史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

和水

2016年04月15日 | 熊本県
(長小田住吉神社)
 長小田住吉神社には、西南戦争の絵馬が掲げられている。黒い制服を着た警視隊と薩兵とが鉄砲で撃ち合い、刀を交わす姿と、遠くに熊本城も描かれている。


長小田住吉神社


西南戦争の絵馬

(光行寺)
 西南戦争では、光行寺に一時官軍の本営が置かれ、三浦梧楼司令長官や旅団参謀の軍議宿泊場所となった。


光行寺

(下岩官軍墓地)
ここでも官軍と薩軍の衝突があり、官軍の福原和勝大佐が負傷してのちに死亡している。国道沿いの岩バス停をやはり南に一キロメートルほど走った場所、光行寺の横にこじんまりとした墓地が在る。墓石が一部倒れて、積み重ねされているのがちょっと悲しい(久し振りに下岩官軍墓地を訪ねたところ、倒れていた墓石は修復され、整然と並べられていた)。


下岩官軍墓地

 下岩官軍墓地に葬られる墓碑数は百三十四を数え、主に三月三日の山鹿・鍋田方面と三加和町(現・和水(なごみ)町)岩における戦死者である。出身地は、九州から関西、中部、関東まで広範に及ぶ。

(菰田)
 西南戦争の際には、官軍が菰田を渡河したことが記録されている。当時は陸上交通の要点であったが、鉄道が発達し物資輸送が陸上運送へと移行するに従って、次第に重要性を失っていった。


菰田水夫の碑

 菰田水夫の碑は、寛永十四年(1637)、天草四郎の反乱が起きた際、細川忠利、光尚父子の命を受けて、菰田水夫が百五十艙の船団を結成して出陣したことを記念して建立されたものである。

(腹切坂)
 光行寺、下岩官軍墓地の前を走る道が、旧豊前街道である。少し東へ進むと、豊前街道の入口に行き着く。ここで自動車を乗り捨てて、歩いて腹切坂を登る。


豊前街道


豊前街道

 ここから腹切坂を登り切るまでの道は、昔ながらの未舗装道路である。かなり勾配がきつい。


腹切坂

 腹切坂とは物騒なネーミングであるが、昔西国の武士が、ひょんなことで人を殺し、敵と狙う若い武士から逃れようと諸国を逃げ回っていたが、所詮逃げられぬ運命と悟って、この地で切腹して果てたという伝説が残る。また、平氏の落ち武者や細川家の飛脚がいずれもこの坂で腹を切ったという言い伝えもある。結局のところ正確な命名の由来は不明である。

(薩軍の墓)
 腹切坂から山鹿方面に進むと、左手に薩軍の墓と書かれた標柱がある。この場所から畑を超えた森の中に土饅頭状の墓があるらしいが、周囲はイノシシ除けの鉄柵が巡らされていて進入することはできない。
 車坂(山鹿)を攻め上った薩軍は、台地北端の腹切坂を駆け下って官軍を南関方面に追いやった。その激闘の中、斃れた仲間を塹壕に埋めて前進したという。


西南の役 薩軍の墓

(永ノ原)
 明治十年(1877)二月十四日、薩軍挙兵の報に対し、政府軍は熊本鎮台小倉分営のほか、東京・大阪・広島鎮台などから兵を派遣し、二十四日には山鹿市津留の正円寺に本陣を構えた。薩軍は二十五日に桐野利秋の四番大隊と熊本協同隊、飫肥隊が山鹿に進み、本陣を設けた。二十六日、官軍は山鹿の薩軍に攻撃を開始したが、大敗して鍋田まで後退し、さらに薩軍の猛攻を受けて平野まで後退した。三月三日、桐野利秋の率いる薩軍は、一気に南関の官軍本営を衝こうとしたが、官軍は南関街道を掌握して本営を岩村におき、砲台を永野原に築いて薩軍本隊を迎え撃った。田原坂敗退の誤報により薩軍は一時山鹿まで引き上げたが、戦いは薩軍有利のうちに進んだ。しかし、三月十三日、三浦梧楼少将が三箇大隊を率いて岩村に入ると兵力が逆転した。十五日より再び鍋田攻撃を開始し、一進一退が続いたが、二十日に田原坂が陥落すると、いよいよ官軍の勢いが増し、二十一日には右翼は菊池川を渡って小原・志々岐に進み、中央は本道から、左翼は平山・城村から総攻撃を開始し、遂に山鹿に達した。敗れた薩軍は山鹿を放棄して撤退した。永野原は、三月中旬にかけて激戦となった場所である。


豊前街道 永ノ原


西南の役古戦場跡

(郡境碑)
 玉名郡(現・和水町)と山鹿の境に郡境碑が建てられている。これより東が山鹿市となる。


従是西北玉名郡

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南関

2016年04月15日 | 熊本県
(正勝寺)
南関は、官軍と薩軍が山鹿で争っている時期、官軍の本営が置かれた。有栖川熾仁親王は官軍の都督として正勝寺に起居した。寺の正門から指揮を振るったと伝えられる。


正勝寺

(城ノ原官軍墓地)
正勝寺の裏の道を登ると城ノ原官軍墓地がある。墓地に至る道はほとんど訪れる人も無いからであろうが、草茫茫として足元も見えない程である。竹林と杉林を抜けると冷やりとした空間に八十基足らずの墓石が立ち並ぶ。たかだか五分ほど山道を歩いただけなのに、汗びっしょりとなってしまった。


城ノ原官軍墓地

 城ノ原官軍墓地を訪ねたのもほぼ二十年振りである。ほとんど訪れる人がいないせいか、途中の道には大木が倒れ、それをまたがったり、くぐったりしながらようやく墓地にたどり着いた。

(西宗寺)


西宗寺


西宗寺 西南の役 野戦病院跡

 西宗寺は西南戦争時に一時野戦病院となり、負傷した乃木希典が治療のためここで休息した記録が残っている。

(肥猪官軍墓地)
南関から国道三百二十七号線を山鹿方面に進むと右手に肥猪口というバス停が見える。そこを更に一キロメートルほど南下した集落の中に肥猪の官軍墓地がある。




肥猪官軍墓地
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大牟田

2016年04月15日 | 福岡県
(三池小学校)
 荒尾の宮崎兄弟記念館、宮崎家の墓を訪ねた後、県境を越えて福岡県大牟田市に入る。大牟田の三池は立花家一万石の小藩である。三池藩は六代藩主立花種周のとき、陸奥国下手渡(現。福島県伊達市月舘町)へ転封された。同じ一万石といえ、肥沃な三池と比べて山間の僻地で、明らかな左遷であった。以来、立花家にとって三池復封は悲願となった。種周から四代目の立花種恭は、文久三年(1863)幕府の大番頭に登用され、さらに同年九月には若年寄に抜擢された。その後も十四代将軍家茂の側近として長州征伐に随行するなど重用されたが、明治新政府樹立後、辞職謹慎した。奥羽越列藩同盟が成立し、下手渡藩も同盟に加わったが、藩主種恭は新政府に恭順を示しており、その矛盾した行動を仙台藩に問題視された。八月には仙台藩が下手渡藩領に進攻し、陣屋を占拠、城下も焼き払われた。下手渡の陣屋が焼失したことから、藩主種恭は居所を三池に移し、再び三池藩が成立することになった。明治二年(1869)には三池藩知事に任命されている。


三池小学校

 現在、三池小学校のある場所が、三池藩陣屋跡である。陣屋の遺構らしきものは少ないが、学校の西側の藩主居館跡、それに通じる石段、周囲の掘割や石造りの橋等は往時のままであろう。


三池藩陣屋跡


三池藩主居館跡


大手橋

(早馬神社)
 大牟田市宮部は、幕末の剣術家大石進を産んだ土地である。
 大石進は、寛政九年(1797)、柳川藩武術師範の家に生まれた。幼少の頃より、祖父に新陰流剣術と大島流槍剣術を学んだ。長じて柳川藩の剣術師範を継いだ。身長六尺五寸の大男で、容貌魁偉、長大な竹刀を愛用し、喉突きが得意技であった。十八歳のとき、大石新陰流を創設した。天保三年(1832)、三十六歳のとき、江戸勤務となり、当時江戸を代表する男谷精一郎、千葉周作、桃井春蔵、白井亨らに挑戦し、いずれも互角以上であったという。天保十年(1839)再び江戸に上がると、旗本や諸藩の武士が入門を請うた。藩主立花鏡寛(あきとも)は、六十石から七十石に加増してその功を称えた。嘉永元年(1848)、家督と剣槍術師範を二代目の進(種昌)に譲り隠居。文久三年(1863)、六十七歳で死去した。


早馬神社

 宮部の早馬神社境内に大石道場跡を示す石碑がある。


大石道場跡

 この付近には、大石進顕彰碑や墓所があるはずだが、見つけられなかった。

(紹運寺)


紹運寺

 紹運寺は、三池藩主立花家の菩提寺として、元和七年(1621)に建立された曹洞宗の寺である。境内の立花家墓地には、二代藩主立花種次、八代藩主種徳の墓がある。


三池藩主墓地

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荒尾

2016年04月15日 | 熊本県
熊本地震によって被災された方に衷心よりお見舞い申し上げます。

(宮崎兄弟生家)


宮崎兄弟の生家

 鹿児島在住の頃から、いつか荒尾を訪ねたいと思っていたが、今回念願叶って荒尾の宮崎兄弟生家を訪ねることができた。
宮崎兄弟は、男子だけで八人兄弟であったが、長兄武平は早逝したため、二男八郎が実質的に長男となった。次兄伴蔵は十九歳の若さで病死してしまったが、継いで成人した六男民蔵は土地の再分配を生涯の使命として活動、七男彌蔵は中国革命に夢を託して活躍したが、病のために二十九歳にて長逝。そして八男寅蔵(滔天)は孫文を助けて革命を支援したことで知られる。兄弟いずれも激烈な生涯を送ったが、宮崎家は正保年間(十七世紀半ば)に荒尾に移住したと伝えられ、代々村人を広く愛し、尊敬される名望家であった。兄弟の父政賢は天性の自由を愛し、名利を憎み、弱者に対し豊かな同情を傾けた。母佐喜は、教育熱心で知られ、「畳の上に死するは男子何よりの恥辱」と子供たちに教えた。時代の空気でもあったが、子供の教育にいかに両親の影響が大きいかということを如実に物語っている。民蔵、彌蔵、滔天はいずれも病に倒れたが、革命に命を賭した姿は、両親の期待に違わないものであったであろう。


宮崎兄弟記念館

 宮崎兄弟記念館は、云うまでもなく宮崎兄弟の事績を紹介する資料館であるが、私が注目したのは何といっても宮崎八郎である。
 宮崎八郎は、嘉永四年(1851)に生まれ、元治元年(1864)、父と長州征伐のために出陣の際、元服(記念館にその時の前髪が残されている)。時習館に学び、明治三年(1870)、上京遊学。東京では明治新政府の専制政治への怒りと独立国日本の将来への危機意識を感じ、明治六年(1873)、左院に征韓の正当性を建白し、第二の維新のリーダー的存在となった。明治七年(1874)、台湾の役にも従軍。反権力の意志を積極的行動に傾けた時、見出した中江兆民の「民約論」に感銘し、明治八年(1875)、自由民権思想をかかげた植木学校を設立した。慌てた県は、わずか半年で閉校を命じた。その後、再び上京し評論新聞記者となり、新聞紙条例に触れて投獄された。「西郷に天下を取らせて、また謀反する」ため、民権党の同志たちと協同隊を組織して、薩軍に投じて西南戦争を戦うが、明治十年(1877)四月六日、八代萩原堤にて戦死。享年二十七。自由と民権を愛する兄弟の精神的原点となった。


八郎が元服した時の前髪


宮崎兄弟生家


孫文が宮崎滔天を訪ねたシーンを再現

(旧孫文記念館跡)


宮崎家之墓


宮崎真郷之墓(宮崎八郎の墓)

 宮崎兄弟の生家跡から七~八百メートルほど離れた場所にかつて孫文記念館があった。現在、記念館は閉館となり、建物も撤去されているが、そこに宮崎家の墓が残っており、傍らに八郎の墓がある。墓石に刻まれた真郷は八郎の名。
 西南の役直前に、熊本高瀬屋の娘浪子と相思相愛の仲となり、八郎戦死の後に浪子は発狂して行方知れずになったという。
八郎の墓に出会うことができて、大満足して荒尾をあとにした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする