史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

水戸 水戸城周辺

2009年08月01日 | 茨城県
(吉田松陰水戸留学の地)


吉田松陰水戸留学の地碑

 水戸駅前から延びる黄門通りと呼ばれる大通りから一筋北に入ったビルの前に「吉田松陰水戸留学の地碑」が置かれている。
 松陰が水戸を訪れたのは嘉永四年(1851)十二月十九日から翌年一月二十日にかけての間である。松陰はこの地にあった永井政介宅に滞在しながら、会沢正志斎や水戸藩の有志らと交わった。碑には松陰が水戸を去るにあたって、永井政介の長子芳之介に与えた漢詩が刻まれている。松陰独特の肩をいからせたような字がそのまま刻まれている。

(徳川慶喜公像)


徳川慶喜公像

 みずほ銀行水戸支店の前に徳川慶喜の像がある。台座を含めても背の丈に満たないような小さな銅像であるが、よく見ると子供である。銅像の慶喜は子供時代のものらしい。

(神應寺)


神應寺

 大工町の交差点を南側に渡ると右手に神應寺の門が見える。入口は狭いが、その先に神應寺の広い境内が広がる。本堂裏の墓地入口に、水藩殉難志士弔魂碑と慷慨壮烈碑が建てられている。


水藩殉難志士弔魂碑(左)と慷慨壮烈(昌木晴雄殉難)碑

 昌木晴雄は結城藩の出身である。本名は杉山崇仙といい、代々結城須賀神社の神官をつとめていた。杉の国字である椙の字を分解して「昌木」を名乗った。昌木晴雄は、天狗党の挙兵に参加したが、天狗党の騒乱が水戸藩内訌戦の様相を呈して来ると、ほかの他藩出身者とともに離脱して、横浜夷人街の襲撃に向かった。その途上、小川(現小美玉市)で捕縛され、水戸の吉田刑場で刑死した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸 城西

2009年08月01日 | 茨城県
(祇園寺)


祇園寺

 八幡町の祇園寺は、徳川光圀(黄門)が元禄五年(1692)に開設したという曹洞宗の寺院である。
 墓地の入口に水戸戊辰殉難慰霊碑が立っているが、これは幕末に殉難した諸生党の鎮魂碑である。そばにある由来を読むと、水戸諸生党に関係する石碑は、千葉県八日市場(匝瑳市)、新潟県西山町にもあるらしい。


水戸戊辰殉難慰霊碑

 諸生党は、幕末天狗党と激しい抗争を繰りひろげた。その惨劇の極致が敦賀での大虐殺である(353人が処刑)。会津戦争と並ぶ幕末史に残る悲劇である。天狗党の最期に目が行きがちであるが、戊辰戦争がはじまると諸生党に対する征討令が発せられ、天狗党残党らは親の仇とばかりに諸生党討滅に取り掛かった。諸生党は水戸を脱し、一時北越や会津を転戦したが、ここでの戦闘が新政府軍の勝利に終わると、再び水戸に戻って水戸城を攻撃した。さらに転戦を続けたが、終に下総八日市場で壊滅した。


市川三左衛門の墓

 諸生党の首領である市川三左衛門は、文化十三年(1816)に水戸藩士市川三左衛門弘教の息子として生まれ、天保十四年(1843)、家督を継いだ。歩兵頭を皮きりに小姓頭、用人、新番頭、書院番頭と藩の要職を歴任した。安政六年(1859)、安政の大獄それに続く密勅の返納問題を巡って内訌が激化すると、大寄合頭として改革派の鎮圧に努めた。やがて家老に昇進すると、佐幕派諸生党の首領として天狗党と激しく対立した。天狗党を駆逐して藩政の実権を握るが、戊辰戦争で形勢が逆転する。市川三左衛門は同志とともに会津に走ったが、間もなく水戸に戻って弘道館に拠り水戸城を攻撃したが、結局は敗れて下総八日市場まで敗走して、そこで壊滅した。三左衛門は江戸まで逃れて潜伏したが、明治二年(1868)四月、水戸の捕吏に捕縛されて、水戸に連行された。生き晒しの上、水戸城外長岡原で逆磔の刑に処された。五十四歳であった。


朝比奈弥太郎の墓

 朝比奈弥太郎は、市川三左衛門と並ぶ諸生党の首領である。代々弥太郎を襲名しており、文政元年(1818)に家督を継いで嘉永六年(1853)まで藩の重職にあったのは、父朝比奈泰然である。父の死後、家督を継いだのは次男泰尚である。市川三左衛門とともに天狗党を弾圧し、一時藩政の実権を握ったが、明治二年(1868)、水戸を追われて、下総八日市場の戦闘で養子(兄の遺児)泰彙とともに討ち死にした。


贈正五位木村権之衛門墓

 木村権之衛門(ごんのえもん)は、文政七年(1824)の生まれ。戊午の密勅降下以来、有志の間を奔走した。安政の大獄が始まると、高橋多一郎と出府し薩摩藩らと挙兵除奸を計画した。万延元年(1860)正月、再び出府して有村次左衛門ら会合し、出兵の盟約を結んだ。大老襲撃後の三月二十六日、上阪したが、薩摩側の事情が一変し、捕吏の探索を避けて四国に逃れた。その後、東下して老中安藤信正要撃を企てたが、捕吏が迫ったため仙台から袋田へ潜伏した。文久二年(1862)帰藩し、許されて弘道館勤務となったが、翌年三月、四十歳にて病死した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸 城東

2009年08月01日 | 茨城県
(神勢館五町矢場跡)


神勢館五町矢場跡

 神勢館は、徳川斉昭の命により嘉永六年(1853)開かれた製砲所兼射的場である。
 元治元年(1864)八月、宍戸藩主松平頼徳率いる大発勢は、那珂川を遡って神勢館に入った。頼徳は水戸城入城のため使者を送ったが拒絶された。水戸城側の市川三左衛門らは、ただちに神勢館に向けて砲撃を始めた。大発勢も反撃を開始し、戦闘は三日間に及んだ。神勢館は全焼し、大発勢は那珂湊方面に撤退することになった。矢場(大砲の標的)は取り壊しを逃れて昭和まで残っていたが、度重なる那珂川の氾濫のため堤防を造ることになり、姿を消した。

(赤沼牢屋敷跡)


赤沼牢屋敷跡


霊魂碑

 水戸領内には、牢獄がいくつか置かれた。赤沼牢もその一つである。揚屋、大牢、新牢、つめ牢の四棟から成り、幕末には藩内抗争の結果、多くの士がこの地で処刑された。
 天狗党の乱が敦賀で終焉を迎えると、諸生党首領の市川三左衛門は、天狗党の家族の処刑を命じた。妻とき(四十八歳)、子桃丸(九歳)、金吉(三歳)。長男彦衛門の子三郎(十二歳)、金四郎(十歳)、熊五郎(八歳)は、いずれも死罪。耕雲斎の娘や妾、彦衛門の妻などは永牢に処された。三歳の金吉は、獄吏の膝下に組み敷かれて刺殺されたという。彼らの首は、市中を引き回しの上、吉田原で晒されたという。あまりに過酷な処分に、天狗党残党の恨みと怒りは地下深く鬱積し、これが明治を迎えたとき、極端な報復措置へと繋がったのである。

(銷魂橋)


銷魂橋(たまげばし)高札場跡

 本町一丁目の備前堀にかかる銷魂橋は、水戸街道の起点であり、水戸城への出入口に当たる。水戸を離れる人がこの場で別れを惜しんだことから、徳川光圀が銷魂橋と名付けたという。
 元治元年(1864)八月、松平頼徳の大発勢が水戸城に迫ると、水戸城側の諸生党は銷魂橋付近に大砲を据えて、大発勢をに向けて砲撃した。


銷魂橋

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸 城南

2009年08月01日 | 茨城県
(薬王院)


薬王院 本堂

水戸南郊の薬王院は、平安初期の開基と伝えられる名刹である。本堂は享録二年(1529)に再建されたもので、その後修理改造は加えられているが、当時の用材が遺っている貴重な文化財である。元治元年(1864)八月、水戸城に迫った松平頼徳は、薬王院に入って水戸城内の諸生党からの使者と応接していた。まだ、交渉が続いているというのに、銷魂橋付近に陣取る諸生党側から発砲があり、このままでは戦闘は避けられない状況となる。頼徳らは薬王院で議論を重ねた。諸生党の不遜な態度に怒りが満ちたが、戦争になるのを避けたい頼徳の意向を受けて、大発勢はいったん塩崎の長福寺まで退くことになった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸 塩崎町

2009年08月01日 | 茨城県
(長福寺)


長福寺

 東水戸道路の水戸大洗ICを降りて、大洗方面に国道51号線を少し走ると、長福寺の大きな看板が目に入る。長福寺は高台にあり、大軍を駐屯させるには絶好のロケーションにあるといえる。
 水戸城入城に失敗した松平頼徳率いる大発勢は、那珂湊に向かう途中で塩ヶ崎村の長福寺に入った。ここでも諸生党から砲撃を受けた大発勢は、涸沼川を渡河して磯浜の海防陣屋に入り、願入寺にこもる諸生党に対し反撃に出た。


幕府追討軍隊士の墓

 そのほぼ一ヶ月後、今度は幕府の天狗党追討軍(目付高木宮内)八百名が長福寺に駐屯した。潮来勢約三百が島田の香取明神に入ったという情報を受けて、すぐさま出兵し激しい戦闘となった。長福寺門前にはそのとき戦死した幕府追討軍隊士の四名の墓がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大洗 Ⅱ

2009年08月01日 | 茨城県
(願入寺)
 大洗の願入寺は、諸生党(門閥派)水戸藩兵が立て籠っていた。頼徳は願入寺攻撃を命じ、兵八百が銃撃しながら境内になだれ込んだ。戦闘は大発勢の圧勝に終わった。この戦闘で願入寺は全焼した。


願入寺

 願入寺の境内に資料館がある。資料館の建物は石岡の照光寺にあったものを移築したものらしい。照光寺は藤田小四郎ら天狗党の一軍が宿舎とした寺院である。柱に残る刀痕は彼らの仕業だという。


