史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末勤王志士と神葬」 村上繁樹 編著 ミネルヴァ書房

2023年03月25日 | 書評

編著者である村上繁樹氏は、山口県萩市出身。洛東の霊明社の八世神主である。霊明社は、幕末からいわゆる勤王志士の神葬地となり、維新直後に次々と西南各藩により招魂社を建立された。明治元年(1868)五月には「今般東山之佳域ニ祠宇ヲ設ケ」「此度東山ニ於テ新ニ一社ヲ御建立」という太政官布告により霊山招魂社が設けられ、祭祀を行うことになった。今日の霊山護国神社の端緒である。木戸孝允や坂本龍馬、中岡慎太郎らが眠る聖地となっている。

霊明社は、志士の墳墓と霊山歴史博物館の間の「維新の道」をさらに南下し、正法寺の向かう国阿坂(最近「幕末の志士葬送の道」と呼ばれている)の途中にある。小さな祠なのでうっかりすると見逃してしまいそうになるが、この霊明社は初世村上日向目源都愷(くにやす)が正法寺の塔頭の一つ清林庵より用地を買い受け創建したものである。村上都愷は、彦根藩士の子として宝暦二年(1752)に生まれ、建仁寺の西、博多町に住む長谷川半兵衛夫妻の養子となり京都に移った。長じるにつれ尊王思想をもって神道を世に広めようと諸国を巡り門人を集めたという。神職となって名声も高くなり朝廷に召し出され、主殿寮史生、日向目(さかん)に任じられた。

霊明社は二世村上美平(よしひら)。三世村上都平(くにひら)、と引き継がれ、その間神葬地を広げていった。

幕末、最初に志士がこの地に埋葬されたのは、文久二年(1862)、長州藩の松浦亀太郎(松洞)とされる。松浦亀太郎は航海遠略説を唱えた長井雅楽を暗殺しようとしたが果たせず、粟田山上にて屠腹して果てた人物である。松下村塾に学び、吉田松陰の肖像画を描いたことでも知られる。筆者は、久坂玄瑞が「霊明社を弔祭の地としたのは、公に扱うことが憚られ、ひっそりと弔祭出来る地として選ばれたのだろうか」としている。

続いて、この地で招魂祭が開かれたのは、長州清末藩の船越清蔵である。船越清蔵という人物はあまり知られていないが、当時の京都では勤王有志の士として名を知られた存在であった。

清蔵は文化二年(1805)に清末藩岡枝村(現・下関市菊川町)に生まれた。京都では一時小出勝雄という変名を用いたとされる。藩校育英館に学び、その後は豊後に遊学して、帆足万里や広瀬淡窓の門で学んだ。文政十一年(1828)、二十四歳の時に諸国遊歴に旅立ち、長崎で西洋医学を修め、豊後で毛利空桑の塾で学んだ後、江戸に出て奥州や蝦夷の探索を開始した。天保十四年(1843)頃には京都に移り、塾を開いて子弟を教える傍ら、蝦夷、山陰、近畿、北陸などを遊歴した。やがて国事に関する建言書をいくつも書き上げ、朝廷から注目される存在となる。安政元年(1854)には建言書が三条実万の目にとまり、以後三条実万、中山忠能、岩倉具視といった公家、さらには上京してきた久坂玄瑞、入江九一、中谷正亮といった長州藩士たちも教えを乞うた。当時京都において梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎らと並ぶ雄として重きをなした。

安政の大獄が始まると、清蔵の身にも危険が及び、京都を退去して萩へくだった。長州では吉田松陰とも交わったとされる。藩政改革や海防強化について清末藩校育英館や長州藩校明倫館で講義を行った。

文久二年(1862)四月、伏見義挙に参加しようとしたが、寺田屋事件により再び萩へ退去を余儀なくされた。萩に戻った清蔵は、藩主毛利敬親に講義を行うなど精力的に活動したが、その講義の帰途突然倒れて死亡した。一説には藩主の前で藩祖大江広元を批判したことを不敬として毒殺されたともいわれるが、その真相は謎に包まれている。

当時在京中であった久坂玄瑞は船越清蔵の死を悼み建墓を発起した。これが国事殉難志士の霊山における招魂の嚆矢とされる。因みに清蔵の墓に刻まれた「精勇船越守愚之墓」の文字は沢宣嘉の筆により、「精勇」の二文字は三条実万から賜った号である。この時の招魂祭は村上都平が執行し、祭主は吉田玄蕃なる人物が務めた。

吉田玄蕃は雲華院宮家の家士。文政五年(1822)、近江の生まれで、通称玄蕃、のちに嘿(もく)と称した。富岡鉄斎や西川耕蔵とともに梅田雲浜の門下で学んだ。大原重徳の家臣でもあり、大原重徳を通じて多くの公家と通じていたことから、船橋清蔵を初めとして上京してきた志士と公家のパイプ役を果たした。安政五年(1858)の廷臣八十八卿列参事件や戊午の密勅降下などに関与したといわれる。

明治になって政界から退き、明治十年(1877)以降、白峯神宮(京都市上京区)、龍田神社(生駒郡斑鳩町)、大和神社(奈良県天理市)の宮司を務めている。明治二十四年(1891)、大津事件が起き、畠山勇子が京都府庁前で自決すると、玄蕃はその義烈に感激し、墓参りと顕彰に熱心に取り組んだ。明治三十一年(1898)、七十七歳で没した。霊明神社南墓地に墓が設けられている。

松浦亀太郎や船越清蔵の神道祭祀に深く関わったのが久坂玄瑞である。国事に殉難した志士が霊明神社における招魂祭、神葬祭により葬られることになったのは久坂玄瑞の発案によるところが大きい。神道を崇敬していた玄瑞は、自らも国事に殉じたら霊山に葬ら得ることを切望していた。元治元年(1864)の禁門の変で自刃した玄瑞は、一度は詩仙堂に葬られたが、のち小田村伊之助(楫取素彦)の指示で霊山に改葬されている。

文久二年(1862)、安政五年(1858)以降、国事に殉じた者を赦免し、彼らを霊山に葬ることが勅旨により示された。具体的には、密勅返還を巡って分裂した水戸浪士が水戸街道長岡宿で衝突した事件で落命した者、安政の大獄の犠牲となった者、井伊大老襲撃事件の関係者、イギリス公使館を襲撃した東禅寺事件の関係者、老中安藤信正襲撃事件の関係者などである。

本書に登録されている「霊明神社神名帳」を見ると、寺田屋事件、天誅組の変、生野の変、池田屋事件、福岡藩乙丑事変の犠牲者や鳥羽伏見戦争、戊辰戦争の戦死者なども葬られている。

