透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「津田梅子」を読む

2024-05-19 | A 読書日記

360
朝カフェ読書@スタバ 2024.05.17

 津田梅子のことについては幼少の頃にアメリカに留学して、帰国後に津田塾大学を創設した女性、ということくらいしか知らなかった。津田梅子が新5000円札の顔になるということで、どんな人だったのか知りたいと思い(*1)、『津田梅子』大庭みな子(朝日文庫2019年7月30日第1刷発行、2024年2月20日第2刷発行)を読んだ。

著者は1968年に『三匹の蟹』で芥川賞を受賞した大庭みな子さん。大庭さんは津田塾大学出身。本書を書くきっかけは、津田梅子が1882年から1911年まで、30年にも亘る長い間、アデリン・ランマンという女性に宛てた数百通もの手紙が1984年に津田塾大学の物置で見つかったことだったとのこと。アデリン・ランマンは留学中の梅子を11年間(全期間)預っていた女性。ランマン夫妻には子どもがなく、梅子を我が子のように育てたという。

本書は発見された梅子の手紙を何通も取り上げて、それぞれの手紙について大場さんが解説するという形式を採っている。**これらの手紙には、梅子が育ての親とも言えるアデリン以外には決して言わなかった心の底からの叫びに似た痛切な訴えがある。**(21頁)と、大庭さんは書いている。

梅子が帰国して1年後(1883年、18歳の時 *2)に書いた手紙に**私自身が遠い将来、自分の学校を創ったときのためにも、(後略)**(95頁)とある。既存の学校で教えるということではなく、この時既に学校設立のことを考えていたことが分かる。梅子が私塾創設に踏み切ったのは35歳の時だったそうだ。明治という時代を考える時、この年齢に関係なく凄い人だったんだな、と思う。

**将来にわたっても絶対結婚しないとまでは言いませんが、独身だという理由で他人にへんな眼で見られずに、自分の道を進みたいと思います。**同年の別の手紙にはこのように書いている。強い意志の持ち主であることが窺える。

本書には津田塾大学の前身である私塾・女子英学塾の開校式の時の梅子の式辞が載っている。この長文の引用はしない。式辞について大庭さんは**梅子の真の目的は、その時点の世界の情勢から判断して、英語を手段に、日本女性の目を開かせ、女性に働く場を与え、社会での発言力を与え、男性と対等の立場に引き出すことにあった。**(218頁)と説いている。現在放送中の朝ドラ「虎に翼」より昔、明治時代のことだということを考え合わせると、いかに大志であったかが分かる。あのクラーク博士だって、「少女よ、大志を抱け」とは言わなかった。

梅子は多くの人たちから生涯に亘り支援を受けている。梅子には人を引き付ける魅力が備わっていたのだろう。**梅子は周囲のあらゆる星を引き寄せる巨星に似た吸引力を持っていた。**(203頁)と大庭さんは書いている。

津田梅子の気概、見識、すばらしい。なるほど、新5000円札の顔に相応しい女性だ。



*1 樋口一葉の時も同じことをしている。

*2 津田梅子は1864年12月31日生まれ


 


緑まぶしい5月 火の見櫓のある風景

2024-05-18 | A 火の見櫓のある風景を描く


火の見櫓のある風景 長野県朝日村針尾にて 描画日2024.05.16

 手元にある『日本の傳統色』長崎盛輝(京都書院1997年第3刷)には日本の伝統色が225色収録されているが、およそ2割が緑色だ。緑豊かなこの国の人びとには多くの緑色の微妙な違いを見分ける能力が備わっていることの証であろう。海松色(みるいろ)、藍媚茶(あいこびちゃ)などの暗い緑から淡萌黄(うすもえぎ)、白緑(びゃくろく)などの明るい緑まで知らない名前の緑色も少なくない。

