史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

出雲崎

2011年06月11日 | 新潟県
(正法寺)


正法寺

出雲崎町の正法寺は、水戸藩脱走兵が拠点とした寺である。新政府軍は慶応四年(1868)五月十四日、攻撃をしかけ、寺を焼き払った。

(出雲崎)


摂津屋跡 富山弥兵衛拘留の地周辺

既に海が近い。すぐそこに「おけさ源流の地」碑が建っている。


大崎屋跡
富山弥兵衛梟首の地周辺

出雲崎は、司馬先生の『新選組血風録』所収(弥兵衛奮迅)の主人公である薩摩藩の富山弥兵衛が最後を遂げた町である。所縁の場所を回ってみたい。
大崎屋跡付近は、弥兵衛の首が晒された辺りである。首になった弥兵衛を見て、西郷隆盛が
――― 弥兵衛どん、首になっても歯がないのう(弥兵衛奮迅)
と、涙を流すラストシーンが印象的である。

(教念寺)


教念寺


薩摩藩士 富山四郎豊國之碑

富山弥兵衛は、天保十四年(1843)薩摩に生まれた。元治元年(1864)、新選組に加入。翌年には伍長に昇進した。伊東甲子太郎とともに新選組から分離して御陵衛士結成に参加した。慶応三年(1867)の油小路事件では現場を脱して薩摩藩に匿われた。そのまま薩摩軍に加わって戊辰戦争に従軍。出雲崎で水戸諸生党軍に捕えられ、斬首された。二十六歳。

富山弥兵衛は、教念寺のある出雲崎吉水で斬首された。今、吉水は、かつてここで激しい戦闘があったとは思えないほど、静かな田園地帯で、聞こえるのはカエルの鳴き声だけである。

(宇奈具志神社)


宇奈具志神社


血戦場碑

出雲崎の北方、乙茂地区で両軍は大砲を撃ち合って対峙した。白兵戦も演じられたが、容易に決着はつかなかった。
慶應四年(1868)六月二十四日、乙茂を巡って両軍の激戦が交わされた。宇奈具志(うなくし)神社に明治二十九年(1896)血戦場と記された石碑が建てられた。

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加茂

2011年06月11日 | 新潟県
(北越銀行加茂支店)


市川家顕彰碑

栃尾に後退した長岡藩は、さらに陣を加茂に移し、庄屋市川家に本陣を構えた。現在、市川家跡は北越銀行加茂支店となり、市川家の顕彰碑とともに明治天皇御駐蹕所碑が並んで建てられている。ここを起点に河井継之助は長岡城奪回に向けて今町、八丁沖と駒を進めた。


明治天皇御駐蹕所碑

明治十一年(1878)、北越巡幸中の明治天皇は、市川邸で御昼餐をとった。

(大昌寺)


大昌寺

大昌寺は、同盟軍米沢藩が陣を置いたところである。裏山の墓地には、東軍の墓がある。なかなか見つけられず、雨の降る中、何度も墓地の中を行き来することになった。


東軍の墓


会津藩士の墓


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三条

2011年06月11日 | 新潟県
(東山寺)


東山寺

小栗山での戦争の際、米沢藩が陣を置いたのが東山寺である。東山寺には、南北朝時代に製作されたと伝えられる木像四天王像が安置されている。

(赤坂峠古戦場碑)


赤坂峠古戦場碑


表烈碑

三条市から見附市に向かう県道沿いに赤坂峠古戦場がある。慶応四年(1868)六月一日の朝、村松、長岡、会津、米沢の同盟軍が、赤坂峠に布陣する新政府軍を攻撃した。一時は同盟軍が優勢であったが、新政府軍に増援部隊が到着し、戦況は一変した。両軍に多くの死傷者が出る激戦であった。
大正十四年(1925)、この地に表烈碑が建立された。裏面には戦死した七名の村松藩士の名前が刻まれている。

(戊辰戦役の地)


戊辰戦役の地

信濃川の支流、五十嵐川のほとりに戊辰戦役の地碑がある。
慶応四年(1868)八月二日、五十嵐川をはさんで両軍が激しい銃撃を交わした。西郷隆盛の実弟、西郷吉二郎もこの付近の戦闘で負傷して、その後戦死している。
西郷吉二郎は五月の長岡城攻撃に参加した後、薩軍番兵二番隊監軍に転じ、大黒方面から長岡城に進んで城を陥れた。八月二日、五十嵐川での戦闘で腰部に被弾。八月十四日、柏崎の病院で没した。年三十六。

(八幡公園)


八幡神社

八幡神社周辺は、公園となっている。いくつも石碑が建っているが、その中に村山半牧頌徳碑がある。建立は明治三十一年(1898)。


村山半牧頌徳碑

(泉薬寺)


泉薬寺

村山半牧の墓があるが、傘を持たないのに強い雨が降ってきたため、墓地まで行けず。走って駐車場に戻った。

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見附

2011年06月11日 | 新潟県
(称名寺)


称名寺

称名寺には薩摩藩小川三六の墓がある。
小川三六は、慶応四年(1868)五月二十六日、越後小栗山で戦死。


小川三六碑

(村山半牧自決の地)


村山半牧自決の地

見附市の運動公園の近所に、見附市教育委員会の建てた村山半牧自決の地を表す説明板が建っている。
村山半牧は、文政十一年(1828)小須戸に生まれ、三条で育った。通称秀一郎。半牧は号である。若くして画を長谷川嵐渓に学び、各地に遊んで画家として名を成した。京都では藤本鉄石、山中静逸らと親交を持ち、次第に勤王の志を深くした。藤本鉄石が大和五条で挙兵して破れた後、半牧自身も幕吏に追われる身となった。密かに帰郷し尊王攘夷を論ずるが、慶応四年(1868)戊辰戦争が起こると、半牧も北越鎮撫の策をたてて奔走した。そのことで長岡、会津藩同盟軍から追われることになった。同志の雛田松渓、小柳春堤らが捕えられると、難を避けて当地にあった庄屋近藤家に潜伏した。ここで松渓らが処刑されたという誤報に接し、慶応四年(1868)六月十四日、自決して果てた。四十一歳。

(永閑寺)


永閑寺

永閑寺周辺は、今は見附市に組み入れられているが、当時は今町と呼ばれ、両軍が激しく砲火を交わした場所である。司馬先生の『峠』では、「長岡城を回復せんと欲すればまず今町を奪らざるべからず」と河井継之助に語らせるほど重要拠点としている。永閑寺は、新政府軍が最前線基地として本陣を置いた場所である。本堂前に、うっかりすると見逃してしまいそうな「戊辰戦役官軍本陣跡」と書いた木標が立っている。


戊辰戦役官軍本陣跡

(弾痕石碑)


弾痕石碑(薬師如来)

痘痕(あばた)のように弾痕の残る石碑で、この付近の戦闘の激しさを物語る。

(坂井神明社)
山本帯刀率いる一隊は、坂井神明社に拠って新政府軍に向かって砲撃を加えた。これは河井継之助がたてた陽動作戦であり、その間継之助自ら率いる本隊は間道を進んだ。新政府軍が陽動軍に兵力を集中させているうちに、本隊は密かに南下して西側から新政府軍を包囲した。新政府軍は狼狽して南方に遁走した。長岡藩は、長岡城奪回の拠点を確保することに成功した。


坂井神明社

(小栗山不動院)


小栗山不動院

見附市東郊の小栗山も、慶応四年(1868)五月二十六日、両軍による激しい争奪戦が繰り広げられた。境内に山県有朋の詩を刻んだ(何と書いてあるか読み取れず)古戦場跡碑がある。


小栗山古戦場跡地碑

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