やや異質に感じるのが、慶應四年(1868)二月、英国公使パークスを襲撃した林田衛太郎(朱雀操)と三枝蓊の両名が霊山に葬られていることである。林田はその場で後藤象二郎に斃され、三枝は生け捕りにされて数日後に斬首された。

筆者村上繁樹氏は、「都平(くにひら)も明治維新を迎え入れる立場であり、新政策には心境は複雑であり、矛盾を抱く心持ちではなかったか」と推測しているが、彼らが霊明社に葬られた経緯は記載されていない。ただし、明治二十一年(1888)に林田の従弟喜多千穎(ちかい)が、林田の佩刀を霊明神社に奉納したという記録が残っていることから、彼らの遺族の強い希望があって実現したのかもしれない。

少々マニアックな本であったが、霊明社の歩みを本書で学んでから霊山の墳墓を歩くと、また違った風景を見ることが出来るかもしれない。

 

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「幕末の先覚者 赤松小三郎」 安藤優一郎著 平凡社新書

2023年02月25日 | 書評

「プロローグ」によれば、「知られざる幕末の先覚者である上田藩士赤松小三郎の生涯を通じて、歴史教科書には記述されていない幕末史を描き出す」ことが本書の主旨となっている。個人的には、京都金戒光明寺の赤松小三郎の墓や長野県上田市月窓寺の遺髪墓も掃苔したし、過去には上田高校同窓会の主催した赤松小三郎に関する講演会に参加したこともある。本書でも引用されている「日本を開国させた男、松平忠固」(関良基著)や「薩摩の密偵 桐野利秋」(桐野作人著)なども読んでいたし、比較的馴染の深い人物である。「知られざる」という謳い文句には多少ひっかかったが、赤松小三郎の生涯を丹念に追っており、あまり触れられることがない前半生も紹介されている。激動の幕末において自分の才覚を信じ、活躍を夢見ながら非業の死に倒れた一人の若者の生涯に改めて感銘を受けた。

赤松小三郎は天保二年(1831)、上田藩の下級武士芦田家の次男として生まれた。実家芦田家も養子に入った赤松家も家禄はわずか10石余に過ぎなかった。

学問で身を立てようとした小三郎は勉学に励み、やがて藩から認められて江戸で学ぶ機会を得た。当初は和算家で幕臣の内田五観の塾で数学のほか蘭学を学び、ここでオランダ語の読み書きを習得した。さらに下曽根信教(金三郎)の塾で西洋の兵学にも通じた。江戸遊学中には勝海舟の塾にも入門し、その縁で長崎海軍伝習所において員外聴講生として伝習を許された。

海軍伝習所が閉鎖され、小三郎が江戸に戻った頃、遣米使節団が派遣されることになった。小三郎はその選に漏れたが、同じく藩士身分でありながら福沢諭吉はチャンスを活かし、渡米に成功した。福沢諭吉は文久年間に欧州へも渡り見聞を広めた。

小三郎は上田藩の軍制改革に取り組み、藩士に洋式調練を指導し、最新兵器の購入などに当たった。文久三年(1863)には藩当局に対し現状を憂える意見書を提出している。

長州藩を追討するため征長軍が組織されることになり、上田藩にも動員がかかった。小三郎はその準備にあたるため開港地横浜で武器弾薬の調達に奔走したが、そこで知り合ったイギリス公使館付の武官アブリンを通じて英語や英式兵制を学んだ。福沢のように洋行経験のなかった小三郎にとって、イギリス軍人と直接話す機会を持てたことは非常に貴重な経験となった。

この頃になるとイギリスが世界の覇権を握る強国であることが知れ渡り、英式兵制を導入する藩が多くなっていた。小三郎は、師匠である下曽根信教の依頼を受けてイギリス陸軍の「歩兵操典」を翻訳し、慶応二年(1866)三月、「英国歩兵操典」(五編八冊)を刊行した。兵学者小三郎の名は一躍諸藩に知られることになる。

幕府の長州再征が敗色濃厚となったことを受け、小三郎は幕府と上田藩に破格の改正を求める建白書を提出した。彼は、富国強兵のため家格や禄高に縛られない能力に応じた人材の登用を訴えた。自分を抜擢せよ、という強烈な自負の裏返しであった。

小三郎は、京都で兵学塾を開くかたわら、他藩の依頼に応じて英式兵制に基づく調練を指導した。英式兵制で軍事力強化をはかっていた薩摩藩も小三郎に注目し、兵学塾の出講、調練の指導を依頼した。

英式兵制に通じた兵学者赤松小三郎に幕府も注目し、幕府から出仕要請があった。それは小三郎自身の希望とも合致したが、上田藩は固辞した。上田藩は帰国を求めたが小三郎は痔の治療と称して滞京を続けた。

慶應三年(1867)五月にかけて京都では薩摩藩の主導により四侯会議が開かれた。小三郎はこれを機に島津久光、松平春嶽に対し、議会制度の導入により公議・公論を国政に反映させる「公議政体案」を建白した。小三郎は自分の構想が慶喜や四侯の間で議論され、議会制度への道筋が開かれることを望んだが、目論見通りには行かなかった。

小三郎の建白は多岐にわたっている。第一条は、日本が目指すべき議会制度に関する提案。第二条は人材育成に関するもので主要都市や開港地に大小学校を創設することを提案している。第三条は課税の平等性に関するもので、農民の年貢を減らして、従来無課税であった武士や商人にも課税することを説いている。第四条は世界に通用する貨幣制度の導入。第五条は陸海軍の整備。第六条はお雇い外国人による殖産興業。第七条は畜産業の振興と肉食への移行。そして最後に改革を担保するためのものとして、世界に通用する「国律」つまり憲法の制定を求めている。

洋行の経験のない小三郎がこれだけの提案をなし得たのは、慶応二年(1866)に福沢諭吉の「西洋事情」が刊行されベストセラーとなっており、当然ながら小三郎もこれを読んでいただろう。「西洋事情」から知識を仕入れたという部分は大きいにせよ、西洋の進んだ科学技術を取り入れようというだけではなく、小三郎はその背景にある文明を支える国の仕組み、つまり西欧文明の本質を把握していた。それが議会制度であり、教育制度、課税制度、通貨制度、憲法であった。小三郎の提言というと、慶応三年(1867)の時点で二院制議会制度を提言した点に注目されがちであるが、彼の慧眼は西欧文明の本質を見抜いていたところにあるというべきである。

四侯会議が空中分解すると、慶喜と薩摩の蜜月期間も終わりを迎える。幕府と薩摩の良好な関係が続いていれば、薩摩藩にも会津藩にも要請があれば調練に出向く小三郎の姿勢は問題にならなかっただろう。