久しぶりに火の見櫓のある風景のスケッチをした。緑まぶしい5月、色んな緑が溢れているのに、それらを表現できないもどかしさ・・・。

線描も着色ももっと近景と遠景の違いを意識しないといけない。構図で遠近感は表現できていはいるが、それに頼るのではなく、線描で、着色で遠近感を表現しないと・・・。

短時間で描いているとは言え、線も色も単調に過ぎるし、肝心の緑があまり美しくない。それにもっと光と影を意識しないと・・・。この場所で近々リトライしたい。スケッチは難しい、でも楽しい。


 


松本市島立永田の道祖神

2024-05-17 | B 石神・石仏




松本市島立永田の双体道祖神(彩色祝言跪座像)と文字書き道祖神(右)2024.05.17

 何に注目するかで写真の撮り方は違う。今回は道祖神に注目しているので右隣に立っている火の見櫓は一部しか写していない。




彩色祝言跪座像 黒く塗られた盃を持つ男神にやはり黒く塗られた酒器を手にした女神が跪いて寄りそっている。高さ約120cm、幅約80cm、像を納めた円の直径約70cm。男神と女神は内側の手をつないでいるのかな。双体道祖神は熱々カップルにしないと(過去ログ)。

『松本平の道祖神』今成隆良(柳沢書苑1975年)によると祝言跪座像は松本独自の造形で、祝言像の4割(19基/46基)を占めているという(171頁)。このタイプは北安曇郡や諏訪地方には全く見られないとのことだ(172頁)。


裏面 弘化二乙巳年二月吉日 帯代二十両 (1845年)

上掲の『松本平の道祖神』に松本の道祖神11基の帯代が表で示されている。30両が一番高く、5両が一番安い。平均値を求めると約15両となった。20両はやや高め、ということになるだろうか。同書には永田の道祖神は2度嫁入り(過去ログ)させられたため、帯代を20両と刻んだとある。尚、帯代については**天保年間から流行した「帯代」を刻むことも明治初期頃は、単なる装飾文字としての意味程度に考えられてしまったのであろう**(同書259頁)という記述がある。


側面 永田村


文字書き道祖神(造立年不明)高さ約60cm、幅約60cm。


「タンポポの綿毛」を読む

2024-05-16 | A 読書日記

360
 藤森照信さんの『タンポポの綿毛』(朝日新聞社2000年 図書館本)を読んだ。藤森さんがテルボと呼ばれていた少年時代を綴ったエッセイ集。カバーのイラストがこのエッセイ集の雰囲気を上手く表現している。テルボのイラストは南 伸坊さん、背景の地図は藤森さん。

藤森さんは諏訪湖の近く、茅野市宮川で生まれ育った。野山を駆け巡て遊んでいた少年時代の出来事あれこれが、魅力的な文章で活き活きと描かれている。

たとえば友だちの家で山羊の乳でつくったチーズを初めて口にした時のことは次のように。**まずチーズは、安国寺のミツカズんちに遊びいったとき、カアチャンが、つくりたてというのをおてしょう皿に載せておやつがわりに出してくれた。よほど印象深かったらしく、茅葺き屋根の軒下で立って食べたシーンまで覚えている。**(64頁)

また、初めてグローブを見た時のことは次のように。**グローブというものをはじめて目にしたのは、小学二、三年のとき、村のお堂の縁側だった。広い軒下で遊んでいるとき、お堂の隣りのユキちゃん(男)が、使い古しをもってきて見せてくれた。**(128頁)

藤森さんの文章の魅力を何に喩えよう・・・。定規で引いた線ではなくて、フリーハンドの線のようだ、と書いても伝わらないだろうし、藤森さんの建築の魅力は文章の魅力に通じると書いてもますます伝わらないだろう、と思う。でも、他に浮かばない・・・。

このエッセイ集には火の見櫓も出てくる。 **江戸時代のこと、表具師の幸吉は鳥のように空を飛ぼうと夢見、工夫を重ねてついに成功したという物語**(146頁)が書かれた『鳥人幸吉』という本を読んだテルボ。自分も試してみようと、翼の製作にとりかかった。**(前略)うまくいったらつぎは公民館の脇に立つ木の三本柱の火の見櫓から(後略)**(147頁)飛んでみようと決めていたそうだ。ちなみにこの公民館は藤森さんの設計で新しくなっている。


長野県茅野市宮川 高部公民館 

また、次のような記述も。**火事のときの半鐘の鳴らし方にはルールがあり、村内の火事の場合はスリバンといってジャンジャン連打するはずだが、鳴らないところをみると、大したことではなかったらしい。**(52頁) 文中に村内とあるが、藤森さんがテルボと呼ばれていた少年時代の宮川村高部を指していて、それ程広域ではなかったのだろう。

ぼくも近所の友だち、ターちゃんやマメさ、コーちゃたちとビー玉やめんこをしたり、トンボやチョウを捕まえたり、池でフナを釣ったり、軒下のハチの巣を竹竿でつついてハチに刺されたり(ただしテルボたちとは違って、**刺されたヤツの刺された個所に、あわててみんなでションベンをかける**(103頁)なんてことはしなかったが)、遊んだ思い出があるから、読んでいて懐かしい思いがした。

藤森さんの本はこれまでに何冊か読んだが、この本のことは知らなかった。


 


溶結凝灰岩

2024-05-15 | A あれこれ


塩尻のえんぱーく屋上から望む穂高連峰 2024.05.14

穂高連峰をつくっているのは溶結凝灰岩。『槍・穂高・上高地  地学ノート』竹下光士、原山 智(山と渓谷社2023年)に**降り積もった火山灰が自らの熱と重さによって固まってできた岩石**(28頁)という説明がある。同書によると、穂高連峰は超巨大噴火によって生まれた火山だったそうだ。

来週、あの連峰のすぐ近く、上高地へ行く。昨年(2023年)の7月と10月にも行ったが、今回も同じメンバー(過去ログ)。衰えた下肢の筋肉を少しでも鍛えないと・・・。


 


「源氏物語はいかに創られたか」を読んで

2024-05-14 | A 読書日記

 柴井博四郎さんの『紫式部考』(信濃毎日新聞社2016年 図書館本)を昨年(2023年)2月に読んだが、やはり柴井さんの『源氏物語はいかに創られたか』(信濃毎日新聞社2024年 図書館本)を読んであれこれ考えた。

『紫式部考』に関連した記事を2023年2月16日に書いている(過去ログ)。その記事の最後は次の通り(一部書き改めた)。

**『紫式部考』は「なぜ紫式部は『源氏物語』を書いたのか」という自問に大きなヒントを与えてくれた。紫式部は光源氏亡き後、浮舟に彼の役を引き継がせる。「雲隠」の内容は浮舟の死から再生への道に暗示されている。紫式部は愛しい我が子、光源氏の再生という願いを浮舟に託した。浮舟は入水を決意して、実行する。だが、僧都に発見されて命を救われる。その後、浮舟は出家して仏に救われる。このことは紫式部が光源氏に向けた願いでもあった。光源氏を退廃した貴族社会の象徴、とまで読むかどうか・・・。読むなら退廃した貴族社会の再生ということになるが。**(注:拙ブログでは引用範囲を**で示している)


朝カフェ読書@スタバ 2024.05.13

『源氏物語はいかに創られたか』で著者の柴井さんは『源氏物語』の作者紫式部の想いを読み解く。柴井さんはこの長大な物語が、細部まできっちり頭に入っているのだな。読んでいてそう感じた。

本書で柴井さんはズバリ、次のように説いている。**『源氏物語』の主人公は浮舟であり、紫式部が意図するテーマは、浮舟の「死と再生」であり、それは、源氏、さらには平安貴族社会の「死と再生」を意味していると考えられる。**(84頁)

このくだりを読んで、やはり紫式部は貴族社会の退廃を嘆き、その再生の願いをこの長大な物語に託したのだな、と思った。柴井さんは浮舟について、本書全体のおよそ半分の頁を割いて論考している。

以前、NHKの100分de名著「源氏物語」4回分の再放送(4月7日午前0時40分~)を録画で見たことを思い出す。番組では**国文学者で平安文学、中でも「源氏物語」と「枕草子」が専門だという三田村雅子さんが解説していた。三田村さんは物語最後のヒロイン浮舟が好きだと言っていた。浮舟には紫式部の願いが投影されているとも。**(2024年4月9日の記事の一部を転載した)

『源氏物語』全五十四帖のうち、最後の十帖が「宇治十帖」で、ここに最後のヒロイン・浮舟が登場する。柴井さんの見解によれば、浮舟はこの長大な物語の主人公、三田村さんは浮舟に紫式部の願いが投影されていると指摘している。

この「宇治十帖」については紫式部ではなく別人が書いたのではないか、という説が昔からあるという。ぼくもこの説を唱える本を読んだ(*1)。

だが、ぼくはただ単に願望として、紫式部がしがらみを解き、書きたいことを書きたいように書いた結果だと解したい。

紫式部にも出家したいという願望があったのだろう。横川(よかわ)の僧都に助けられ、出家した浮舟は紫式部が理想とする姿。浮舟は薫が俗世に引き戻そうとするのを、毅然とした態度で拒否する。このラストに紫式部は思いの丈を込めたのだ。こう考えると、唐突な終わり方だという印象も変わる。実に効果的な結末ではないか。

柴井さんが『源氏物語はいかに創られたか』で示した、浮舟が主人公だという見解を知り、浮舟は紫式部が理想とする姿だという三田村さんの指摘を考えあわせると『源氏物語』のこのラストが説得力をもって迫ってくる。

『源氏物語』を再読する気力は無いが、「宇治十帖」を再読しようかな、と思っている(などと書くと読まなくてはならないことになるが・・・)。


*1『データサイエンスが解く邪馬台国 北部九州説はゆるがない』安本美典(朝日新書2021年)
本書で、安本さんは単なる印象論ではなく、直喩、色彩語、助詞など文体に関するいくつかの項目について計量分析を行い、「宇治十帖」には他の四十四帖と偶然とはいえない違いがあることを示している。



八ヶ岳美術館 16年ぶりの再訪

2024-05-13 | A あれこれ


 八ヶ岳美術館は地元原村出身の彫刻家・清水多嘉示の作品の寄贈を受けて計画された村立の美術館で、村野藤吾88歳の時の作品(1979年竣工)。

現在、八ヶ岳美術館で特別企画展「建築家  村野藤吾と八ヶ岳美術館」が開催されている(会期:4月1日~6月2日)。この特別企画展を見ることと、同美術館で開催された松隈 洋さんの講演を聴くために昨日(11日)出かけた。

八ヶ岳美術館は何年ぶりだろう・・・。そう思って、ブログの過去ログを検索した。2008年6月8日、同美術館で開催された建築評論家・長谷川尭さんの講演「村野藤吾の八ヶ岳美術館  ―  偉大な建築家が残した晩年の傑作  ―」とレースのカーテンの吊天井の施工を担当した保科功さんの「八ヶ岳美術館のレースのカーテン」を聴くために出かけて以来、実に16年ぶりということが分かった。

樹林の中に丸いドーム状の屋根、それを支える円弧上の壁面がいくつもリズミカルに連なっている。美術館で配布された資料に村野藤吾は出来るだけ自然を壊さないように計画したということが記されている。美術館を小さなボリュームに分節する計画にしたところに、その意図が窺える。

2008年6月9日のブログ(過去ログ)に、次のように書いている。

**工事の途中で村野さんは「自然の木や草を建築がこわしてはいけない、これは岩だよ」と保科さんに美術館について説明したそうだ。ドーム状の屋根の連なりは「岩」だったのか・・・。**


なるほど、自然と対峙する姿ではない。周辺の環境と連続的に繋がっている。


駐車場から林間の小道を5分程歩いて、エントランスに到る。エントランスの位置を曲面の白い壁で控えめにさりげなく示している。訪れる者を招き入れるフォルム。村野藤吾の優しさがここにも表出してる。


松隈 洋さんの講演「建築と思想――建築をヒューマナイズすること」について、内容は記さないが、「へ~ 知らなかった」ということがいくつかあったので、メモした。一部転記しておく。

・村野藤吾は今 和次郎に私淑し、大きな影響を受けた。
・宇部市民館(宇部市渡辺翁記念会館 1937年)はル・コルビュジェの国際連盟本部コンペ案(1927年)を意識し、参照しながら設計した。講演で示された両案の平面計画はよく似ていた。換骨奪胎
・大阪パンション(1932年)はモダニズムの「白い箱」! 
・船の造形からの引用 



講演会終了後、売店で買い求めた『村野藤吾  建築案内』(TOTO出版)。あれ、没後25年? 今年は没後40年のはずだけど・・・。奥付を見ると2009年11月26日  初版第1刷発行となっていた。そう、これは15年前に発行された本。帯には**本書ほど包括的に村野作品をとりあげたものはない。**という菊竹清訓のことばが載っている。この本で村野藤吾の建築を勉強、勉強。





原村の火の見梯子

2024-05-11 | A 火の見櫓っておもしろい


1511 諏訪郡原村 火の見梯子 2024.05.11

 八ヶ岳美術館で行われる講演会を聴くために久しぶりに同館へ出かけた。八ヶ岳美術館と講演会については稿を改めて書きたい。美術館へ向かう途中でこの火の見梯子と出会った。控え柱はない。簡素な火の見だが、吊り下げられている半鐘は立派。表面は凝った意匠が施されている。




背の低い火の見梯子で、半鐘に刻まれた文字を見ることができた。


「大正四乙卯年 スワ原村柏木 下組 秋葉講中」 大正四年は1915年、今から109年前に鋳造された半鐘だ。


撞き座のすぐ上の文字は「東京市 梅田製」と読める。明治時代に中央線は開通していたから、東京でつくられた半鐘を鉄道で運ぶことができたのだろう。この頃、松本でも半鐘が鋳造されていて、松本市内の火の見櫓に吊り下げられていたことが確認できているが、諏訪地域では使われていなかったのだろうか・・・。


 


「死に急ぐ鯨たち」を読む

2024-05-10 | A 読書日記



 安部公房の『死に急ぐ鯨たち』(新潮文庫1991年)を読んだ。

評論集だがインタビューも収録されていて、本書の過半を占めている。インタビュアーの質問に答える形で『方舟さくら丸』などの自作について語ってもいて、興味深い。

①**『終りし道の標べに』のときには、小説の意識はほとんどなかったから。**(101,2頁)
②**『けものたちは故郷をめざす』は、はっきり小説ですね。舞台は似てますけど・・・・・**(102頁)
③**『けものたちは故郷をめざす』が圧倒的におもしろいというか、理解できますね。**(102頁) 

①は安部公房の答え。ここを読んで、ああ、やはりそうだったんだと思った。ぼくには『終りし道の標べに』は難しくてよく理解できなかった。
②と③はインタビュアーの栗坪良樹さん(日本近代文学研究者の)のコメント・感想というか質問。これには同感。『けものたちは故郷をめざす』は小説だと思ったし、私なりに理解できた。

**結果的に芝居をお書きになるのは、小説だけでは自己表現が出来なくなったということですか。**(101頁)という栗坪さんの問いに安部公房は次のように答えている。
**そういうわけじゃないんだ。最初に芝居を書いたのは、『制服』。どこか雑誌から短編を頼まれたんだよ。(中略)気負いこんで書きはじめたんだが、なぜか全然書けないんだ。「弱ったな。書けないな。どうしたらいいだろう」悩んだよ。(中略)そしていよいよ締め切りの前の晩、「ひょっとしたらこれ、会話だけならいけるんじゃないか」そのままはずみで書いてしまった。そしたら結果的に芝居の形をとっていたわけだ。**(101頁)

ぼくも最近ある雑誌に全て会話形式で火の見櫓の半鐘について原稿を書いたので(*1)、栗坪さんの質問に対する安部公房の答えを読んで、驚いた。そう、ぼくも会話だけなら書きやすいだろうと思って、書いた。

この評論集には、様々なテーマに関する安部公房の考え方が分かる論考が納められている。解説で養老猛司氏は**作家安部公房の思考を知るために、興味深く、重要な書物である。**と書いている。本書は残念ながら絶版。


*1 発行予定がいつ頃なのか、承知していない。発行されたら紹介したい。


手元にある安部公房の作品リスト

新潮文庫22冊 (文庫発行順 戯曲作品は手元にない。2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印は絶版と思われる作品)

今年中に読み終えるという計画でスタートした安部公房作品再読。5月10日現在9冊読了。残りは13冊。今年3月に出た『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』(新潮文庫)を加えたとして14冊。5月から12月まで、8カ月。2冊/月で読了できる。 5月は既に2冊読んで、ノルマクリア。


『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月


 


松本市島立の火の見櫓

2024-05-09 | A 火の見櫓っておもしろい


(再)松本市島立 3柱〇3型ショート3角脚 2024.05.07

 この火の見櫓は既に2011年と2021年に見ているから今回が3回目。見張り台の高さはおよそ7.2m、屋根のてっぺんの高さはおよそ10m。櫓は逓減しておらず、不安定な印象。この高さにしては見張り台のつくりが簡素だ。梯子の両側の支柱を見張り台の手すりまで伸ばしてあるので、昇降しやすいだろう。




前回、2021年にはまだ脚のタイプ分けをしておらず、**柱材と横架材とを斜材で繋ぎ、補強している。**と書いているだけ。その後、タイプ分けして、それぞれ名前を付けた。この脚はショート3角、判断に迷う要素は何もない。仮に黄色の線のようになっていればロング3角。見張り台も簡素だが、脚部も簡素なつくりだ。加工精度が良くないなどと書かず、手作り感ありと書こう。


 


「カンガルー・ノート」を読む

2024-05-07 | A 読書日記


 安部公房の『カンガルー・ノート』(新潮文庫1995年)を読み終えた。1993年に68歳で急逝した安部公房の最後の長編小説。1991年11月に新潮社から刊行されている。

男がある朝目覚めると、カイワレ大根が脛に生えていた。診断を受けるために訪れた医院で麻酔薬を注射され、気がついた時、点滴のチューブ、排尿カテーテルを付けられた男はがっちりベッドに固定されていた・・・。そのベッドは**無段階に屈折する電動背凭れ、停電しても十六時間は持つ充電器、枕元のパネルには無線式の警報装置、いざとなれば自動的に酸素吸入器が作動するという至れり尽くせりの設備で・・・・・(後略)**(27頁)という高度な機能を備えていた。

男が伏せるベッドは街中を自走していく。工事現場からレッカー車で移動させられ、坑道口に投げ捨てられる。ベッドは坑道を走り続ける。坑道の終点からベッドは地下の運河のフェリーへ乗船する。

この小説は安部公房が病床にあった時に見た夢を繋ぎわせて仕立て上げたのではないか。どんな病状だったのか分からないがあるいは死を強く意識していたのかもしれない。死に向かう旅のようだ。三途の川、賽の河原・・・。でも終わらない旅。一体どこに向かうのだろう。

