史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「長溥の悔恨」 池松美澄著 花乱社

2022年12月30日 | 書評

日本を離れる前に書店で発見したもの。小説のようで小説でもない。評論のようで評論でもない。どちらかというと中途半端な印象。

プロローグで維新後の黒田長溥の悔恨が披露される。少々長くなるが引用する。

――― あの乙丑の年の大粛清は一体、何だったのか。佐幕派の連中に焚きつけられた保守・重臣の上申とはいえ、どうしてあのような狂気に走ってしまったのか、長溥は自分でもそのことがわからない。

 佐賀の鍋島閑叟(直正)のように、妖怪と言われようが何と言われようが、のらりくらりと日和見を決め込んで、幕府に忖度などせずやり過ごしておけばよかった、と今にしては思う。月形洗蔵、加藤司書、建部武彦、衣非茂記たち有為の人材を生かしていたら、彼らは必ずや新政府の要人になっていたに違いない。

 また、兄弟のようにして育った島津斉彬や老中・阿部正弘がもっと長生きしてくれていたら、彼らと協力し合って今の政府とは違う新国家の骨格を創り、会津藩、二本松藩などに「賊軍」という言われなき汚名を着せ、この世のものとも思えない阿鼻叫喚の苦しみを与えることなど断じて許さなかったのに、と思う。

 そして、薩長を中心とした過激派「志士」によるやりたい放題の今の政府とは違う新政府を建設していたのだ。そうすれば我が藩も太政官札の贋造事件など起こすことはなかったに違いない。

 この太政官札贋造事件により、廃藩置県の前に藩はお取り潰しになった。もとの家臣や領民に顔向けなどできるはずがない。だから福岡には行きたくても行けないのだ。この寂しさ、やるせなさ、空虚感を鎮めるにはどうすればいいのだろうか。いっそ父祖の地である鹿児島に行って桜島でも見て過ごそうかとも思う。

 

等々、悔恨の思いは果てがない。

ここで述べられているように長溥の人生は苦渋に満ちたものであった。長溥の父は第八代薩摩藩主島津重豪。重豪の曽孫である斉彬とは大叔父大甥という関係にあるが、斉彬が二歳年長で、年が近い二人は兄弟のように育てられた。二人とも重豪の影響を受けて西欧の文化に強い興味を持ち、積極的開国策を主張した。本書プロローグで触れられているように、斉彬が幕末の動乱をともに生きていれば、手を携えて新国家の骨格を創ることができただろう。

しかし、斉彬が安政五年(1858)に没すると、長溥と筑前黒田藩は時代の波に翻弄されることになる。

幕末の黒田藩の混迷の窮極が慶応元年(1865)の乙丑の変であった。月形洗蔵、加藤司書、建部武彦、衣非茂記といった黒田藩を代表する勤王派を根こそぎ抹殺したこの事変は、深く禍根を残すことになった。藩内の派閥争いの無意味なことは、若い頃から薩摩藩における流血を伴う対立を目の当たりにしていた斉彬であれば、その愚を繰り返すことはしなかったであろう。長溥は薩摩藩からきた養子とはいえ、将軍家とは強い血の繋がりがあり(将軍家斉は養父斉清の伯父、また姉の広大院が家斉の正室になっていることから義兄にもあたる)、心情的には最後まで佐幕から抜け出すことができなかった。

本来であれば、時代の寵児となる資格をもっていただけにプロローグで描かれた「長溥の悔恨」は心情的に理解できるところである。本書では乙丑の変に至る経緯を分かりやすく記述しており、大いに理解が深まった。

しかし、「革命前夜」「二本松藩、会津藩の悲劇」辺りから突然長州藩や過激派志士に批判の矛先が向かい、エピローグでは「長溥の悔恨」はどこかに行ってしまい、ひたすら過激な攘夷志士や明治新政府への批判に終始している。巻末の参考・引用文献を見ると、星亮一氏や原田伊織氏、鈴木荘一氏、森田健司氏といった反薩長史観論者の著作ばかりが並んでいる。彼らの主張が著者の波長に合ったのだろうが、歴史をある一面から断罪する姿勢は疑問が残る。果ては孝明天皇毒殺説などという俗説について、「一回目の企てに失敗した者たちが、間髪入れずに二の矢を放ったもの」と、想像・推測の話が、まるで見てきたかのように書かれているのも非常に気になる。本書は論文ではなく、小説だから多少の創作は許されるということなのだろうか。

相楽総三が赤報隊を結成したのは、慶應四年(1868)一月、戊辰戦争の勃発以降のことであるが、本書では赤報隊が薩摩藩邸を拠点に江戸市中を攪乱したように記述されている。これも史実には沿っていない。著者の歴史に関する知識の浅薄さが露呈している。

 

 

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「江戸500藩全解剖」 河合敦著 朝日新書

2022年12月30日 | 書評

地方に行けば、その地方特有の文化や風習に出会うことができる。北陸トンネルを抜けると、突然福井弁の世界が待ち受けている。福井の人間にしてみれば、関西からやってきた私は「関西弁を使う変な奴」と思われたに違いない。ところが、学生時代に神戸に移って、神戸の人たちがちょっと癖のある関西弁を操ることに衝撃を受けた。一口に関西弁というが、大阪と京都と神戸ではまったく別の方言なのである。

県民性を取り上げたTV番組があとを絶たないのも、その淵源をたどっていくと江戸時代の藩にたどりつく。江戸時代、さして広くもない日本の中で(数え方によるが)最大500もの藩がかなり独立性高く併存していた。しかも、現代と違って人の流動性は低く、移動も制限されていたので、藩の独自性はまるで冷凍保存されたように長く維持された。

では、藩の歴史はそれぞれ全く独立したものだったかというと、不思議なことに申し合わせたように同時多発的に同じような歴史を刻んでいる。

江戸時代の三大改革といえば、享保・寛政・天保期を指すが、同じ時期、各藩でも改革が行われていた。結局のところ、幕府も藩もこの時期に経済的に行き詰まり、改革断行を余儀なくされたのである。

周知のとおり江戸時代は、商品経済が発達し商人の中には巨富を築いた者もいた。しかも、相も変わらず米納社会であったため藩の財政が行き詰ったのも当然のことといえる。

藩政改革といっても、倹約を徹底するとか、藩士の家禄を一律削減するとか、商人からの借金を踏み倒すといった類の対策ばかりである。現代的な発想でいえば、どうして商人に対して所得に応じて課税しないのだろうかと考えてしまうが、この時代商人に課税したという話はあまり聞かない。強いて近い例を挙げれば、商人から上納金を出させるとか、運上金、冥加金を課すというくらいのものである。

企業経営でいうと、もはやリストラが必要な状態だと思われるが、この時代は石高に応じて武力を常備する必要があり、大胆に人員削減することもできなかった。

改革の一環として藩校の設置が進んだ。もっとも古いものは寛文六年(1666)の岡山藩学といわれる。ただし、その後百年以上、他藩での藩校開設は進まず、設置率は大藩を中心に十%程度だった。

ところが寛政の改革がおこなわれた十八世紀末になると、幕府の昌平坂学問所を皮切りに各藩は競って藩校を開いた。寛政年間に続いて藩校開設のブームが到来したのが天保年間であった。

現代、文部科学省が作成した学習指導要領に則った教科書を用いて公立学校では教育が行われており、そのため全国で同質の教育を受けることができるようになっている。江戸時代は、教育に関しては各藩に一任されており、各藩では独自の教育が展開され、結果、独特の士風が形成された。子細にみれば、藩校の教育は各藩工夫を凝らし、ユニークなものであった。

ユニークな教育を実践した藩校として、水戸学の発信基地となった水戸弘道館、国学を導入した津和野藩の養老館、徂徠学を中心に据え、生徒の自主性を重んじた致道館などがある。

現代においても、秋田県の国際教養大学や大分県の立命館アジア太平洋大学などユニークな大学が生まれているが、既存の地方大学もその地方色を活かして、もっと独自性を追究したら良いかもしれない。

 

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「西南戦争と飫肥隊」 河野富士夫著 みやざき文庫

2022年11月26日 | 書評

今年のGWに宮崎県を旅し、宿願であった飫肥にも足を運ぶことができた。本来であれば、本書は宮崎訪問の前に出会うべきものであるが、残念ながらこの本を八王子の本屋で発見したのは、そのずっと後であった。読み終わって「やっぱり宮崎旅行の前に出会いたかった」と臍をかむ思いであった。

本書の副題は「平部嶠南の二つの日誌を読みとく」となっている。平部嶠南は、文化十二年(1815)、旧飫肥藩領清武町中野(現・宮崎市清武町)の生まれ。幼年より秀才の誉れ高く、同郷の安井息軒の教えを受けた。天保四年(1833)、江戸に上って古賀侗庵の門に入り、帰途水戸の諸学者を訪れた。帰国して藩校振徳堂の教授となり、弘化元年(1844)、江戸桜田邸副留守居、のち家老となった。明治二十三年(1890)、年七十六で没。

平部嶠南は、「嶠南日誌」と「六鄰荘日誌」という二つの日誌を残している。六鄰荘とは、嶠南が起居していた本宅とは別に、嶠南五〇歳となった元治元年(1864)に新築した住居のことである。隣に六軒の隣家があったことから「六鄰荘」と名付けた。

では、何故嶠南は二つの日誌を残したのか。「嶠南日誌」はリアルタイムで書かれた普通の日記である。これに対し「六鄰荘日誌」は、後日「嶠南日誌」をベースにしながらも、官から追及されても言い逃れができるように書き換えられたものである。

たとえば、「西郷起つ」の一報が飫肥にもたらされると、嶠南も「兵士出張の主意書」という檄文作成に関わり兵を募った。嫡子平部俊彦も飫肥一番隊の一員として出征した。元家老として飫肥隊の結成に積極的に関与したのである。しかし、「六鄰荘日誌」では「事の善悪は暫くこれを置くとして、今なお士気があってこれほどまでに勇み立つとは。さすが二百八十五年の間伊東氏が飫肥を治められた名残かなと、心の中は感慨ひとしおであった」とのみ記す。自らの関与は触れずに、その時の感動だけを書き残している。

この用意周到さがあって幕末の争乱にあって、飫肥藩では嶠南を家老として重用し、彼もそれに応えて存分に腕を振ったのであろう。組織のトップの最大の仕事はリスクマネジメントなのである。

本書前半部分に書かれた西郷隆盛に関する分析は、多分に司馬遼太郎の「翔ぶが如く」に影響されたところはあるにせよ、的確に西郷隆盛の二面性とか複雑性を突いている。西郷は留守政府時代、学制改革や太陽暦の採用、地租改正、キリスト教禁教の撤廃など、革新的進歩的な施策を主導した。一方で不平士族の利益を保護するような後進的・封建的な顔ものぞかせる。侵略的かつ帝国主義的な征韓論を主張したかと思えば、「江戸無血開城」のように避戦闘的な姿勢も見せる。度量が大きいようで、謎めいたところもあり、庶民的なようでいざとなったら武力行使も辞さない強硬派でもあった。筆者がいうように西郷を語る時、「複眼的に見る必要がある」というのは極めて適確な西郷論である。

ところが「飫肥西郷」と称される小倉處平論となると、いきなり客観性と冷静さを失ってしまう。「小藩飫肥藩の国是は絶えず薩摩を警戒し、いかにして薩摩に飲み込まれないようにするかということでしたが、處平は日本を変えるのは薩摩だと見抜いていた」「處平の囚われない眼力には驚かされます」と絶賛するが、最後まで西郷と薩摩に追随した飫肥隊は大きな犠牲を払い、小倉處平自身も自刃して命を絶つことになった。結果からみれば、薩摩に頼り過ぎた處平は身を誤ったとしか思えない。

筆者が本書の主役と位置付ける、平部嶠南の嫡子俊彦の戦死、そしてそれを伝えきいた一族の慟哭、追い打ちをかけるように俊彦の遺児知一の病死。一族を襲った悲劇は胸をつく。嶠南の失意はいかばかりであったろうか。

第7章から第8章にかけての記述はかなり無茶苦茶である。伊藤博文の内閣で外務大臣を務めた陸奥宗光だが、伊藤が急死したため昔の機密文書が明るみに出て、禁固五年の刑に処されたとか(伊藤の暗殺は明治四十二年(1909)、陸奥が投獄されたのは西南戦争後)、佐賀の乱で江藤新平と島団右衛門(義勇)とが同じ船で土佐に渡ったとか、小倉處平が「西郷隆盛の挙兵」を聞いて、神戸から小倉に向かう船に会津出身の永岡久茂(思案橋事件で獄死)が同乗していたとか、貴島清が都城出身だとか、どこからそのような話を引っ張ってきたのか、首を傾げる記述が目に付く。

歴史書として本書を読むと当てが外れる。そうではなくて宮崎県の史跡ガイド本として本書をとらえると、さすがに地元の人が各所に足を運んで記載しているものである。日南市飫肥の上越墓地は、もちろん私も訪ねたが、今から思えばもっと墓石を一つひとつ確認しておくべきだった。清武町の中野神社も訪問したが、隣接する西南役記念碑はその存在をまったく見逃してしまった。いずれリベンジせねばならない。

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「大久保利通 「知」を結ぶ指導者」 瀧井一博著 新潮選書

2022年10月29日 | 書評

ハノイに赴任してからこちらの事情が色々分かってきた。日本国内ではどこにいても普通にインターネットを通じてFM放送を聴取することができたが、海外は「エリア外」となり、中学生の時以来の趣味であるライブ録音を聴くことができなくなってしまった。さすがにこちらに来てしまえば史跡探訪は諦めざるを得ないことは覚悟していたが、書籍を入手できないのには困ってしまった。気になった書籍があれば日本の自宅に届けてもらい、まとめて郵送してもらうしかない。三十年前に駐在していたシンガポールでは日系の書店が進出していて日本語の書籍も入手できたが、今やネットを通じて書籍も購入する時代となったことによる思わぬ弊害であった。野球やソフトボール、テニスといったスポーツをやるにも、同好の人がみつからなければ始めることもできない。日本に住んでいたときには、普通にできた趣味が何一つできない事実に愕然としている。今のところ、日本で購入して当地に持ち込んだ貴重な書籍を、休みの日に少しずつ読み解いている。本書はその一冊である。

著者瀧井一博氏は、「伊藤博文」「大隈重信」(以上、中公新書)、「明治国家をつくった人びと」(講談社現代新書)などの著作がある。どちらかというと、明治期の法制史が専門という印象が強いが、本書では大久保利通を正面から取り上げた。維新前は専門外かと勝手に思っていたが、見事に大久保利通という人物の本質を突く論説であった。

維新前夜の西郷隆盛と大久保利通は、時に陽となり時に陰となり、お互いを支えながら倒幕という共通目標に邁進した。両者は一体化した存在という印象が強いが、当然ながらそうはいっても別人格であり、必ずしも両者の思想や行動は、一致しているわけではない。条理に基づいた政治を意識し、「非義の勅命は勅命に非ず」と断定した大久保は、思想面でいえば西郷の一歩も二歩も先を見ていたといえるだろう。

本書において、著者は大久保利通を「知の政治家」と定義し、その思想を明らかにすることを目指した。大久保利通については、リアリズムに徹した「夢を持たぬ」政治家という批評もある(田中惣五郎「大久保利通」(千倉書房、1938年))。大勢順応主義、対立撤去主義、多数主義者であって、自らの夢などを持たず、政治家としての理念も抱かず、ひたすら国家の維持のために旧藩的対立を糊塗しようとしたというのである。長らくこういった大久保像が広く受け入れられてきた。

これに対し筆者は、「大久保には夢があった」「夢見る政治家だった」と反論する。その夢とは、「藩による割拠を克服した国民的宥和としての国家建設」である。その夢の実現のために大久保が手掛けたのが明治十年(1877)の内国勧業博覧会であった。

博覧会というと、そのイベントに慣れてしまった現代の人間にとっては、地域経済活性化のためのありきたりの施策の一つとしか思わないが、確かに我が国で初めて開かれたこのイベントは、極めてエポックメイキングなものであった。現代において博覧会が開かれれば、プロデューサーと呼ばれるエキスパートが取り仕切るが、第一回内国勧業博覧会はまさに大久保利通その人がプロデューサーであった。

大久保は欧米視察を通じて万国博覧会の存在を知っていたし、見世物的イベントであれば、その時外国からも博覧会への参加の打診があったというし、外国からの出品を受け入れれば、もっと集客の術はあっただろう。しかし、大久保は「今度の博覧会は全く内地の物産を繁殖せしむるというのが趣意であり、外国の輸入品は一切陳列を差し止める」と拒絶し、「内国勧業」にこだわった。大久保が語った開会の辞によれば、日本全国の物産を一堂に集め、その優劣や差異を判別し、工芸の進歩を促し、国富を増進する催しなのである。実際にこの内国勧業博覧会を機に、我が国の陶磁器業は技術の向上を遂げ、殖産興業、輸出力強化に寄与することになった。同じようなことが、機械工業にも言える。

大久保は「公論に立脚した国制を希求していた。」「公論との同一化に支えられた熱烈な使命感と不動の信念」を政治家の資質として弁えていた。一方で、処士横議を口にし、言路洞開を主張する浪士を毛嫌いし、旧習に拘泥する公家勢力や旧大名層も排除の対象となった。政敵を排除しただけでなく、讒謗律や新聞紙条例によって政府批判も弾圧して封じ込んだのも事実である。結果として、大久保は有司専制の象徴として最後は征韓派士族に暗殺される。

筆者がいうように、私も大久保利通という人は、「知の政治家」であり、高邁な理念をもって、さまざまな政治勢力や政策的意見を吸収し、取捨選択し、時には結び合わせて、政治的潮流を作った稀有な存在であったと思う。しかし、本書にはあまり記述がないが、時には強権的であり、反対勢力から怨嗟を集めていたことも事実である。もう少しその辺りにも触れてもらえると、より立体的、複層的な大久保利通論になっただろう。

 

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「明治維新 勝者の中の敗者」 遠山浩規著 山川出版社

2022年10月29日 | 書評

著者遠山浩規氏の本業は「国際政治経済学」であるが、若い時期に「利通暗殺―紀尾井町事件の基礎的研究」(行人社1986年)で、歴史研究の世界でも一躍名を高めた方である。本書はそれ以来調査・研究を積み重ねてきた著者が三十五年振りに世に問う力作で、一般にはほとんど知られていない明治初年の反政府活動の実態を明らかにしたものである。

明治初年の反政府活動というと、佐賀の乱や神風連の乱、秋月の乱、萩の乱そして西南戦争へと続く不平武士による武装反乱が想起されるが、その陰にあって維新に乗り遅れた攘夷派たちは水面下で執拗な活動を続けていた。彼らの動きは、表の歴史に刻まれることもなく、ほとんど史料も残っていないことから、これを扱った関連書籍も少ない。本書では土佐藩士堀内誠之進という一人の活動家の足跡を追うことで、この時代の反政府活動の実態を明らかにしてみせた。奇兵隊の反乱、二卿事件、西南戦争へと続く一連の事件について、私もこれまで個別には知っていたつもりであったが、これを堀内誠之進という人物を通じて、事件を線で結ぶことに成功した。筆者によれば、本書は三十五年にわたって調査・研究した成果だという。つまり「利通暗殺」以来温めてきた構想を形にした集大成といえる。

堀内誠之進は、天保十三年(1842)、高岡郡仁位田郷柿木山村の出身。実家が庄屋という点では中岡慎太郎や吉村寅太郎と共通している。この人物が、幕末どのような活動をしていたのかについては「わずかな情報と資料しかない」という。はっきりしているのは、慶應年間に藩の物産局に勤めていたということくらいである。志士的活動をしていたと思われる節もあるが、はっきりしない。さらに戊辰戦争にも従軍していない。これも理由は明確ではないが、筆者は「歩行に障害があったため」と推定している。なお従兄島村賢之進(土佐勤王党員)は、会津で戦死している。

要するに幕末において堀内誠之進という人物は、志士として特に目立った活躍はしていなかったということであろう。

誠之進が藩外にでて活動を開始するのは、明治二年(1869)一月のことである。当時の京都は、政府の欧化主義、東京遷都、草莽弾圧等に対する不満と批判が渦巻き、当地を訪れた活動家は例外なく「この京都の尊攘的風土と政府批判の風潮の洗礼を受けた」(佐々木克『志士と官僚』)といわれる。京都に入った誠之進もその一人であったろう。

横井小楠が明治二年(1869)正月、京都で暗殺された。維新後初の政府高官暗殺事件であった。小楠を暗殺した刺客が称賛され、減刑・寛典を求める声が相次いだ。その中心にあったのが弾正台京都支台であり、その一員であって、とりわけ犯人助命のために奔走したのが柳川藩士古賀十郎という人物であった。古賀はこの後、誠之進とも関係を持ち、明治天皇の再幸中止を訴え、その実現が難しいと悟ると二卿事件に深く関与していくことになる。誠之進も、引き込まれるように一連の反政府運動に関わっていった。

堀内誠之進は、同じ土佐藩出身の岡崎恭輔(恭助、強介とも)や依岡城雄らと秋田藩の初岡敬冶、古賀十郎らと密儀を重ね、明治二年(1869)九月、大村益次郎襲撃事件を起こす。実行犯は、神代直人(山口)、団伸二郎(山口)、金輪五郎(秋田)、五十嵐伊織(越後)、関島金一郎(信州伊那郷士)。第二組として、伊藤源助(白河脱藩)、太田光太郎(山口)、宮和田進(国学者・中山忠能家来)が加わった。大村襲撃事件後、誠之進は岡崎らとともに全国に指名手配され、彼らは中国・九州を目指して逃亡した。このとき捕縛を逃れたのは堀内誠之進とその弟了之輔、岡崎恭輔だけで、実行犯神代直人以下は全員捕らえられ処刑されている。

肥後熊本の藤崎八幡宮神官鬼丸競(壱岐)方で再会を果たした誠之進と岡崎恭輔は、山口藩奇兵隊の反乱を支援し、その機に乗じて攘夷決行を企てた。二人が頼ったのはまず久留米藩の古松簡二であった。岡崎は古松を連れて当時肥後藩の飛び地であった大分の鶴崎へ河上彦斎を訪ねた。この時四人は、諸藩を鼓舞して大いに兵力を振い、東京に押し出して攘夷親征を実現すると方針を定めた。しかし、彼らの工作は不首尾に終わり、当てにしていた山口の脱退兵も呆気なく鎮圧された。誠之進も鶴崎を離れ、山口宗次郎と変名して東京に潜伏した後、明治三年(1870)十一月には大村事件で指名手配され脱出した京都に一年二カ月ぶりに舞い戻った。再幸後の京都には、公卿の家柄の凋落を嘆き、政府の洋風化、開明策に憤る二人の若い旧公卿がいた。外山光輔と愛宕通旭(おたぎみちてる)である。誠之進は愛宕グループに合流した。ここには比喜多源二(国学者)、古賀十郎、中村恕助(秋田・初岡敬冶の同志、部下)らが旧公卿を盟主として武力蜂起し、東京の政府を転覆するという大胆なクーデター計画を企てていた。しかし、それを実行に移すには彼らには武力がなかった。そこで、愛宕グループの意を受けた誠之進は東京に出て、外務卿澤宣嘉の下でクーデターを目論む岡崎恭輔や同じ土佐藩出身の土居策太郎(幾馬)、坂本速之輔らと接触し、意気投合した。彼らが期待した久保田藩(秋田)の初岡敬冶が藩の権大参となり、武装蜂起にはまったく消極的となっていたため、彼らが頼るのは久留米藩しかなかった。しかし、反政府派のクーデター計画が久留米藩の兵力頼みであることは、明治政府も見抜いていた。

明治四年(1871)三月、久留米藩の処分のため巡察使四条隆謌は山口、熊本の兵を率いて藩境まで兵を進め、久留米藩庁に圧力をかけた。追い詰められた久留米藩では水野正名、小河真文らが出頭し、藩存亡の危機に立たされた。藩内の反政府攘夷派は動揺し、終に藩に匿っていた大楽源太郎を殺害して巡察使に自訴する挙にでた。

同じ頃、広沢参議暗殺の不審人物として堀内誠之進は捕縛され、前後して東京と京都では反政府尊攘派が一斉に捕縛された。こうして愛宕・外山二卿を盟主とした東西同時クーデター計画は、完全に瓦解した。この時、丸山作楽、落合直亮、矢野玄道、権田直助、中沼了三といった反政府派に影響力のある国学者や儒学者も一斉に検挙され、諸藩御預けとなっている。愛宕通旭、外山光輔ともに処刑。幕末から明治にかけて公家出身者が処刑された例は本事件以外ない。

堀内誠之進も国事犯として投獄され、明治四年(1871)十二月には、鹿児島県預けとなった。以後、西南戦争まで鹿児島に軟禁されることになる。とはいえ、早々に英医ウィリアム・ウィリスが住んでいた異人館に転居することになり、比較的自由な生活を送っていたらしい。

西南戦争では、薩軍に従軍志願し、明治十年(1877)五月下旬、桐野利秋から高知に潜入することを命じられた。追い込まれた桐野にとって、土佐からの援軍が形勢逆転の秘策だったのである。

筆者は、誠之進が土佐潜入のため上陸した沖ノ島(現・高知県宿毛市)まで上陸し、誠之進の足跡を追う。尋常ならざる執念である。本書は筆者の執念が形となったもので、歴史の隙間を埋める一冊となっている。

 

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「明治日本はアメリカから何を学んだのか」 小川原正道著 文春新書

2022年08月27日 | 書評

本書の副題は「米国留学生と『坂の上の雲』の時代」とされている。我が国は日清戦争に勝利し、列強への階段を昇り始めた。アメリカもまた、1898年の米西戦争での勝利によって世界政治の舞台に躍り出た。十九世紀の世界では脇役だった両国は、二十世紀初頭、欧州列強とともに世界史の中心的な役割を演じることになった。

筆者によれば「その両国が出会い、密接な関係を構築して世界史を動かしたのが、日露戦争」としている。この戦争では多くの米国留学生が活躍した。いわば、アメリカ留学の集大成ともいえる出来事であった。

もっとも有名で、もっとも日露戦争終結に貢献が大きかったのが、福岡藩出身の金子堅太郎であろう。金子は明治四年(1871)、岩倉使節団に同行し、旧藩主黒田長溥の命で、團琢磨とともに長溥の養嗣子・長知に随行してアメリカに留学した。当初は、アナポリス海軍兵学校への進学を望んでいたが、健康上の理由からハーバード・ロー・スクールへ進学した。

この時期、アメリカへの留学生は挙ってロー・スクールを目指した。本書では「ロー・スクール黄金時代」と称している。金子のほかにも井上良一(東京大学法学部教授)、目賀田種太郎(枢密院顧問官)、小村寿太郎、栗野進一郎(駐仏大使)ら、いずれも米国ロー・スクール出身者である。当時の日本にとって、最大の外交課題は、江戸時代に幕府が欧米列強と結んだ不平等条約の改正であった。そのためには、欧米列強に受け入れられるだけの法制度を整える必要があった。いわば法整備は、国家の最重要課題でもあった。彼らは国家を背負ってロー・スクールで学んだ。

金子と同宿していた小村寿太郎は、医者から読書を止めるようにいわれるほど、勉学に励んだ。彼らはいずれも優秀な成績で現地の大学を卒業しているが、その陰には猛烈な勉強があった。彼らの勉学を支えたのは、自分が国家をつくるという強烈な自負心と使命感であろう。

金子は法律の勉強にとどまらず、積極的に社交界に繰り出し、上流階級の人々と交流した。土日には、現地の詩人、政治家、弁護士、学者などと晩餐を楽しみながら談論した。帰国しても会える日本人同士で交流するのではなく、アメリカでしか会えないアメリカ人と交際し、親密な関係を築くことが両国の「外交」に繋がるとの信念からだったという。この時、ハーバード内外で培った人脈は日露戦争で大いに役立つことになった。

宣戦布告と同時にアメリカに渡った金子は、ハーバード人脈を頼って積極的な広報外交を展開した。

金子の同郷の親友、團琢磨もMIT人脈を通じて日本への支持を呼び掛けた。ロシアに宣戦布告文を届けた駐露公使は栗野進一郎であったし、ポーツマス講話会議で全権を務めた小村寿太郎もハーバードで法学を学んでいる。戦費獲得のため欧米に乗り込んで外債募集したのは、日銀副総裁高橋是清であった。戦争の転機となった日本海海戦で日本海軍を勝利に導いた名参謀秋山真之も、アメリカに留学して海軍戦略家のアルフレッド・T・マハンに師事している。アメリカに留学したエリートたちは総力を結集してロシアとの戦いに臨み、勝利をつかみとったのである。

ところが日露戦争で勝利を収めた日本は、まるで目標を失ったかのように迷走する。新たな時代を担う学生や留学生の思考も変化をきたした。若きエリートたちの視線は、個人的な栄達を示す「出世」へと向けられていった。本書で引用されているように船曳建夫氏は「日露戦争後の若きエリートたちには、国家の発展の闘いよりも、目の前に個人の「出世」というゲームがおかれていたことである。そこでは国家が語られながらも、内実は彼らの周りを取り巻く「世間」における人生ゲームであった」と喝破している。

日露戦争後、多くのアメリカ留学生が関係悪化を食い止めようと腐心する中、もっともアメリカに知己を有し、「外交官よりもアメリカに精通している」と自負していた金子堅太郎その人が、日本人移民排斥運動が激化するとともに嫌米に傾いて行った。「アメリカを知っているからこそ、裏切られたと感じた際の絶望感は、親友に裏切られたそれに似た、深い悲しみを帯びていたに違いない。」と筆者は指摘している。「エリート間の秘密外交でことが決する時代は終わりつつあった」(酒井一臣「金子堅太郎と近代日本―国際主義と国家主義」(二〇二〇))。

本書では、金子堅太郎以外にも、吉原重俊、小村寿太郎、團琢磨、朝河貫一といった魅力的なアメリカ留学生を多数紹介している。彼らがいかに国家を背負って勉学に励み、国家に尽くしたかを知るにも非常に有用な一冊である。

「あとがき」で、中津藩出身の英学者小幡甚三郎について触れられている。当時、慶應義塾を代表する英学者であった小幡は、旧藩主奥平昌遇の従者として渡米したが、彼の英語は現地でまったく通じず、そうしたストレスの積み重ねが彼の心身を蝕んでいき、やがてフィラデルフィアで死去した。表舞台での留学生の華々しい活躍の蔭で、国家や郷里の期待を背負い、慣れない土地で勉学に骨身をすり減らして、あるいは病気にかかり志半ばで倒れた人も少なくない。こうした犠牲者にも思いを馳せたい。

エピローグでは、日米戦争の最前線で指揮を執ることになった連合艦隊司令長官山本五十六を紹介している。彼もまたアメリカに留学した一人である。山本は、アメリカの石油に関心を持ち、油田を視察し、関連資料を読み耽った。アメリカに関する知見を深めた山本が、長期戦は無理と判断した結果、航空機による奇襲攻撃へ結びついたのだという。

彼が駐米日本大使館附武官時代、留学のために渡米してきた海軍兵学校後輩に「英語の本なら日本でも読める。アメリカにいるなら、アメリカでしかできないことをする、そのために旅行し、視察して回ること」とアドバイスした。

私も四半世紀ぶりの海外駐在を目前に控えている。山本の助言を胸に、できるだけ現地を自分の目で見て回りたいと思うのである。

 

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「上杉鷹山 「富国安民」の政治」 小関悠一郎著 岩波新書

2022年08月27日 | 書評

上杉鷹山といえば、名君中の名君。史上もっとも有名な殿様の一人である。

しかし、鷹山の事績は何かと改めて問われると、正確に答えられる人は皆無に等しいだろう。恥ずかしながら私もその一人であった。本書を読んで初めて鷹山の名君たる所以が理解できた。

鷹山が名君となったのには、彼を支えて実際に米沢藩の藩政を主導した、竹俣当綱(たけのまたまさつな)、莅戸善政(のぞきよしまさ)という二人の家老の存在を忘れるわけにいかない。実際に藩政を改革し、米沢藩の富強を実現したのは彼らであり、彼らのもとで奔走した北村孫四郎らの実務家であった。

本書では、鷹山や竹俣が学んだ「産語」という書物から書き起こしている。「産語」の著者は、荻生徂徠の高弟太宰春台(1680~1747)である。春台は経書の解釈学のみならず、政治・経済を論じる経世論の分野でも第一人者であった。彼の主張するところは、経済の問題を脇に置いて、礼儀や道徳を唱えても、天下の人の礼儀や道徳が正されることはない、ということである。つまり、まずは衣食足りて初めて礼節を語ることができるという主張である。それまでの学問というのは、得てして仁義礼智忠信孝悌を説くが、その前に庶民を富ませよというのである。日本思想史家によれば、春台のこの経世論こそ我が国初めての「富国強兵」論だという。

「産語」で展開される「富国強兵」論の主要な議論は「尽地力之説」である。単純にいえば、五穀にとどまらない様々な産物を土地の特性に応じて生産すべきだという言説である。一見農耕に適さない土地であっても、必ず何らかの地力を備えているので、無尽蔵である土地の力を最大限に引き出すことで、領地は潤うという思想である。今日的にいえば、総資本利益率とか使用資本利益率に近い概念かもしれないが、当時は資本といえばほぼ土地しかない時代であり、如何に領地をフル活用するかという考え方に至ったということだろう。

莅戸善政は、この考え方を実務的に発展させ、農民に養蚕・桑栽培を奨励した。その結果、幕末には米沢藩は「天下の富強の国」とまで称されるほどになった。そしてその改革を推進した鷹山は「名君・賢宰」として語り継がれることになった。

鷹山も最初から名君だったわけではなく、若き藩主は、「御政事には御心はまりせられず」という有り様で、行状を見かねた莅戸善政は、「近習との会話は鳥と馬との御評判や無駄話ばかりで「御はまり」が見られない。諸役人の鼓舞も十分ではない。細井平洲の講義を聞いても今日の御政事に引き合わせの御論もない。身なりは江戸風の色男の風体に見える。などなど、かなり口うるさい。生半可な若者であれば、叱責を無視して遊び呆け、うるさい側近を遠ざけてしまってもおかしくない。

莅戸は、鷹山に藩主としての心得を厳しく説き、諸集団、階層の人々からどのように見られるかを常に意識し行動することを要求し、慢心しおごった振る舞いを厳しく戒めた。莅戸は、君主はどうあるべきかを常に問い続け、藩主の誠実な言動と、その言わば「見える化」が必要だと確信していた。鷹山は、その期待に見事に答えたといえよう。

鷹山の言行録である「翹楚偏」は、鷹山の五十六の逸話を収録している。鷹山が責馬をしている際に、小便をしていた者に対し「責馬を見て居りし故に小便をする者を見る暇もなかりしぞ」と述べてその場を穏便に収めたとか、藩内に大規模な倹約令を発布した時、自ら一汁一菜と定め四民の手本となるように率先的行動をとったとか、一つひとつはさほど際立った逸話はない。それでも「翹楚偏」が「御家の為、御国民の為」という鷹山の姿勢を広く周知し、鷹山=名君というイメージを受け付けるのに大きな役割を果たした。莅戸は、人心を統合するためには、単に君主がすぐれた徳をそなえていればいいわけではなく、そのことを積極的に顕示していくことが肝要、と考えたのである。

「翹楚偏」は江戸時代後期、「上杉鷹山公の賢徳」を示す言行録として広く読まれ、各地の学者・藩士たちの間に出回った。現在にも多くの写本が残されている。「翹楚偏」の流布こそが、鷹山=名君という評価を確定し、定着、浸透させた大きな要因となった。ただし、「翹楚偏」を読めば、米沢藩の藩政改革が何故成功したのか、藩政改革がどのように進められたのか、という肝心な情報を理解できるというものではない。

鷹山や竹俣当綱、莅戸善政、そして善政の子である政以らが目指した「富強」は、言葉は似ているが明治政府がスローガンとして標榜した「富国強兵」とは本質的には異なるものである。

鷹山が主導した米沢藩の改革は、「富強」「兵農合一」「復古」「仁政」などが投影されたものである。その本質は、国民(藩領民)の暮らしが潤っているかどうかというところにあり、近代日本が経済力、軍事力で欧米諸国に追いつくことを目的とした「富国強兵」とは対照的なものであった。つまり、江戸時代の富国論は「士民を富ます道」を基本としたものであった。鷹山の改革を知ることは、近代日本が忘れた何ものかを再発見することなのかもしれない。

 

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「長崎製鉄所」 楠本寿一著 中公新書

2022年07月30日 | 書評

長崎市飽の浦の三菱重工長崎造船所の飽の浦門の前に「長崎製鉄所」と刻まれた石碑がある。その横に長崎国際観光コンベンション協会「長崎さるく」が付した説明板が添えられている。

「安政二年(1855)海軍伝習所が開設されると、蒸気船の修理を行う施設も必要となった。そこで安政四年(1857) 、飽の浦に長崎鎔鉄所の建設が着手され、機関士官ハルデス以下の指導のもと整備が進められた。敷地内には鍛冶場、鋳物場、工作場などの諸施設が建てられ、工作機関類の動力には蒸気機関が用いられた。万延元年(1860)に上棟式が行われ、その時、長崎製鉄所と改称された。文久元年(1861)落成。維新後は官営となり、長崎造船所などいくつかの改称を経て、明治二十年(1887) 、三菱社に払い下げられ、翌年、三菱造船所(現・三菱重工㈱長崎造船所の前身)と改称された。」

たったこれだけの記述であるが、長崎市生まれで、三菱長崎造船所に入社し、そこで造船所の社史編纂にも関わった筆者は、並々ならぬ執念で一つひとつの史実を確認していく。

たとえば、先ほどの「長崎さるく」の解説にあった「安政四年(1857) 、飽の浦に長崎鎔鉄所の建設が着手」という記載について、それまで会社でまとめた所史や工場案内ではいずれも安政三年(1856)起工とするものが多く、巷間の資料でもこれを引用したものが多かったという。

筆者は日本側の史料にとどまらずオランダの史料まで渉猟し、数ページを割いて長崎製錬所の起工の経緯を明らかにする。詳細の事情は不詳ながら、なかなか前向きに進捗せず、漸く安政四年(1857)の十月十日、起工の運びとなった。「長崎さるく」の解説は、本書の検討結果を踏まえたものになっているのである。

一方、長崎製鉄所の呼称については、当初は長崎鎔鉄所と呼ばれていたが、万延元年(1860)に挙行された上棟式を機に製鉄所と改称されたというのが、「通説」となっているという。「長崎さるく」の記述はまさにその通説を採用している。筆者は、改称の時期について長崎奉行所文書、長崎代官所御用留、志賀御用留などの記述を網羅・比較し、その結果、「万延元年(1860)十二月の上棟式を機に改称云々の件は、奉行、代官、そして庄屋三者の文書を見ても、既にそれ以前から製鉄所と呼称している事実にもとづき、これは明らかにフィクション」と断定している。筆者の執念に脱帽である。

この本も新橋駅前の古本市で、わずか二百二十円で入手したものである。極めてコスパの高い買い物であった。

 

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「ペリー提督 海洋人の肖像」 小島敦夫著 講談社現代新書

2022年06月25日 | 書評

ようやくコロナ感染も減少傾向となり、街も日常を取り戻しつつある。個人的には先日三年振りに海外出張に行けたし、二年振りに帰省して両親と会食することもできた。新橋駅前でも、数年振りに古本市が開催された。連日、古本市に通いつめ、三冊の古本を入手した。そのうちの一冊である。

本書は、今から十七年前の平成十七年(2005)に刊行された新書である。今では本屋の店頭で購入することは困難であるが、今なお価値のある一冊だと思う。

黒船を率いたペリーが日本を開国に導いたことは良く知られている。ペリー以前にも外国から使節が何度も日本を訪れたが、固く閉ざされた扉を開くことはできなかった。何故、ペリーがそれを成し遂げることができたのか。

日本の開国は、ペリーの綿密な準備と、その上に構築された戦術の成果といえる。彼は三万ドルもの大金を費やして、シーボルトの「ニッポンに関する記録集」(1832)を初めとして、日本について書かれた文書や書籍を収集した。

その結果、日本の歴史と鎖国政策の由来、天皇制と政府、行政組織、宗教、国際関係の歴史、産業、技術、科学、民族、産物、資源、文学、芸術といった、あるとあらゆる分野に精通するに至った。

彼の対日戦略は、決して場当たり的ではなく、極めて周到、冷静な分析の上に、練りに練られたものであった。

  • できるだけ多くの隻数の艦隊を率いて日本人に恐怖心を起こさせる。
  • さかんに測量作業を行い、砲門を開いて威嚇し、日本に混乱を生じさせる。
  • ペリー自身は、幕府の閣僚級の者としか会わない。大統領の親書は、小役人などには渡さない。
  • 米国の最高水準の文物や、科学技術の結晶である工業製品を持参。記録掛から料理人に至るまで人物を重視し、精神的な交流を持ち掛ける。

日本の開国という誰も成しえなかった成果を持ち帰ったペリーに対し、米国内で「砲艦外交」とする批判があったのも事実である。日本国内でもペリーの高圧的な姿勢に大きな反発があった。しかし、それまでの使節は友好的に日本にアプローチした結果、悉く日本から「追い払われた」。それを考えれば、ペリーのとった手法は唯一無二の方法だったのかもしれない。

海洋ジャーナリストという肩書を持つ筆者は、単にペリーの経歴を追うだけではなく、彼のゆかりの土地を自ら訪問し、しかも一般人ではなかなか進入できないような場所まで足を運んでいる。「あとがき」によれば、自ら操船する外洋帆走クルーザーで、ペリー艦隊が立ち寄った日本の七つの港と米国の四つの港をはじめ、艦隊と同じ錨地に停泊する体験を試みたという。筆者が訪れた港は、米国ではニューポート、ボストン、ニューベッドフォード、ニューロンドン、ニューヨーク、ワシントン、ボルチモア、ノーフォーク、アナポリス。日本では、那覇、泊(沖縄)、二見(小笠原)、下田、久里浜、浦賀、田浦(横須賀)、横浜、箱館。ほかにコロンボ、シンガポール、香港、マカオ、上海に及んでいる。私も那覇、小笠原、久里浜のペリー上陸の地碑を踏破した。なかなかこの三ヶ所を全て訪問した人はいないだろうし、このことは密かな自慢であるが、筆者のペリー愛はそれを遥かに上回っている。その偏執的ともいえる情熱には脱帽するしかない。

本書のルポルタージュでもっとも注目すべきは、ペリーの生誕地であるニューポートである。ニューポートでは、ペリーの生家、ペリーの兄、オリバーの像、ペリーの像のほか、ペリーが洗礼を受けたトリニティ教会、そしてペリーが改葬されたアイランド墓地などを見ることができる。いつかニューポートを旅してみたいという夢が膨らんだ。

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「徳川最後の西国代官」 西澤隆治著 叢文社

2022年06月25日 | 書評

先のGWでは、六日をかけて大分県、宮崎県の史跡を巡った。改めて九州の史跡の多様さと独自性を認識した。また旅の中で未知の人物に触れることができ、その意味でも有意義な旅となった。

「知られざる人物」の代表例が、本書で取り上げられている窪田治部右衛門である。歴史の教科書にも出てこないし、小説で登場することも少ない。大方の人にとって「誰それ?」という存在であろう。窪田治部右衛門のことを詳しく知りたいと思い、旅から戻って早速ネットでこの本の存在を知り、手に入れた。

「代官」というと、テレビドラマでは決まって民を虐げ、私服を肥やす「悪代官」が定番である。そういう悪代官もいたのかもしれないが、基本的には幕府は相応に優秀な人物を代官に登用していた。そうでないと、現実問題として世の中が治まらないだろう。

天誅組に襲撃されて首をさらされた五条代官所の鈴木源内も、幕府を倒した勤王派から見れば、「悪代官」の典型のように仕立てられているが、実際には善政をひいて領民には慕われていたという。

先日読破した「花山院隊「偽官軍」事件」(長野浩典著 弦書房)は、どちらかというと、花山院隊から描いたものであるが、彼らからずれば窪田治部右衛門は、不俱戴天の仇である。日田を明け渡して姿を消した治部右衛門は「逃亡した」という取り上げ方になっている。本書では、同じシーンは「退去」と表現されている。筆者は、日田の街を戦火から守った治部右衛門の功績は江戸の無血開城に匹敵すると賞賛している。同じ事象、同じ歴史的史実であっても、表現一つで印象ががらりと変わるのである。

治部右衛門は、実父江口秀種が柔術師範だったこともあり、若い頃から武術に親しんだ。江口秀種は肥後藩士であったが、その姉は内藤吉兵衛歳由に嫁いだ。内藤の子に川路聖謨、井上正直兄弟がいる。つまり、治部右衛門は川路、井上兄弟と従兄弟という関係にある。

治部右衛門は、もともと肥後藩士の出身で、幕臣窪田家を継いで旗本に列したが、浪士取締役や神奈川奉行所定番役頭取取締を経て西国郡代に抜擢された。異例の出世の背景には、無論当人の能力の高さもあっただろうが、川路聖謨の強い引きがあったことが想像される。川路はこの年下の従弟を買っていただろうし、治部右衛門も川路を慕っていた。幕府への忠誠心の篤さも川路譲りのものがあった。

元来武力を持たない西国代官であったが、彼は農兵を組織し、武装させた。制勝隊と名付けられた部隊は、結果的に武力を行使する場面は訪れなかったが、治部右衛門のリーダーシップを物語る一例であろう。

維新後は静岡に移住し、明治政府に仕えることはなかった。静岡の万象寺に、鳥羽伏見で戦死した息窪田泉太郎と並んで墓が建てられている。

まさに知られざる人物であるが、もっと注目されてよいと思う。

 

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