(吉田松陰水戸留学の地)
吉田松陰水戸留学の地碑
水戸駅前から延びる黄門通りと呼ばれる大通りから一筋北に入ったビルの前に「吉田松陰水戸留学の地碑」が置かれている。
松陰が水戸を訪れたのは嘉永四年(1851)十二月十九日から翌年一月二十日にかけての間である。松陰はこの地にあった永井政介宅に滞在しながら、会沢正志斎や水戸藩の有志らと交わった。碑には松陰が水戸を去るにあたって、永井政介の長子芳之介に与えた漢詩が刻まれている。松陰独特の肩をいからせたような字がそのまま刻まれている。
(徳川慶喜公像)
徳川慶喜公像
みずほ銀行水戸支店の前に徳川慶喜の像がある。台座を含めても背の丈に満たないような小さな銅像であるが、よく見ると子供である。銅像の慶喜は子供時代のものらしい。
(神應寺)
神應寺
大工町の交差点を南側に渡ると右手に神應寺の門が見える。入口は狭いが、その先に神應寺の広い境内が広がる。本堂裏の墓地入口に、水藩殉難志士弔魂碑と慷慨壮烈碑が建てられている。
水藩殉難志士弔魂碑(左)と慷慨壮烈(昌木晴雄殉難)碑
昌木晴雄は結城藩の出身である。本名は杉山崇仙といい、代々結城須賀神社の神官をつとめていた。杉の国字である椙の字を分解して「昌木」を名乗った。昌木晴雄は、天狗党の挙兵に参加したが、天狗党の騒乱が水戸藩内訌戦の様相を呈して来ると、ほかの他藩出身者とともに離脱して、横浜夷人街の襲撃に向かった。その途上、小川(現小美玉市)で捕縛され、水戸の吉田刑場で刑死した。

吉田松陰水戸留学の地碑
水戸駅前から延びる黄門通りと呼ばれる大通りから一筋北に入ったビルの前に「吉田松陰水戸留学の地碑」が置かれている。
松陰が水戸を訪れたのは嘉永四年(1851)十二月十九日から翌年一月二十日にかけての間である。松陰はこの地にあった永井政介宅に滞在しながら、会沢正志斎や水戸藩の有志らと交わった。碑には松陰が水戸を去るにあたって、永井政介の長子芳之介に与えた漢詩が刻まれている。松陰独特の肩をいからせたような字がそのまま刻まれている。
(徳川慶喜公像)

徳川慶喜公像
みずほ銀行水戸支店の前に徳川慶喜の像がある。台座を含めても背の丈に満たないような小さな銅像であるが、よく見ると子供である。銅像の慶喜は子供時代のものらしい。
(神應寺)

神應寺
大工町の交差点を南側に渡ると右手に神應寺の門が見える。入口は狭いが、その先に神應寺の広い境内が広がる。本堂裏の墓地入口に、水藩殉難志士弔魂碑と慷慨壮烈碑が建てられている。

水藩殉難志士弔魂碑(左)と慷慨壮烈(昌木晴雄殉難)碑
昌木晴雄は結城藩の出身である。本名は杉山崇仙といい、代々結城須賀神社の神官をつとめていた。杉の国字である椙の字を分解して「昌木」を名乗った。昌木晴雄は、天狗党の挙兵に参加したが、天狗党の騒乱が水戸藩内訌戦の様相を呈して来ると、ほかの他藩出身者とともに離脱して、横浜夷人街の襲撃に向かった。その途上、小川(現小美玉市)で捕縛され、水戸の吉田刑場で刑死した。