ベッドが行きついたのは薄暗い廃駅のホームだった。**とつぜん警笛が響きわたり、ホームに二両編成の電車がすべりこんできた。**(205頁)
電車と衝突したベッド、スクラップ化。**ここがぼくの終点になってしまうのだろうか。これまでは危機に瀕するたびに、ひとつの夢から別の夢へ、一気に移動するバイパス役を勤めてくれていたのに・・・・・**(206頁)

安部公房も死の恐怖に脅えていたのだなと、小説最後の一節(敢えて引用しない)を読んで思った。でも、それを小説に仕立て上げてしまった安部公房は最期まで作家であった。


手元にある安部公房の作品リスト

新潮文庫22冊 (文庫発行順 戯曲作品は手元にない。2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印は絶版と思われる作品)

今年中に読み終えるという計画でスタートした安部公房作品再読。5月7日現在8冊読了。残りは14冊。今年3月に出た『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』(新潮文庫)を加えたとして15冊。5月から12月まで、8カ月。2冊/月で読了できる。 


『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月


 


春の祭典 火の見櫓と神輿

2024-05-06 | A あれこれ

 産土神をお祀りする神社のお祭りが2019年以来、5年ぶりに行われました。お祭りは5つの地区の持ち回りで行われます。今年、お祭りの当番は私が暮らす地区でした。

4日の早朝から神社境内に集合。参加者は45名程。70世帯に満たない小さな地区で、高齢者世帯も少なくないことから、参加者は多かったと言えます。全員で境内の掃除を行った後、五つ灯籠の飾付け、のぼり旗揚げ、手作り神輿の化粧直し等の作業を分担して行いました。作業は手際よく進められ、予定通り午前中に終了。神輿は50年近く前に、当時活動していた青年団の人たちの手によってつくられたものです。


境内の杉の大木が神社の長い歴史を物語っています。  




昨日(5日)朝8時、神輿が神社を出発し、一筆書きのように地区内を一巡しました。神輿を担ぐのは若手です。途中、予め決めてあった場所、数か所で休憩。そこで飲んで、食べて・・・。家の前の道路に出て待っていた方々からご祝儀をいただきます。で、その家の前でお礼のわっしょい!  わっしょい! 神輿を数回高く掲げるようにします。小型の神輿ではよく行われる動作でしょう。




地区内を一巡して神社に戻ったのは午後1時前でした。途中で時間調整をしているので予定通りでした。スマホで歩数を確認すると、約12,000歩。8km位歩いたことになります。

奉納相撲の実施は見送られていましたが、若者、いや中年か、が何人か上半身裸になって始めました。すばらしい(感激して写真を何枚も撮りましたがプライバシーに配慮して掲載しません)。

午後1時。拝殿の前に整列して、拝殿内で行われる神事を見守ります。神職と総代に合わせて二礼二拍手一礼。神事終了後、片付けをして解散。午後3時過ぎから集落内の集会所で直会、宴会。日本酒やビールを勧め、勧められて久しぶりの痛飲。気が付けば5時半過ぎです。4月29日にも地区のお祭りで飲みましたが(過去ログ)、時々宴会であれこれ話して地区の人たちと親睦を図るのも好いことだと思います。

2日間とも天候に恵まれて一連の行事が滞りなく終了しました。自然に適材適所な役割分担になって、お祭りがきっちり出来るのは地域のコミュニティが健全であることの証でしょう。 


 


あ、 火の見柱!

2024-05-04 | A 火の見櫓っておもしろい

420
1510 塩尻市広丘郷原 火の見柱 2024.05.04

 所用で塩尻まで出かけた。偶々通った道路沿いに火の見梯子が立っていた。目立たないから見過ごしても仕方ないが、気がついた。


角型鋼管の柱に腕木を付けて、その先端のフックに半鐘を吊り下げている。プリミティブな火の見櫓。これで火の見櫓としての機能を満たしている。櫓の中間に踊り場があるような大型の火の見櫓と、このような簡易は火の見柱。一体、この違いは何に因るのだろう・・・。ただ単に立地条件が違う、ということではないように思うが。