しかし、武力倒幕に舵を切った薩摩藩にとって、軍事機密を握る小三郎が幕府や会津とも接点を持つことが大きなリスクになっていた。事実、会津藩は小三郎から薩摩の内情を聞き出すことを期待していた。小三郎が藩からの命令に抗し切れずに帰国を決意すると、薩摩藩はその直前の慶應三年(1867)九月三日、攘夷の志士による天誅に偽装して小三郎を暗殺した。三十七歳という若さであった。

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「幕末の漂流者・庄蔵 二つの故郷」 岩岡中正著 弦書房

2023年02月25日 | 書評

幕末の漂流者というと土佐のジョン万次郎やジョゼフ彦が有名であるが、本書で紹介されている庄蔵(原田庄蔵)の事歴も彼らに負けないくらい劇的である。

庄蔵は、天保五年(1834)に自らが船頭を務める船で天草から長崎に向かう途中、嵐に遭遇して漂流し、ルソン島(現・フィリピン)に漂着した。ここで現地の人間に襲われたり、まさに九死に一生を得る思いをしながら天保八年(1838)マカオに移り、ここで漂流してアメリカ船に救助された音吉らと出会う。彼ら総員7名は、同年7月、帰国するためアメリカ商船モリソン号で日本に向かったが、異国船打払令によって砲撃を受ける。この時の庄蔵らの悲しみ、衝撃は想像に余りある。

続いて薩摩でも上陸を試みるが、この地でもやはり砲撃を受け、彼らは失意のうちにマカオに戻ることになった。

この時、庄蔵は「日本には再びかへらぬと定め我共其かわりに」漂流日本人について「身を粉にしても世話」することを決心したと日本に送られた手紙に書いている。想像するに帰国を諦めたのと、自分と同じような境遇の日本人の帰国支援をしようと決めたのは時間的なギャップがあったのではないだろうか。帰国しないことは母国から砲撃されるという仕打ちを受けたときに腹を固めたのだろう。

同じく手記によればモリソン号で撃退されたときのことを「我々共七人のものせつなさかなしさ誠に云ふ計りなくすでにしがひ(自害)を致す筈に相極め候へば天を念じ仏神念じ必ず必ずあやまるな」と記し、薩摩で砲撃を受けたことについても「数十挺石火矢時の声を上打出に相成誠に我々はたましいを飛し身躰もかなはぬゆへ夢如くに相成候へば」と記述している。

筆者は、「まるで軍記物を語る講談師のような緊張感のあるリズムで文章を表現する力と冷静さは驚くほど」と解説を加えているが、この人の文章力・表現力は天性の頭の良さと故郷肥後川尻で培われた教養に裏打ちされたものであろう。

本書には、故郷に宛てた手紙(これは江戸時代の漂流者の中で唯一の自筆書簡であり、しかも故郷の家族に届いた唯一の例)の全文が掲載されている。現代人が読んでも訥々として心を動かされる名文である。庄蔵と一緒に漂流しモリソン号にも乗り合わせた寿三郎は全文カタカナで書いている。内容はほぼ同じだが、それぞれ個性がにじみ出ている。

庄蔵の文章力・表現力は、米国宣教師ウィリアムズ(のちにペリーの来日に同行し日本語公式通訳を務めた人)を手伝って聖書「マタイ伝」の邦訳に活かされた。「わしチャラメラを吹いてもおまえたち踊らぬ」とか「これどの人でも刀を用いるは刀の歯糞(はぐそ)になる」「そういたさるならば天の国に汝らの褒美甚だたんとあり」「汝らは娑婆の光なり」といった平易で明快にしてどこかユーモアも含んだ表現は、庄蔵の理解力、語彙力、人間性まで映して秀逸なものである。

日本に帰国できないことを絶望し、孤独に打ちひしがれた寿三郎は阿片におぼれて亡くなり、一方庄蔵は香港に移住してアメリカからきた女性を妻として家族をもった。洗濯屋仕立て屋として成功し、ゴールドラッシュにわくアメリカ・カリフォルニアに苦力(クーリー)十人を連れて渡って金採掘に携わったこともあったという。今となっては没年や墓、子孫については不明であるが、自らの境遇を受け入れたくましく自活した一人の日本人の姿が浮かび上がる。彼の生き様は、人間が生きていく上で必要な生活力とか人間力とは何かを考えるヒントになるだろう。

庄蔵には漂流した時点で妻と三人の子がいた。当時五歳だった長女ニヲは、長じて岩岡伍三郎を養子に迎え、原田家を継いだ。筆者岩岡中正氏(熊本大学名誉教授・法学博士)はその四代の末裔である。先祖に対する尊敬と愛情、そして故郷川尻への厚い思い入れも感じられる本書は、読み応えのある快作だと思う。

 

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「上野彰義隊 墓守の伝承」 小川潔著 地湧社

2023年01月28日 | 書評

海外に居ながらにして日本の書籍を購入できるサービスがあり、まとめて8冊ほど注文した。数週間もしないうちにハノイのアパートに届いた。有り難いシステムがあるもので、これからも大いに利用させてもらうことにしよう。

本書は、上野公園の彰義隊の墓守として知られる小川興郷の子孫の方が、自費出版の形で出されたものである。筆者は東京学芸大学名誉教授で、環境科学を専門とされている先生で、本書も論文風に書かれている。

とはいえ、歴史学が専門というわけではないので相当部分を同じく東京学芸大学の竹内誠名誉教授や大石学名誉教授らのサポートを受けながら、手書き文書を翻刻されたという。

小川興郷は明治初期までの名前を椙太といい、出身地は秩父小川村とされる。一橋家に新規召し抱えになった縁で、慶應四年(1868)、彰義隊に参加した。戦後、上野戦争で戦死した彰義隊士の墓を建設するのに私財を擲って奔走し、半生を墓守として尽くした。しかも、その養女ミツ、その夫眞平、彼らの子長男彰、そして筆者潔の代に至るまで、この墓を守り続けている。この律義さ、義理堅さ、使命感はどこからきているのだろうか。筆者は「あとがき」にて「上野に彰義隊の墓を建てることは、大谷内を含めた隊士たちの悲願であり、小川(興郷)、齋藤、百井にその任が託されたと考えることは荒唐無稽だろうか?椙太(興郷)はこの役割を一生背負ったのではないか?」と、想像を逞しくしているが、あながちデタラメな空想でもないだろう。

「大谷内」というのは、元古河藩士で旗本大谷内家の養子に入った人で、彰義隊では九番隊長を務めた。戦後、明治二年(1869)、元彰義隊士の救済を訴える建白書を沼津郡政役所に提出した。この筆頭者が大谷内でナンバーツーが小川椙太であった。のち離反者2名を粛清した責任を負って切腹した。

「齋藤、百井」は、ともに元彰義隊士齋藤駿、百井求造の二人のこと。興郷とともに上野公園における彰義隊の墓の建設許可願いに名前を連ねたが、その後の経歴は不明である。どういう経緯か分からないが、興郷のみが墓守として彰義隊の墓の側で過ごした。

本書には、興郷が上野の彰義隊之墓建設について「しるしを残したい」と語っていたという。これは養女小川ミツが伝え聞いたもので、文書に残されたものではない。子孫だからこそ書ける貴重な伝聞である。

今となってはこの言葉の真意は不明であるが、主君慶喜への新政権による理不尽な仕打ち、それに対して異議を唱えて集まった彰義隊の存在、戦闘は一日で終わってしまったが多くの仲間が命を落とした無念さ等々、興郷が上野に墓を建てることで後世に伝えたかったことは想像できる。

本書は自費出版であり広く読まれることにはならないかもしれないが、彰義隊士の末裔の方が残した記録として貴重なものである。かつて上野に「上野彰義隊資料室」なるものが存在していたことも本書で初めて知った。可能であれば復活してもらえないものだろうか。

 

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「長溥の悔恨」 池松美澄著 花乱社

2022年12月30日 | 書評

日本を離れる前に書店で発見したもの。小説のようで小説でもない。評論のようで評論でもない。どちらかというと中途半端な印象。

プロローグで維新後の黒田長溥の悔恨が披露される。少々長くなるが引用する。

――― あの乙丑の年の大粛清は一体、何だったのか。佐幕派の連中に焚きつけられた保守・重臣の上申とはいえ、どうしてあのような狂気に走ってしまったのか、長溥は自分でもそのことがわからない。

 佐賀の鍋島閑叟(直正)のように、妖怪と言われようが何と言われようが、のらりくらりと日和見を決め込んで、幕府に忖度などせずやり過ごしておけばよかった、と今にしては思う。月形洗蔵、加藤司書、建部武彦、衣非茂記たち有為の人材を生かしていたら、彼らは必ずや新政府の要人になっていたに違いない。

 また、兄弟のようにして育った島津斉彬や老中・阿部正弘がもっと長生きしてくれていたら、彼らと協力し合って今の政府とは違う新国家の骨格を創り、会津藩、二本松藩などに「賊軍」という言われなき汚名を着せ、この世のものとも思えない阿鼻叫喚の苦しみを与えることなど断じて許さなかったのに、と思う。

 そして、薩長を中心とした過激派「志士」によるやりたい放題の今の政府とは違う新政府を建設していたのだ。そうすれば我が藩も太政官札の贋造事件など起こすことはなかったに違いない。

 この太政官札贋造事件により、廃藩置県の前に藩はお取り潰しになった。もとの家臣や領民に顔向けなどできるはずがない。だから福岡には行きたくても行けないのだ。この寂しさ、やるせなさ、空虚感を鎮めるにはどうすればいいのだろうか。いっそ父祖の地である鹿児島に行って桜島でも見て過ごそうかとも思う。

 

等々、悔恨の思いは果てがない。

ここで述べられているように長溥の人生は苦渋に満ちたものであった。長溥の父は第八代薩摩藩主島津重豪。重豪の曽孫である斉彬とは大叔父大甥という関係にあるが、斉彬が二歳年長で、年が近い二人は兄弟のように育てられた。二人とも重豪の影響を受けて西欧の文化に強い興味を持ち、積極的開国策を主張した。本書プロローグで触れられているように、斉彬が幕末の動乱をともに生きていれば、手を携えて新国家の骨格を創ることができただろう。

しかし、斉彬が安政五年(1858)に没すると、長溥と筑前黒田藩は時代の波に翻弄されることになる。

幕末の黒田藩の混迷の窮極が慶応元年(1865)の乙丑の変であった。月形洗蔵、加藤司書、建部武彦、衣非茂記といった黒田藩を代表する勤王派を根こそぎ抹殺したこの事変は、深く禍根を残すことになった。藩内の派閥争いの無意味なことは、若い頃から薩摩藩における流血を伴う対立を目の当たりにしていた斉彬であれば、その愚を繰り返すことはしなかったであろう。長溥は薩摩藩からきた養子とはいえ、将軍家とは強い血の繋がりがあり(将軍家斉は養父斉清の伯父、また姉の広大院が家斉の正室になっていることから義兄にもあたる)、心情的には最後まで佐幕から抜け出すことができなかった。

本来であれば、時代の寵児となる資格をもっていただけにプロローグで描かれた「長溥の悔恨」は心情的に理解できるところである。本書では乙丑の変に至る経緯を分かりやすく記述しており、大いに理解が深まった。

しかし、「革命前夜」「二本松藩、会津藩の悲劇」辺りから突然長州藩や過激派志士に批判の矛先が向かい、エピローグでは「長溥の悔恨」はどこかに行ってしまい、ひたすら過激な攘夷志士や明治新政府への批判に終始している。巻末の参考・引用文献を見ると、星亮一氏や原田伊織氏、鈴木荘一氏、森田健司氏といった反薩長史観論者の著作ばかりが並んでいる。彼らの主張が著者の波長に合ったのだろうが、歴史をある一面から断罪する姿勢は疑問が残る。果ては孝明天皇毒殺説などという俗説について、「一回目の企てに失敗した者たちが、間髪入れずに二の矢を放ったもの」と、想像・推測の話が、まるで見てきたかのように書かれているのも非常に気になる。本書は論文ではなく、小説だから多少の創作は許されるということなのだろうか。

相楽総三が赤報隊を結成したのは、慶應四年(1868)一月、戊辰戦争の勃発以降のことであるが、本書では赤報隊が薩摩藩邸を拠点に江戸市中を攪乱したように記述されている。これも史実には沿っていない。著者の歴史に関する知識の浅薄さが露呈している。

 

 

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「江戸500藩全解剖」 河合敦著 朝日新書

2022年12月30日 | 書評

地方に行けば、その地方特有の文化や風習に出会うことができる。北陸トンネルを抜けると、突然福井弁の世界が待ち受けている。福井の人間にしてみれば、関西からやってきた私は「関西弁を使う変な奴」と思われたに違いない。ところが、学生時代に神戸に移って、神戸の人たちがちょっと癖のある関西弁を操ることに衝撃を受けた。一口に関西弁というが、大阪と京都と神戸ではまったく別の方言なのである。

県民性を取り上げたTV番組があとを絶たないのも、その淵源をたどっていくと江戸時代の藩にたどりつく。江戸時代、さして広くもない日本の中で(数え方によるが)最大500もの藩がかなり独立性高く併存していた。しかも、現代と違って人の流動性は低く、移動も制限されていたので、藩の独自性はまるで冷凍保存されたように長く維持された。

では、藩の歴史はそれぞれ全く独立したものだったかというと、不思議なことに申し合わせたように同時多発的に同じような歴史を刻んでいる。

江戸時代の三大改革といえば、享保・寛政・天保期を指すが、同じ時期、各藩でも改革が行われていた。結局のところ、幕府も藩もこの時期に経済的に行き詰まり、改革断行を余儀なくされたのである。

周知のとおり江戸時代は、商品経済が発達し商人の中には巨富を築いた者もいた。しかも、相も変わらず米納社会であったため藩の財政が行き詰ったのも当然のことといえる。

藩政改革といっても、倹約を徹底するとか、藩士の家禄を一律削減するとか、商人からの借金を踏み倒すといった類の対策ばかりである。現代的な発想でいえば、どうして商人に対して所得に応じて課税しないのだろうかと考えてしまうが、この時代商人に課税したという話はあまり聞かない。強いて近い例を挙げれば、商人から上納金を出させるとか、運上金、冥加金を課すというくらいのものである。

企業経営でいうと、もはやリストラが必要な状態だと思われるが、この時代は石高に応じて武力を常備する必要があり、大胆に人員削減することもできなかった。

改革の一環として藩校の設置が進んだ。もっとも古いものは寛文六年(1666)の岡山藩学といわれる。ただし、その後百年以上、他藩での藩校開設は進まず、設置率は大藩を中心に十%程度だった。

ところが寛政の改革がおこなわれた十八世紀末になると、幕府の昌平坂学問所を皮切りに各藩は競って藩校を開いた。寛政年間に続いて藩校開設のブームが到来したのが天保年間であった。

現代、文部科学省が作成した学習指導要領に則った教科書を用いて公立学校では教育が行われており、そのため全国で同質の教育を受けることができるようになっている。江戸時代は、教育に関しては各藩に一任されており、各藩では独自の教育が展開され、結果、独特の士風が形成された。子細にみれば、藩校の教育は各藩工夫を凝らし、ユニークなものであった。

ユニークな教育を実践した藩校として、水戸学の発信基地となった水戸弘道館、国学を導入した津和野藩の養老館、徂徠学を中心に据え、生徒の自主性を重んじた致道館などがある。

現代においても、秋田県の国際教養大学や大分県の立命館アジア太平洋大学などユニークな大学が生まれているが、既存の地方大学もその地方色を活かして、もっと独自性を追究したら良いかもしれない。

 

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「西南戦争と飫肥隊」 河野富士夫著 みやざき文庫

2022年11月26日 | 書評

今年のGWに宮崎県を旅し、宿願であった飫肥にも足を運ぶことができた。本来であれば、本書は宮崎訪問の前に出会うべきものであるが、残念ながらこの本を八王子の本屋で発見したのは、そのずっと後であった。読み終わって「やっぱり宮崎旅行の前に出会いたかった」と臍をかむ思いであった。

本書の副題は「平部嶠南の二つの日誌を読みとく」となっている。平部嶠南は、文化十二年(1815)、旧飫肥藩領清武町中野(現・宮崎市清武町)の生まれ。幼年より秀才の誉れ高く、同郷の安井息軒の教えを受けた。天保四年(1833)、江戸に上って古賀侗庵の門に入り、帰途水戸の諸学者を訪れた。帰国して藩校振徳堂の教授となり、弘化元年(1844)、江戸桜田邸副留守居、のち家老となった。明治二十三年(1890)、年七十六で没。

平部嶠南は、「嶠南日誌」と「六鄰荘日誌」という二つの日誌を残している。六鄰荘とは、嶠南が起居していた本宅とは別に、嶠南五〇歳となった元治元年(1864)に新築した住居のことである。隣に六軒の隣家があったことから「六鄰荘」と名付けた。

では、何故嶠南は二つの日誌を残したのか。「嶠南日誌」はリアルタイムで書かれた普通の日記である。これに対し「六鄰荘日誌」は、後日「嶠南日誌」をベースにしながらも、官から追及されても言い逃れができるように書き換えられたものである。

たとえば、「西郷起つ」の一報が飫肥にもたらされると、嶠南も「兵士出張の主意書」という檄文作成に関わり兵を募った。嫡子平部俊彦も飫肥一番隊の一員として出征した。元家老として飫肥隊の結成に積極的に関与したのである。しかし、「六鄰荘日誌」では「事の善悪は暫くこれを置くとして、今なお士気があってこれほどまでに勇み立つとは。さすが二百八十五年の間伊東氏が飫肥を治められた名残かなと、心の中は感慨ひとしおであった」とのみ記す。自らの関与は触れずに、その時の感動だけを書き残している。

この用意周到さがあって幕末の争乱にあって、飫肥藩では嶠南を家老として重用し、彼もそれに応えて存分に腕を振ったのであろう。組織のトップの最大の仕事はリスクマネジメントなのである。

本書前半部分に書かれた西郷隆盛に関する分析は、多分に司馬遼太郎の「翔ぶが如く」に影響されたところはあるにせよ、的確に西郷隆盛の二面性とか複雑性を突いている。西郷は留守政府時代、学制改革や太陽暦の採用、地租改正、キリスト教禁教の撤廃など、革新的進歩的な施策を主導した。一方で不平士族の利益を保護するような後進的・封建的な顔ものぞかせる。侵略的かつ帝国主義的な征韓論を主張したかと思えば、「江戸無血開城」のように避戦闘的な姿勢も見せる。度量が大きいようで、謎めいたところもあり、庶民的なようでいざとなったら武力行使も辞さない強硬派でもあった。筆者がいうように西郷を語る時、「複眼的に見る必要がある」というのは極めて適確な西郷論である。

ところが「飫肥西郷」と称される小倉處平論となると、いきなり客観性と冷静さを失ってしまう。「小藩飫肥藩の国是は絶えず薩摩を警戒し、いかにして薩摩に飲み込まれないようにするかということでしたが、處平は日本を変えるのは薩摩だと見抜いていた」「處平の囚われない眼力には驚かされます」と絶賛するが、最後まで西郷と薩摩に追随した飫肥隊は大きな犠牲を払い、小倉處平自身も自刃して命を絶つことになった。結果からみれば、薩摩に頼り過ぎた處平は身を誤ったとしか思えない。

筆者が本書の主役と位置付ける、平部嶠南の嫡子俊彦の戦死、そしてそれを伝えきいた一族の慟哭、追い打ちをかけるように俊彦の遺児知一の病死。一族を襲った悲劇は胸をつく。嶠南の失意はいかばかりであったろうか。

第7章から第8章にかけての記述はかなり無茶苦茶である。伊藤博文の内閣で外務大臣を務めた陸奥宗光だが、伊藤が急死したため昔の機密文書が明るみに出て、禁固五年の刑に処されたとか(伊藤の暗殺は明治四十二年(1909)、陸奥が投獄されたのは西南戦争後)、佐賀の乱で江藤新平と島団右衛門(義勇)とが同じ船で土佐に渡ったとか、小倉處平が「西郷隆盛の挙兵」を聞いて、神戸から小倉に向かう船に会津出身の永岡久茂(思案橋事件で獄死)が同乗していたとか、貴島清が都城出身だとか、どこからそのような話を引っ張ってきたのか、首を傾げる記述が目に付く。

歴史書として本書を読むと当てが外れる。そうではなくて宮崎県の史跡ガイド本として本書をとらえると、さすがに地元の人が各所に足を運んで記載しているものである。日南市飫肥の上越墓地は、もちろん私も訪ねたが、今から思えばもっと墓石を一つひとつ確認しておくべきだった。清武町の中野神社も訪問したが、隣接する西南役記念碑はその存在をまったく見逃してしまった。いずれリベンジせねばならない。

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「大久保利通 「知」を結ぶ指導者」 瀧井一博著 新潮選書

2022年10月29日 | 書評

ハノイに赴任してからこちらの事情が色々分かってきた。日本国内ではどこにいても普通にインターネットを通じてFM放送を聴取することができたが、海外は「エリア外」となり、中学生の時以来の趣味であるライブ録音を聴くことができなくなってしまった。さすがにこちらに来てしまえば史跡探訪は諦めざるを得ないことは覚悟していたが、書籍を入手できないのには困ってしまった。気になった書籍があれば日本の自宅に届けてもらい、まとめて郵送してもらうしかない。三十年前に駐在していたシンガポールでは日系の書店が進出していて日本語の書籍も入手できたが、今やネットを通じて書籍も購入する時代となったことによる思わぬ弊害であった。野球やソフトボール、テニスといったスポーツをやるにも、同好の人がみつからなければ始めることもできない。日本に住んでいたときには、普通にできた趣味が何一つできない事実に愕然としている。今のところ、日本で購入して当地に持ち込んだ貴重な書籍を、休みの日に少しずつ読み解いている。本書はその一冊である。

著者瀧井一博氏は、「伊藤博文」「大隈重信」(以上、中公新書)、「明治国家をつくった人びと」(講談社現代新書)などの著作がある。どちらかというと、明治期の法制史が専門という印象が強いが、本書では大久保利通を正面から取り上げた。維新前は専門外かと勝手に思っていたが、見事に大久保利通という人物の本質を突く論説であった。

維新前夜の西郷隆盛と大久保利通は、時に陽となり時に陰となり、お互いを支えながら倒幕という共通目標に邁進した。両者は一体化した存在という印象が強いが、当然ながらそうはいっても別人格であり、必ずしも両者の思想や行動は、一致しているわけではない。条理に基づいた政治を意識し、「非義の勅命は勅命に非ず」と断定した大久保は、思想面でいえば西郷の一歩も二歩も先を見ていたといえるだろう。

本書において、著者は大久保利通を「知の政治家」と定義し、その思想を明らかにすることを目指した。大久保利通については、リアリズムに徹した「夢を持たぬ」政治家という批評もある(田中惣五郎「大久保利通」(千倉書房、1938年))。大勢順応主義、対立撤去主義、多数主義者であって、自らの夢などを持たず、政治家としての理念も抱かず、ひたすら国家の維持のために旧藩的対立を糊塗しようとしたというのである。長らくこういった大久保像が広く受け入れられてきた。

これに対し筆者は、「大久保には夢があった」「夢見る政治家だった」と反論する。その夢とは、「藩による割拠を克服した国民的宥和としての国家建設」である。その夢の実現のために大久保が手掛けたのが明治十年(1877)の内国勧業博覧会であった。

博覧会というと、そのイベントに慣れてしまった現代の人間にとっては、地域経済活性化のためのありきたりの施策の一つとしか思わないが、確かに我が国で初めて開かれたこのイベントは、極めてエポックメイキングなものであった。現代において博覧会が開かれれば、プロデューサーと呼ばれるエキスパートが取り仕切るが、第一回内国勧業博覧会はまさに大久保利通その人がプロデューサーであった。

大久保は欧米視察を通じて万国博覧会の存在を知っていたし、見世物的イベントであれば、その時外国からも博覧会への参加の打診があったというし、外国からの出品を受け入れれば、もっと集客の術はあっただろう。しかし、大久保は「今度の博覧会は全く内地の物産を繁殖せしむるというのが趣意であり、外国の輸入品は一切陳列を差し止める」と拒絶し、「内国勧業」にこだわった。大久保が語った開会の辞によれば、日本全国の物産を一堂に集め、その優劣や差異を判別し、工芸の進歩を促し、国富を増進する催しなのである。実際にこの内国勧業博覧会を機に、我が国の陶磁器業は技術の向上を遂げ、殖産興業、輸出力強化に寄与することになった。同じようなことが、機械工業にも言える。

大久保は「公論に立脚した国制を希求していた。」「公論との同一化に支えられた熱烈な使命感と不動の信念」を政治家の資質として弁えていた。一方で、処士横議を口にし、言路洞開を主張する浪士を毛嫌いし、旧習に拘泥する公家勢力や旧大名層も排除の対象となった。政敵を排除しただけでなく、讒謗律や新聞紙条例によって政府批判も弾圧して封じ込んだのも事実である。結果として、大久保は有司専制の象徴として最後は征韓派士族に暗殺される。

筆者がいうように、私も大久保利通という人は、「知の政治家」であり、高邁な理念をもって、さまざまな政治勢力や政策的意見を吸収し、取捨選択し、時には結び合わせて、政治的潮流を作った稀有な存在であったと思う。しかし、本書にはあまり記述がないが、時には強権的であり、反対勢力から怨嗟を集めていたことも事実である。もう少しその辺りにも触れてもらえると、より立体的、複層的な大久保利通論になっただろう。

 

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「明治維新 勝者の中の敗者」 遠山浩規著 山川出版社

2022年10月29日 | 書評

著者遠山浩規氏の本業は「国際政治経済学」であるが、若い時期に「利通暗殺―紀尾井町事件の基礎的研究」(行人社1986年)で、歴史研究の世界でも一躍名を高めた方である。本書はそれ以来調査・研究を積み重ねてきた著者が三十五年振りに世に問う力作で、一般にはほとんど知られていない明治初年の反政府活動の実態を明らかにしたものである。

明治初年の反政府活動というと、佐賀の乱や神風連の乱、秋月の乱、萩の乱そして西南戦争へと続く不平武士による武装反乱が想起されるが、その陰にあって維新に乗り遅れた攘夷派たちは水面下で執拗な活動を続けていた。彼らの動きは、表の歴史に刻まれることもなく、ほとんど史料も残っていないことから、これを扱った関連書籍も少ない。本書では土佐藩士堀内誠之進という一人の活動家の足跡を追うことで、この時代の反政府活動の実態を明らかにしてみせた。奇兵隊の反乱、二卿事件、西南戦争へと続く一連の事件について、私もこれまで個別には知っていたつもりであったが、これを堀内誠之進という人物を通じて、事件を線で結ぶことに成功した。筆者によれば、本書は三十五年にわたって調査・研究した成果だという。つまり「利通暗殺」以来温めてきた構想を形にした集大成といえる。

堀内誠之進は、天保十三年(1842)、高岡郡仁位田郷柿木山村の出身。実家が庄屋という点では中岡慎太郎や吉村寅太郎と共通している。この人物が、幕末どのような活動をしていたのかについては「わずかな情報と資料しかない」という。はっきりしているのは、慶應年間に藩の物産局に勤めていたということくらいである。志士的活動をしていたと思われる節もあるが、はっきりしない。さらに戊辰戦争にも従軍していない。これも理由は明確ではないが、筆者は「歩行に障害があったため」と推定している。なお従兄島村賢之進(土佐勤王党員)は、会津で戦死している。

要するに幕末において堀内誠之進という人物は、志士として特に目立った活躍はしていなかったということであろう。

誠之進が藩外にでて活動を開始するのは、明治二年(1869)一月のことである。当時の京都は、政府の欧化主義、東京遷都、草莽弾圧等に対する不満と批判が渦巻き、当地を訪れた活動家は例外なく「この京都の尊攘的風土と政府批判の風潮の洗礼を受けた」(佐々木克『志士と官僚』)といわれる。京都に入った誠之進もその一人であったろう。

横井小楠が明治二年(1869)正月、京都で暗殺された。維新後初の政府高官暗殺事件であった。小楠を暗殺した刺客が称賛され、減刑・寛典を求める声が相次いだ。その中心にあったのが弾正台京都支台であり、その一員であって、とりわけ犯人助命のために奔走したのが柳川藩士古賀十郎という人物であった。古賀はこの後、誠之進とも関係を持ち、明治天皇の再幸中止を訴え、その実現が難しいと悟ると二卿事件に深く関与していくことになる。誠之進も、引き込まれるように一連の反政府運動に関わっていった。

堀内誠之進は、同じ土佐藩出身の岡崎恭輔(恭助、強介とも)や依岡城雄らと秋田藩の初岡敬冶、古賀十郎らと密儀を重ね、明治二年(1869)九月、大村益次郎襲撃事件を起こす。実行犯は、神代直人(山口)、団伸二郎(山口)、金輪五郎(秋田)、五十嵐伊織(越後)、関島金一郎(信州伊那郷士)。第二組として、伊藤源助(白河脱藩)、太田光太郎(山口)、宮和田進(国学者・中山忠能家来)が加わった。大村襲撃事件後、誠之進は岡崎らとともに全国に指名手配され、彼らは中国・九州を目指して逃亡した。このとき捕縛を逃れたのは堀内誠之進とその弟了之輔、岡崎恭輔だけで、実行犯神代直人以下は全員捕らえられ処刑されている。

肥後熊本の藤崎八幡宮神官鬼丸競(壱岐)方で再会を果たした誠之進と岡崎恭輔は、山口藩奇兵隊の反乱を支援し、その機に乗じて攘夷決行を企てた。二人が頼ったのはまず久留米藩の古松簡二であった。岡崎は古松を連れて当時肥後藩の飛び地であった大分の鶴崎へ河上彦斎を訪ねた。この時四人は、諸藩を鼓舞して大いに兵力を振い、東京に押し出して攘夷親征を実現すると方針を定めた。しかし、彼らの工作は不首尾に終わり、当てにしていた山口の脱退兵も呆気なく鎮圧された。誠之進も鶴崎を離れ、山口宗次郎と変名して東京に潜伏した後、明治三年(1870)十一月には大村事件で指名手配され脱出した京都に一年二カ月ぶりに舞い戻った。再幸後の京都には、公卿の家柄の凋落を嘆き、政府の洋風化、開明策に憤る二人の若い旧公卿がいた。外山光輔と愛宕通旭(おたぎみちてる)である。誠之進は愛宕グループに合流した。ここには比喜多源二(国学者)、古賀十郎、中村恕助(秋田・初岡敬冶の同志、部下)らが旧公卿を盟主として武力蜂起し、東京の政府を転覆するという大胆なクーデター計画を企てていた。しかし、それを実行に移すには彼らには武力がなかった。そこで、愛宕グループの意を受けた誠之進は東京に出て、外務卿澤宣嘉の下でクーデターを目論む岡崎恭輔や同じ土佐藩出身の土居策太郎(幾馬)、坂本速之輔らと接触し、意気投合した。彼らが期待した久保田藩(秋田)の初岡敬冶が藩の権大参となり、武装蜂起にはまったく消極的となっていたため、彼らが頼るのは久留米藩しかなかった。しかし、反政府派のクーデター計画が久留米藩の兵力頼みであることは、明治政府も見抜いていた。

明治四年(1871)三月、久留米藩の処分のため巡察使四条隆謌は山口、熊本の兵を率いて藩境まで兵を進め、久留米藩庁に圧力をかけた。追い詰められた久留米藩では水野正名、小河真文らが出頭し、藩存亡の危機に立たされた。藩内の反政府攘夷派は動揺し、終に藩に匿っていた大楽源太郎を殺害して巡察使に自訴する挙にでた。

同じ頃、広沢参議暗殺の不審人物として堀内誠之進は捕縛され、前後して東京と京都では反政府尊攘派が一斉に捕縛された。こうして愛宕・外山二卿を盟主とした東西同時クーデター計画は、完全に瓦解した。この時、丸山作楽、落合直亮、矢野玄道、権田直助、中沼了三といった反政府派に影響力のある国学者や儒学者も一斉に検挙され、諸藩御預けとなっている。愛宕通旭、外山光輔ともに処刑。幕末から明治にかけて公家出身者が処刑された例は本事件以外ない。

堀内誠之進も国事犯として投獄され、明治四年(1871)十二月には、鹿児島県預けとなった。以後、西南戦争まで鹿児島に軟禁されることになる。とはいえ、早々に英医ウィリアム・ウィリスが住んでいた異人館に転居することになり、比較的自由な生活を送っていたらしい。

西南戦争では、薩軍に従軍志願し、明治十年(1877)五月下旬、桐野利秋から高知に潜入することを命じられた。追い込まれた桐野にとって、土佐からの援軍が形勢逆転の秘策だったのである。

筆者は、誠之進が土佐潜入のため上陸した沖ノ島(現・高知県宿毛市)まで上陸し、誠之進の足跡を追う。尋常ならざる執念である。本書は筆者の執念が形となったもので、歴史の隙間を埋める一冊となっている。

 

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「明治日本はアメリカから何を学んだのか」 小川原正道著 文春新書

2022年08月27日 | 書評

本書の副題は「米国留学生と『坂の上の雲』の時代」とされている。我が国は日清戦争に勝利し、列強への階段を昇り始めた。アメリカもまた、1898年の米西戦争での勝利によって世界政治の舞台に躍り出た。十九世紀の世界では脇役だった両国は、二十世紀初頭、欧州列強とともに世界史の中心的な役割を演じることになった。

筆者によれば「その両国が出会い、密接な関係を構築して世界史を動かしたのが、日露戦争」としている。この戦争では多くの米国留学生が活躍した。いわば、アメリカ留学の集大成ともいえる出来事であった。

もっとも有名で、もっとも日露戦争終結に貢献が大きかったのが、福岡藩出身の金子堅太郎であろう。金子は明治四年(1871)、岩倉使節団に同行し、旧藩主黒田長溥の命で、團琢磨とともに長溥の養嗣子・長知に随行してアメリカに留学した。当初は、アナポリス海軍兵学校への進学を望んでいたが、健康上の理由からハーバード・ロー・スクールへ進学した。

この時期、アメリカへの留学生は挙ってロー・スクールを目指した。本書では「ロー・スクール黄金時代」と称している。金子のほかにも井上良一(東京大学法学部教授)、目賀田種太郎(枢密院顧問官)、小村寿太郎、栗野進一郎(駐仏大使)ら、いずれも米国ロー・スクール出身者である。当時の日本にとって、最大の外交課題は、江戸時代に幕府が欧米列強と結んだ不平等条約の改正であった。そのためには、欧米列強に受け入れられるだけの法制度を整える必要があった。いわば法整備は、国家の最重要課題でもあった。彼らは国家を背負ってロー・スクールで学んだ。

金子と同宿していた小村寿太郎は、医者から読書を止めるようにいわれるほど、勉学に励んだ。彼らはいずれも優秀な成績で現地の大学を卒業しているが、その陰には猛烈な勉強があった。彼らの勉学を支えたのは、自分が国家をつくるという強烈な自負心と使命感であろう。

金子は法律の勉強にとどまらず、積極的に社交界に繰り出し、上流階級の人々と交流した。土日には、現地の詩人、政治家、弁護士、学者などと晩餐を楽しみながら談論した。帰国しても会える日本人同士で交流するのではなく、アメリカでしか会えないアメリカ人と交際し、親密な関係を築くことが両国の「外交」に繋がるとの信念からだったという。この時、ハーバード内外で培った人脈は日露戦争で大いに役立つことになった。

宣戦布告と同時にアメリカに渡った金子は、ハーバード人脈を頼って積極的な広報外交を展開した。

金子の同郷の親友、團琢磨もMIT人脈を通じて日本への支持を呼び掛けた。ロシアに宣戦布告文を届けた駐露公使は栗野進一郎であったし、ポーツマス講話会議で全権を務めた小村寿太郎もハーバードで法学を学んでいる。戦費獲得のため欧米に乗り込んで外債募集したのは、日銀副総裁高橋是清であった。戦争の転機となった日本海海戦で日本海軍を勝利に導いた名参謀秋山真之も、アメリカに留学して海軍戦略家のアルフレッド・T・マハンに師事している。アメリカに留学したエリートたちは総力を結集してロシアとの戦いに臨み、勝利をつかみとったのである。

ところが日露戦争で勝利を収めた日本は、まるで目標を失ったかのように迷走する。新たな時代を担う学生や留学生の思考も変化をきたした。若きエリートたちの視線は、個人的な栄達を示す「出世」へと向けられていった。本書で引用されているように船曳建夫氏は「日露戦争後の若きエリートたちには、国家の発展の闘いよりも、目の前に個人の「出世」というゲームがおかれていたことである。そこでは国家が語られながらも、内実は彼らの周りを取り巻く「世間」における人生ゲームであった」と喝破している。

日露戦争後、多くのアメリカ留学生が関係悪化を食い止めようと腐心する中、もっともアメリカに知己を有し、「外交官よりもアメリカに精通している」と自負していた金子堅太郎その人が、日本人移民排斥運動が激化するとともに嫌米に傾いて行った。「アメリカを知っているからこそ、裏切られたと感じた際の絶望感は、親友に裏切られたそれに似た、深い悲しみを帯びていたに違いない。」と筆者は指摘している。「エリート間の秘密外交でことが決する時代は終わりつつあった」(酒井一臣「金子堅太郎と近代日本―国際主義と国家主義」(二〇二〇))。

本書では、金子堅太郎以外にも、吉原重俊、小村寿太郎、團琢磨、朝河貫一といった魅力的なアメリカ留学生を多数紹介している。彼らがいかに国家を背負って勉学に励み、国家に尽くしたかを知るにも非常に有用な一冊である。

「あとがき」で、中津藩出身の英学者小幡甚三郎について触れられている。当時、慶應義塾を代表する英学者であった小幡は、旧藩主奥平昌遇の従者として渡米したが、彼の英語は現地でまったく通じず、そうしたストレスの積み重ねが彼の心身を蝕んでいき、やがてフィラデルフィアで死去した。表舞台での留学生の華々しい活躍の蔭で、国家や郷里の期待を背負い、慣れない土地で勉学に骨身をすり減らして、あるいは病気にかかり志半ばで倒れた人も少なくない。こうした犠牲者にも思いを馳せたい。

エピローグでは、日米戦争の最前線で指揮を執ることになった連合艦隊司令長官山本五十六を紹介している。彼もまたアメリカに留学した一人である。山本は、アメリカの石油に関心を持ち、油田を視察し、関連資料を読み耽った。アメリカに関する知見を深めた山本が、長期戦は無理と判断した結果、航空機による奇襲攻撃へ結びついたのだという。

彼が駐米日本大使館附武官時代、留学のために渡米してきた海軍兵学校後輩に「英語の本なら日本でも読める。アメリカにいるなら、アメリカでしかできないことをする、そのために旅行し、視察して回ること」とアドバイスした。

私も四半世紀ぶりの海外駐在を目前に控えている。山本の助言を胸に、できるだけ現地を自分の目で見て回りたいと思うのである。

 

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