北アルプスの眺望がよいという理由からか、新しい住宅も増えているようですが。古い集落には石碑や火の見櫓があるだろうと、出かけてみました。予想に違わず火の見櫓が立っていました。風景によく馴染んでいます。
この火の見櫓、高さはどのくらいだろう・・・。そうだ、梯子段の間隔から櫓の高さが分かる! いままでどうして気が付かなかったんだろう・・・。スケールで梯子段の間隔を測るとちょうど40cmでした。地面から1段目までは75cm、最上段から見張り台の床までは目測で20cm。
40×19+75+20=855 見張り台の床面までの高さは約8.5m 見張り台の床面から屋根のてっぺんまで3mとみて、8.5+3=11.5 この火の見櫓の高さは約12mだと分かりました。これからは、この方法で火の見櫓のおよその高さを把握しようと思います。
251 長野自動車道姨捨SAのすぐ近くにある火の見櫓 (写真提供Tさん)
■ 高さは横の物置の3倍ちょっと、6メートルくらいだろうか。傾斜地の集落の上方に立っているのでこの高さで済むのだろう。このくらいの高さだと梯子状の簡単なものもよく見かけるがこれは立派。火の見櫓の構成要素を省略せずに全て用いている。
3角形の櫓に4角形の屋根というのはそれほど多くはない。3本の柱と4角形の屋根の下地材とが対にならないから。3角形の櫓なら3角形か6角形の屋根、4角形の櫓なら4角形、あるいは円形の屋根というのが一般的だ。これなら両者が平面的にうまく重なる。
屋根のてっぺんの避雷針はこの高さの火の見櫓だと単なる飾り、頂華(フィニアル)と理解した方がよさそうだ。
脚部は単材をアーチ状につけた後、ブレースを追加したのではないだろうか。写真では分かりにくいが半鐘とともに木槌が吊るしてあるようだ。現役として使われているかどうか分からないが、これはうれしい。
■ 今年は「古事記」編纂1300年の節目の年にあたるそうですね。この頃書店で「古事記」や「神様」を特集した雑誌をよく目にします。なぜだろう・・・と思っていましたが、理由がわかりました。
**神話から日本人の心の原風景を感じ、神社から信仰の歴史を知り、我々の心の核心を覗いてみたい。**「日本の神様」 こういうことなんですね。
*****
『路傍の石仏』 武田久吉/第一法規出版(初版 昭和46年3月)は道祖神と庚申塔について詳しく論述している本です。先日少し読んでみましたが、庚申塔が他の神仏と習合する例の中で最も多いのは道祖神で、これは庚申の申(さる)と道祖神は猿田彦だという俗説に由来するということが書いてありました。
こんなくだりを読むと、どうしても神様のことを調べることになるんです。道祖神に大いに関係があるらしい猿田彦ってどんな神様なんだろう・・・。で、この2冊の雑誌を読んでみることにしました。
日本には八百万(やおよろず)の神々がいるといわれてきた、ということですが、実に多くの神様がいるんですね。両方の雑誌をぱらぱらとめくってみてびっくりしました。とても覚えきれるものではありません。まだAKB48のメンバーを覚える方がやさしいかも。ひとりも名前を知りませんが。この機会に神様のことを少し勉強してみようと思います。
猿田毘古神(さるたびこのかみ)。出てました。**国譲りの約束を経て、高天原(たかまのはら)の神々が地上に降り立ったときに、道案内をして日向の高千穂まで送り届けたことから、道案内、導きの神として信仰されている。**「日経おとなのOFF 入門ニッポンの神様」(17頁) なるほど、それで道祖神につながるというわけですね。
それにしても神様の名前が読めません・・・。天照大御神 有名な神様ですから読めます。須佐之男命、すさのおのみこと。命はみことと読むんですね。 いざなぎのかみ、いざなみのかみ。有名ですから名前だけは知っていましたが、伊邪那岐神と伊邪那美神、こう書くんですね(「日経おとなのOFF」) 。でも「日本の神様」では伊耶那岐神と伊耶那美神となっています。どちらの表記でもいい、ということなんでしょうか。
小学校の低学年のとき、この夫婦の神様が矛で海をかき混ぜて日本の島というか国をつくったという話を読んだ記憶があります。
「いなばのしろうさぎ」が古事記にでてくる話だと知ると、古事記や神話が少し身近なものに感じます。
とりあえず雑誌を読んでみることにします。