史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

長岡 与板

2011年06月03日 | 新潟県
(与板城跡)


史跡 與板城址

与板は、今は長岡市の一地域に過ぎないが、江戸時代は小なりといえども独立した藩であった。藩主は井伊家。彦根井伊家の縁戚である。
信濃川をはさんで長岡藩と対峙する与板藩は、期せずして新政府軍の最前線に位置することになった。慶応四年(1868)五月二十七日、会津、桑名、水戸脱走兵、村上といった同盟軍が南下して与板に迫った。これに対し、新政府軍も飯山、薩摩、富山、松代、尾張の各藩兵を派遣して与板藩を支援した。


与板城跡から市街地を臨む

この時の戦闘で城は全焼した。辛うじて大手門と切手門が焼け残り、それぞれ本願寺新潟別院と恩行寺に移築されて現在に至っている。
ここから眺める与板の市街地はさほど広くなく、周囲は水田に取り囲まれている。

(本願寺新潟別院)


与板城大手門

与板藩と本願寺新潟別院の関係は深く、天保元年(1830)、八代藩主井伊直経の発願により着工したもので、完工は明治三年(1870)であった。明治四年(1871)の廃藩置県を機に与板城の大手門が移築された。

(恩行寺)


恩行寺


与板城切手門

移築された与板城の遺構である。よく見ると、上部に井伊家の家紋である「井桁紋」が描かれている。

(中川清兵衛生誕地)


日本のビールの生みの親
中川清兵衛生誕地

ロンドンに留学した村橋久成の生涯を知ったことをきっかけに、最近サッポロ・ビールの歴史にはまっている。サッポロ・ビールが官(北海道開拓使)主導で設立されたのに対し、横浜の外人居留区という消費地をバックにマーケット主導で設立されたキリン・ビール、阪神の酒造業という技術主導で立ち上がったアサヒ・ビールとそれぞれ設立の背景が異なっている。
与板は中川清兵衛の出身地である。中川清兵衛は、サッポロ・ビールのHPでは「ドイツでビール醸造を学んだ初の日本人」と紹介されている。中川が国禁を犯してイギリスに渡ったのは、慶応元年(1865)のことであった。その後、ドイツに移り、そこで留学生総代を務める青木周蔵(のちの外務大臣)と出会う。中川は青木の勧めでベルリンのビール醸造会社で修業を始めた。そして密航から十年を経た明治八年(1875)免状を手に帰国した。北海道開拓使はすぐに中川を迎え、醸造所の建設に着手した。その二年後、念願のビール醸造に成功したのであった。
中川清兵衛は、大正五年(1916)名古屋にて六十九年の生涯を閉じた。

(都野神社)


都野神社


官軍松代藩士之墓

与板の都野神社、蓮正寺、西光寺には、戦没者の墓がある。写真は都野神社神殿前、松代藩士の墓である。

コメント (3)
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長岡 寺泊

2011年06月03日 | 新潟県
(常禅寺)
平成の大合併の結果、長岡市も随分と広くなった。西は寺泊、与板、東は栃尾、北は和島まで全て長岡の市域となっている。


常禅寺

常禅寺には、桑名藩士の墓がある。


桑名藩士の墓

(寺泊港)


贈従五位本間精一郎誕生之地碑

佐渡島行きの船が発着する寺泊港には、多くの釣り人が集まる。早朝というのに、たくさんの釣り人が糸を垂れていた。港に程近い、何もない空間が、本間精一郎の生家跡である。本間精一郎の生家は、酢醤油の醸造を営む「かくほん」という屋号の豪商であった。本間が風雲急を告げる京都に出て、志士活動を始めたのは二十歳のときであった。
精一郎は江戸で安積艮斎に学び、勘定奉行川路聖謨の中小姓となった。安政五年(1858)堀田正睦が条約勅許奏請のため上京することになると、精一郎も川路聖謨に随従して上京した。ここで頼三樹三郎と交わり、次第に幕政に批判的となる。そのため幕吏に追われる身となり、一時越前に逃亡。再び入洛しようとしているところを伏見で捕えられ投獄された。釈放後は私塾を開いて尊王攘夷活動を展開したが、寺田屋事変ののち、公卿と結託して挙国協力することに転換したことを尊攘派から反感を買うことになり、文久二年(1862)閏八月、木屋町通りで斬殺された。二十九歳であった。下手人は薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵らといわれる。

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