(与板城跡)
史跡 與板城址
与板は、今は長岡市の一地域に過ぎないが、江戸時代は小なりといえども独立した藩であった。藩主は井伊家。彦根井伊家の縁戚である。
信濃川をはさんで長岡藩と対峙する与板藩は、期せずして新政府軍の最前線に位置することになった。慶応四年(1868)五月二十七日、会津、桑名、水戸脱走兵、村上といった同盟軍が南下して与板に迫った。これに対し、新政府軍も飯山、薩摩、富山、松代、尾張の各藩兵を派遣して与板藩を支援した。
与板城跡から市街地を臨む
この時の戦闘で城は全焼した。辛うじて大手門と切手門が焼け残り、それぞれ本願寺新潟別院と恩行寺に移築されて現在に至っている。
ここから眺める与板の市街地はさほど広くなく、周囲は水田に取り囲まれている。
(本願寺新潟別院)
与板城大手門
与板藩と本願寺新潟別院の関係は深く、天保元年(1830)、八代藩主井伊直経の発願により着工したもので、完工は明治三年(1870)であった。明治四年(1871)の廃藩置県を機に与板城の大手門が移築された。
(恩行寺)
恩行寺
与板城切手門
移築された与板城の遺構である。よく見ると、上部に井伊家の家紋である「井桁紋」が描かれている。
(中川清兵衛生誕地)
日本のビールの生みの親
中川清兵衛生誕地
ロンドンに留学した村橋久成の生涯を知ったことをきっかけに、最近サッポロ・ビールの歴史にはまっている。サッポロ・ビールが官(北海道開拓使)主導で設立されたのに対し、横浜の外人居留区という消費地をバックにマーケット主導で設立されたキリン・ビール、阪神の酒造業という技術主導で立ち上がったアサヒ・ビールとそれぞれ設立の背景が異なっている。
与板は中川清兵衛の出身地である。中川清兵衛は、サッポロ・ビールのHPでは「ドイツでビール醸造を学んだ初の日本人」と紹介されている。中川が国禁を犯してイギリスに渡ったのは、慶応元年(1865)のことであった。その後、ドイツに移り、そこで留学生総代を務める青木周蔵(のちの外務大臣)と出会う。中川は青木の勧めでベルリンのビール醸造会社で修業を始めた。そして密航から十年を経た明治八年(1875)免状を手に帰国した。北海道開拓使はすぐに中川を迎え、醸造所の建設に着手した。その二年後、念願のビール醸造に成功したのであった。
中川清兵衛は、大正五年(1916)名古屋にて六十九年の生涯を閉じた。
(都野神社)
都野神社
官軍松代藩士之墓
与板の都野神社、蓮正寺、西光寺には、戦没者の墓がある。写真は都野神社神殿前、松代藩士の墓である。
史跡 與板城址
与板は、今は長岡市の一地域に過ぎないが、江戸時代は小なりといえども独立した藩であった。藩主は井伊家。彦根井伊家の縁戚である。
信濃川をはさんで長岡藩と対峙する与板藩は、期せずして新政府軍の最前線に位置することになった。慶応四年(1868)五月二十七日、会津、桑名、水戸脱走兵、村上といった同盟軍が南下して与板に迫った。これに対し、新政府軍も飯山、薩摩、富山、松代、尾張の各藩兵を派遣して与板藩を支援した。
与板城跡から市街地を臨む
この時の戦闘で城は全焼した。辛うじて大手門と切手門が焼け残り、それぞれ本願寺新潟別院と恩行寺に移築されて現在に至っている。
ここから眺める与板の市街地はさほど広くなく、周囲は水田に取り囲まれている。
(本願寺新潟別院)
与板城大手門
与板藩と本願寺新潟別院の関係は深く、天保元年(1830)、八代藩主井伊直経の発願により着工したもので、完工は明治三年(1870)であった。明治四年(1871)の廃藩置県を機に与板城の大手門が移築された。
(恩行寺)
恩行寺
与板城切手門
移築された与板城の遺構である。よく見ると、上部に井伊家の家紋である「井桁紋」が描かれている。
(中川清兵衛生誕地)
日本のビールの生みの親
中川清兵衛生誕地
ロンドンに留学した村橋久成の生涯を知ったことをきっかけに、最近サッポロ・ビールの歴史にはまっている。サッポロ・ビールが官(北海道開拓使)主導で設立されたのに対し、横浜の外人居留区という消費地をバックにマーケット主導で設立されたキリン・ビール、阪神の酒造業という技術主導で立ち上がったアサヒ・ビールとそれぞれ設立の背景が異なっている。
与板は中川清兵衛の出身地である。中川清兵衛は、サッポロ・ビールのHPでは「ドイツでビール醸造を学んだ初の日本人」と紹介されている。中川が国禁を犯してイギリスに渡ったのは、慶応元年(1865)のことであった。その後、ドイツに移り、そこで留学生総代を務める青木周蔵(のちの外務大臣)と出会う。中川は青木の勧めでベルリンのビール醸造会社で修業を始めた。そして密航から十年を経た明治八年(1875)免状を手に帰国した。北海道開拓使はすぐに中川を迎え、醸造所の建設に着手した。その二年後、念願のビール醸造に成功したのであった。
中川清兵衛は、大正五年(1916)名古屋にて六十九年の生涯を閉じた。
(都野神社)
都野神社
官軍松代藩士之墓
与板の都野神社、蓮正寺、西光寺には、戦没者の墓がある。写真は都野神社神殿前、松代藩士の墓である。