天狗党による刀の傷跡

 資料館には徳川慶喜の長持ちや斉昭の書などが展示されている。入場料300円はリーズナブルである。


慶喜公御使用長持ち

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひたちなか

2009年08月01日 | 茨城県
(湊公園)
 夤賓閣は、元禄十一年(1698)、徳川光圀によって日和山台地の上に築かれた水戸藩の別邸で、湊別館、湊御殿、浜御殿とも呼ばれた。建物は元治甲子の乱で焼失し、現在は光圀が明石から取り寄せた松の木のある湊公園となっている。


日和山

 それまで天狗勢とは一線を画していた大発勢であったが、諸生党に水戸城入城を頑なに拒否され、さらには砲撃を受けたことを機に戦闘状態に陥った。ここにきて天狗党と共同で戦うことを決めた。
 このとき諸生党の兵は夤賓閣に拠っていたが、武田魁介(耕雲斎の二男)、天狗勢(藤田小四郎、飯田軍蔵ら)、金子勇二郎(金子孫二郎の二男)隊らの突入を受け、散り散りになって潰走した。夤賓閣を巡る戦いは、頼徳軍(大発勢)の勝利に終わった。


夤賓閣(いひんかく)址

 大発勢は局地戦では勝利を得たが、本来宍戸藩主松平頼徳は、藩内抗争を収束させるために、藩主慶篤の目代として派遣されたものである。それが、一時的とはいえ藩内の尊攘激派である天狗党と手を結んで、門閥派と戦火を交わしてしまったところに、そもそもの過ちがあった。同年九月、頼徳は「計略がある」という周囲の説得を抑えて幕府追討軍本陣に下るが、直ちに切腹を命じられた。年三十六であった。

(華蔵院)


華蔵院


記念碑

 華蔵院はこの争乱により仁王門を残し、全て焼き尽くされた。堂宇が再建されたのは、明治十四年(1881)のことという。これを記念して、本堂正面に記念碑が建てられた。題額の揮毫は、山岡鉄舟。鉄舟は難治と言われた水戸の初代県参事をつとめるなど、水戸とは所縁が深く、県内には多くの鉄舟の書が残されている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笠間 Ⅱ

2009年08月01日 | 茨城県
(笠間稲荷)


笠間稲荷

 この日は大洗、水戸を経て笠間に至った。二回目の笠間である。前回は予習不足で目的地に行き着かなかったが、今回はそれなりに準備をしたつもりであった。
 にもかかわらず、予定のスポットの半分は行き着くことができなかった。寺や神社は地図に載っているので何とかなるが、「川又茂七郎自刃の地」とか「天狗党員首塚」「阿弥陀堂」などはいくら走り回っても見付けられない。遠方からの訪問者にも分かり易いように案内板を設けるなど、善処をお願いしたい(密かに笠間市役所に要望をメールすることにした)。

(月崇寺)


月崇寺

 松平頼徳の大発勢が水戸城入城を巡って、諸生党と対峙しているころ、幕府の派遣した追討軍(総督田沼意尊)は笠間まで進出し、月崇寺を本陣として約一か月ここにとどまった。


石灯籠

 本堂前に建つ石灯籠には、佐久良東雄が月崇寺で詠んだ歌が刻まれている。

吹き巻きて深山下しに桜花
散るはめでたきものにぞありける

(高乾院)


高乾院


伊藤益荒雄(左)と伊藤斎宮の墓

 高乾院には、肥前島原の脱藩浪士伊藤益荒雄と伊藤斎宮が葬られている。
 尊王攘夷を旗印とする天狗党には、水戸藩のみならず他藩からも多数加盟していたが、水戸藩内訌戦の様相を呈してきた元治元年(1864)七月、藩外からの加盟者は天狗党と袂を分かち、別働隊として横浜の夷人を襲うことに決した。しかし、鹿島まで進出したところで追討軍と遭遇し、ここから潮来、麻生、美野里、友部と退却することとなった。同年九月九日、笠間池野辺まで落ちのびた部隊は、大橋の森貞次郎宅で休息を取ったあと解散した。伊藤益荒雄と斎宮は下野を目指して逃亡を図ったが、笠間藩兵に捕らわれ刑場の露と消えた。

(吉田神社)


吉田神社

 天狗党別働隊四十名が解散を決した吉田神社である。急な階段を上がりきると、物置のとような祠が現れる。

(森家墓地)


贈従五位森貞次郎義宣墓

 現在、笠間市の一部となっている大橋地区は、かつて水戸藩領であった。大橋地区からは森貞次郎以下十一名が血判の上天狗党に参加した。
 森貞次郎の墓のある森家墓地も極めて分かりにくい場所にある。吉田神社から県道113号線(真端水戸線)を東小学校方面に向かう途中、交番向かいの小さな丘の上に墓地がある。余程の嗅覚と執念がないと発見するのは至難の業である。

(如意輪寺)


如意輪寺

友部上市原の如意輪寺は、笠間藩兵が天狗党の残党狩りのために逗留した寺である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする