史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「ザ・タイムズにみる幕末維新」 皆村武一著 中公新書

2009年08月02日 | 書評
 「ザ・タイムズ」にみる―――と言いながら、タイムズだけでなく、広く海外から幕末の日本がどのように見られていたかを解明した好著である。本書は七章から成るが、各章で著者の独自の視点が光る。
 第一~二章では、ペリー来航の五十年以上前の十八世紀末から、英・米・露各国の船が日本に相継いで来航し、通商や開港、食糧の供給、漂流民の受け渡しなどを申し入れしていたことを明らかにする。ペリー来航は決して寝耳に水のできごとではなく、半世紀も前からその予兆があった。それまでの訪問者との違いは、ペリーは大砲を備えた蒸気船でやってきたということにある。幕府はその都度、問題を先送りにしてきた。リスク管理の甘さが自らの衰亡を招いたというべきであろう。
 第三~四章では、薩英戦争をイギリス側から考察する。帝国主義の雄であるイギリスでは、欧米先進国とアジア、ラテン・アメリカ諸国相手では、露骨に条約の内容を変えていた。日本を含めた後進国に対しては、当然のごとく、いわゆる不平等条約を押しつけていたのである。薩英戦争についても、アヘン戦争やセポイの反乱を戦ってきたイギリスにしてみれば、リチャードソン殺害事件を口実に薩摩藩をたたくのは、当然の行為のようにも思える。ところが、実はイギリス議会においてクーパー提督が鹿児島の街を焼き尽くしたことに対して非難の声が上がっていた。今、日本では二大政党による政権交代の論議が喧しいが、議会政治の先輩であるイギリスでは、今から百五十年以上も前から保守党と自由党という二大政党が成立して、政権を担っていたのである(それをいうなら、我が国においても二十世紀初頭に立憲政友会と立憲民政党とが交互に政権を担った時代があったことを忘れてはならないが)。
 第五章では、時代を遡ってマルコ・ポーロ以降、ヨーロッパに日本がどのように紹介されていたかを検証する。有名なマルコ・ポーロの「東方見聞録」は、実は中国人からのまた聞きで、間違いだらけだったという指摘は面白い。しかも、その間違った日本像が長らくヨーロッパの人たちには信じられていた。要するに元禄時代の日本を旅したドイツ人ケンペルや幕末のシーボルトまで、日本という国はベールに包まれていたのである。インドや中国、インドシナ半島、太平洋諸島でもヨーロッパと何らかの接点を持っていたというのに、日本が“発見”されたのは随分と遅れたというのは、全く不思議としかいいようがない。
 第六~七章では、ほかに先駆けて近代工業化を進め、他藩をリードして倒幕維新を成し遂げた薩摩藩が、気がつけばもっとも近代化に遅れをとってしまった。その背景を解き明かす。現在、鹿児島県は全国でも一位二位を争う低所得県となってしまった。自ら招いた結果といってしまえばそれまでだが、維新を成し遂げた雄藩の姿としてはあまりに寂しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする