史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

所沢

2015年09月12日 | 埼玉県
(早稲田大学所沢キャンパス)
 早稲田大学は、所沢にもキャンパスを所有している。スポーツ関係の学部である。ここにも大隈重信の胸像が置かれている。西早稲田の理工学部キャンパスにあるものと同じものである。


大隈重信胸像

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関宿 Ⅱ

2015年09月12日 | 千葉県
(宗英寺)
 宗英寺は、慶長元年(1596)創建の禅宗の寺である。山門の柱の葉彫は、創建当時のものである。境内には、足利晴氏(古河公方)や松平康元(初代関宿藩主・徳川家康の異父兄弟)の墓などがある。


宗英寺


舩橋瑞庵之墓

 今回、わざわざ関宿の宗英寺を訪ねたのは、船橋瑞庵の墓を掃苔するためであった。
 船橋瑞庵の墓は、裏手の墓地ではなく、本堂の前にある。
 瑞庵は、寛政七年(1795)、関宿に生まれる。本名は船橋穀信といい、瑞庵は隠居後の名である。壮年より藩の用人となり、嘉永元年(1848)には中老に進んだ。その頃、今でも瑞庵堀と呼ばれる水路の治水工事(関宿から野田まで)を数年の歳月をかけて完成させた。この治水工事により当地における水害はほとんどなくなり、作物の収穫高も飛躍的に伸長したという。明治五年(1872)四月、七十八歳にて死去。

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下野

2015年09月12日 | 栃木県
(甲田家墓地)


河野家由緒碑

 下野市本吉田の県道44号線沿い、鬼怒川を渡る大道泉橋の手前に、河野家墓地がある。ここに河野顕三ら一族の墓がある。


贈従五位甲田(河野)顕三墓

 墓地にある河野家由緒碑によれば、河野家の本姓は甲田といい、河野顕三の墓石にも本姓である甲田顕三と刻まれている。
 甲田家が何時どういう経緯でこの地に定着したのかは詳らかではないが、本家の庄兵衛の時、彦右衛門が分家を立てて独立したのに始まる。彦右衛門は長崎に遊学して医学を修め、帰郷後、摂生亭と名乗って開業した。嗣子貞文も家業を継いで徐嘯と号して、父子ともに令名が高かった。その後、弘雄、民雄、顕雄と続く。顕雄の妻は、「下野国誌」十二巻を著した河野守弘という人の一人娘で千世といった。この二人の間に生まれたのが、顕二、顕三の兄弟で、いずれも医学を学び、父子とも勤王の志が厚かった。顕二は万延元年(1860)、松前で客死。顕三は文久元年(1861)の坂下門外の変に参加して斃れた。河野家は断絶の危機に瀕したが、顕三の妹、テルが婿を迎えて家系を継いだ。


甲田顕二釋戒忍居士墓


贈正五位河野守弘墓

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宇都宮 Ⅵ

2015年09月12日 | 栃木県
(東刑部)


良眞禅定門
(増渕仙吉墓)


 増渕仙吉の墓である。墓地とも呼べないような藪の中にある。玉垣で囲まれており、官修墓地のようでもあるが、はっきりとは分からない。墓も半ば雑草で覆われている。
増渕仙吉は仙助とも。軍夫。慶応四年(1868)九月一日、会津火玉峠で負傷。十一月六日死亡。二十二歳(六十六歳とも)。以上、「幕末維新全殉難者名鑑」による。


増渕家之墓

 近くの墓地にある増渕家の墓の傍らにある墓標によれば、増渕仙助は明治元年十一月六日、二十一歳にて死去したと記されている。「幕末維新全殉難者名鑑」の記載と合致しているところと、異なっている部分がある。

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那須塩原 Ⅳ

2015年09月12日 | 栃木県
(烏森公園)


烏森神社

 明治十二年(1879)、印南丈作、矢板武らの要請に応えて、伊藤博文、松方正義が烏ヶ森から那須野が原を視察し、明治十四年(1881)の明治天皇の東北・北海道巡幸の際には、名代として有栖川宮熾仁親王が訪れた。さらに明治十八年(1885)には那須疎水起工式、明治二十七年(1894)には那須開墾社成業式が開かれる等、那須野ヶ原開墾、那須疎水開削にゆかりの深い場所である。丘の上の烏森神社は、社伝によれば、その前身である烏ヶ森稲荷神社の創建は延喜二年(902)とされるが、明治二十一年(1888)に現在の社殿が完成し、以来「開拓のおやしろ」として崇敬を集めてきた。


印南丈助頌徳碑

 印南丈作の頌徳碑である。建立は明治二十九年(1896)とあるが、「那須開拓史」には明治三十一年(1898)に建てられたと記載されている。撰文は佐々木高行。書は明治三大書家の一人と称される金井之恭による。
 印南丈作は、天保二年(1831)、日光で生まれ、佐久山宿(現・大田原市)の印南家の養子となった。戸長、県の勧業課付属、産馬協同会社社長を歴任後、明治十三年(1880)、同志とともに那須開墾社を設立し、翌年社長となった。明治十八年(1885)には矢板武とともに那須疏水の開通を実現するなど、那須野ヶ原の開拓に尽力した。明治二十一年(1888)、五十七歳にて死去。


有栖川宮碑

 有栖川宮熾仁親王の撰文および書による碑で、明治十四年(1881)八月、那須野ヶ原を視察したときのことを漢文で記録したものである。建立は明治十五年(1882)。

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那須 Ⅱ

2015年09月12日 | 栃木県
(大沢)
 前日、嫁さんから「明日は自動車を使っても良いよ」と言われたので、急遽栃木県への日帰り史跡旅行の計画を立てた。朝、五時半に出立して、第一目的地である那須町大沢に到着したのは八時半を過ぎていた。天気予報とおり、梅雨前線の影響で午前中はずっと雨であった。当たらなくてもよい予報ほどピタリと当たる。


高根沢新助墓

 高根沢新助は、大沢村出身の農。軍夫。明治元年(1868)九月五日、若松城下で負傷。十八日、死亡。三十一歳。


(小島)


平山忠蔵墓

 平山忠蔵は、小島村出身の農。夫卒。慶応四年(1868)五月一日、岩代白川郡西原堀田にて戦死。五十五歳。

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