史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

池上 Ⅳ

2015年09月17日 | 東京都
(馬頭観音堂)


馬頭観音堂

 大田区池上3‐20‐4の馬頭観音堂に刈谷藩出身で彰義隊士の渡邉健蔵の墓と供養塔がある。渡邉健蔵は、慶応四年(1867)四月、官軍が江戸に進攻すると、密偵として新政府軍の本営に忍び込もうとして捕えられ、この地で斬首された人物である。渡邉健造が斬首された地にのちに馬頭観音堂が建てられた。野良猫が屯するちょっと不気味な空間である。伝承によれば、健蔵(廉蔵とも)は、霊山橋付近で斬首され、その付近の馬捨て場に葬られたという。


不徹子之墓(渡邉健蔵墓)

 この墓は、昭和初期まで胴殻(どんがら)様と称され、祈れば病気が治るといわれた。なお、渡邉健蔵の墓は、鈴ヶ森刑場跡の大経寺にもあり、こちらは御首様と呼ばれて、首から上の病気が治るとされた。

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田町 Ⅴ

2015年09月17日 | 東京都
(薬王寺)


天下一閑人(中林梧竹墓)

 山内香雪の墓に向い合って、香雪を師と仰いだ中林梧竹の墓がある。この墓は梧竹が生前に建てられた寿塔で、側面には「肥前國小城 俗名彦四郎隆経 梧竹堂鳳栖五雲居士 大正二年八月四日卒」と刻まれている。
 中林梧竹は、小城藩出身の書家で、文政十年(1827)の生まれ。藩校興譲館に学び、草場佩川に師事した。のちに江戸に出て、書を山内香雪に学んだ。二十八歳で帰藩し、興譲館指南役を務めた。維新後は役職に就かず、書に専念した。明治十年(1877)頃、長崎に移り住み、清国領事の余元眉と知り合う。明治十五年(1882)、清国に渡り、潘存に師事した。明治十七年(1884)帰国後は、東京銀座の伊勢幸に住み、以来二十九年間をそこで過ごした。明治二十四年(1891)、副島種臣の勧めに従って、王義之の「十七帖」の臨書を明治天皇に献上し、白羽二重の御衣を賜った。明治三十年(1897)、再度清国に渡った。明治三十一年(1898)、富士山頂に「鎮國之山」銅碑を建立した。大正元年(1912)、中風を発症し、翌大正二年(1913)、帰郷したが同年八月病没。行年八十四。

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