(長小田住吉神社)
長小田住吉神社には、西南戦争の絵馬が掲げられている。黒い制服を着た警視隊と薩兵とが鉄砲で撃ち合い、刀を交わす姿と、遠くに熊本城も描かれている。
長小田住吉神社

西南戦争の絵馬
(光行寺)
西南戦争では、光行寺に一時官軍の本営が置かれ、三浦梧楼司令長官や旅団参謀の軍議宿泊場所となった。

光行寺
(下岩官軍墓地)
ここでも官軍と薩軍の衝突があり、官軍の福原和勝大佐が負傷してのちに死亡している。国道沿いの岩バス停をやはり南に一キロメートルほど走った場所、光行寺の横にこじんまりとした墓地が在る。墓石が一部倒れて、積み重ねされているのがちょっと悲しい(久し振りに下岩官軍墓地を訪ねたところ、倒れていた墓石は修復され、整然と並べられていた)。

下岩官軍墓地
下岩官軍墓地に葬られる墓碑数は百三十四を数え、主に三月三日の山鹿・鍋田方面と三加和町(現・和水(なごみ)町)岩における戦死者である。出身地は、九州から関西、中部、関東まで広範に及ぶ。
(菰田)
西南戦争の際には、官軍が菰田を渡河したことが記録されている。当時は陸上交通の要点であったが、鉄道が発達し物資輸送が陸上運送へと移行するに従って、次第に重要性を失っていった。
菰田水夫の碑
菰田水夫の碑は、寛永十四年(1637)、天草四郎の反乱が起きた際、細川忠利、光尚父子の命を受けて、菰田水夫が百五十艙の船団を結成して出陣したことを記念して建立されたものである。
(腹切坂)
光行寺、下岩官軍墓地の前を走る道が、旧豊前街道である。少し東へ進むと、豊前街道の入口に行き着く。ここで自動車を乗り捨てて、歩いて腹切坂を登る。
豊前街道
豊前街道
ここから腹切坂を登り切るまでの道は、昔ながらの未舗装道路である。かなり勾配がきつい。
腹切坂
腹切坂とは物騒なネーミングであるが、昔西国の武士が、ひょんなことで人を殺し、敵と狙う若い武士から逃れようと諸国を逃げ回っていたが、所詮逃げられぬ運命と悟って、この地で切腹して果てたという伝説が残る。また、平氏の落ち武者や細川家の飛脚がいずれもこの坂で腹を切ったという言い伝えもある。結局のところ正確な命名の由来は不明である。
(薩軍の墓)
腹切坂から山鹿方面に進むと、左手に薩軍の墓と書かれた標柱がある。この場所から畑を超えた森の中に土饅頭状の墓があるらしいが、周囲はイノシシ除けの鉄柵が巡らされていて進入することはできない。
車坂(山鹿)を攻め上った薩軍は、台地北端の腹切坂を駆け下って官軍を南関方面に追いやった。その激闘の中、斃れた仲間を塹壕に埋めて前進したという。
西南の役 薩軍の墓
(永ノ原)
明治十年(1877)二月十四日、薩軍挙兵の報に対し、政府軍は熊本鎮台小倉分営のほか、東京・大阪・広島鎮台などから兵を派遣し、二十四日には山鹿市津留の正円寺に本陣を構えた。薩軍は二十五日に桐野利秋の四番大隊と熊本協同隊、飫肥隊が山鹿に進み、本陣を設けた。二十六日、官軍は山鹿の薩軍に攻撃を開始したが、大敗して鍋田まで後退し、さらに薩軍の猛攻を受けて平野まで後退した。三月三日、桐野利秋の率いる薩軍は、一気に南関の官軍本営を衝こうとしたが、官軍は南関街道を掌握して本営を岩村におき、砲台を永野原に築いて薩軍本隊を迎え撃った。田原坂敗退の誤報により薩軍は一時山鹿まで引き上げたが、戦いは薩軍有利のうちに進んだ。しかし、三月十三日、三浦梧楼少将が三箇大隊を率いて岩村に入ると兵力が逆転した。十五日より再び鍋田攻撃を開始し、一進一退が続いたが、二十日に田原坂が陥落すると、いよいよ官軍の勢いが増し、二十一日には右翼は菊池川を渡って小原・志々岐に進み、中央は本道から、左翼は平山・城村から総攻撃を開始し、遂に山鹿に達した。敗れた薩軍は山鹿を放棄して撤退した。永野原は、三月中旬にかけて激戦となった場所である。
豊前街道 永ノ原
西南の役古戦場跡
(郡境碑)
玉名郡(現・和水町)と山鹿の境に郡境碑が建てられている。これより東が山鹿市となる。
従是西北玉名郡
長小田住吉神社には、西南戦争の絵馬が掲げられている。黒い制服を着た警視隊と薩兵とが鉄砲で撃ち合い、刀を交わす姿と、遠くに熊本城も描かれている。

長小田住吉神社

西南戦争の絵馬
(光行寺)
西南戦争では、光行寺に一時官軍の本営が置かれ、三浦梧楼司令長官や旅団参謀の軍議宿泊場所となった。

光行寺
(下岩官軍墓地)
ここでも官軍と薩軍の衝突があり、官軍の福原和勝大佐が負傷してのちに死亡している。国道沿いの岩バス停をやはり南に一キロメートルほど走った場所、光行寺の横にこじんまりとした墓地が在る。墓石が一部倒れて、積み重ねされているのがちょっと悲しい(久し振りに下岩官軍墓地を訪ねたところ、倒れていた墓石は修復され、整然と並べられていた)。

下岩官軍墓地
下岩官軍墓地に葬られる墓碑数は百三十四を数え、主に三月三日の山鹿・鍋田方面と三加和町(現・和水(なごみ)町)岩における戦死者である。出身地は、九州から関西、中部、関東まで広範に及ぶ。
(菰田)
西南戦争の際には、官軍が菰田を渡河したことが記録されている。当時は陸上交通の要点であったが、鉄道が発達し物資輸送が陸上運送へと移行するに従って、次第に重要性を失っていった。

菰田水夫の碑
菰田水夫の碑は、寛永十四年(1637)、天草四郎の反乱が起きた際、細川忠利、光尚父子の命を受けて、菰田水夫が百五十艙の船団を結成して出陣したことを記念して建立されたものである。
(腹切坂)
光行寺、下岩官軍墓地の前を走る道が、旧豊前街道である。少し東へ進むと、豊前街道の入口に行き着く。ここで自動車を乗り捨てて、歩いて腹切坂を登る。

豊前街道

豊前街道
ここから腹切坂を登り切るまでの道は、昔ながらの未舗装道路である。かなり勾配がきつい。

腹切坂
腹切坂とは物騒なネーミングであるが、昔西国の武士が、ひょんなことで人を殺し、敵と狙う若い武士から逃れようと諸国を逃げ回っていたが、所詮逃げられぬ運命と悟って、この地で切腹して果てたという伝説が残る。また、平氏の落ち武者や細川家の飛脚がいずれもこの坂で腹を切ったという言い伝えもある。結局のところ正確な命名の由来は不明である。
(薩軍の墓)
腹切坂から山鹿方面に進むと、左手に薩軍の墓と書かれた標柱がある。この場所から畑を超えた森の中に土饅頭状の墓があるらしいが、周囲はイノシシ除けの鉄柵が巡らされていて進入することはできない。
車坂(山鹿)を攻め上った薩軍は、台地北端の腹切坂を駆け下って官軍を南関方面に追いやった。その激闘の中、斃れた仲間を塹壕に埋めて前進したという。

西南の役 薩軍の墓
(永ノ原)
明治十年(1877)二月十四日、薩軍挙兵の報に対し、政府軍は熊本鎮台小倉分営のほか、東京・大阪・広島鎮台などから兵を派遣し、二十四日には山鹿市津留の正円寺に本陣を構えた。薩軍は二十五日に桐野利秋の四番大隊と熊本協同隊、飫肥隊が山鹿に進み、本陣を設けた。二十六日、官軍は山鹿の薩軍に攻撃を開始したが、大敗して鍋田まで後退し、さらに薩軍の猛攻を受けて平野まで後退した。三月三日、桐野利秋の率いる薩軍は、一気に南関の官軍本営を衝こうとしたが、官軍は南関街道を掌握して本営を岩村におき、砲台を永野原に築いて薩軍本隊を迎え撃った。田原坂敗退の誤報により薩軍は一時山鹿まで引き上げたが、戦いは薩軍有利のうちに進んだ。しかし、三月十三日、三浦梧楼少将が三箇大隊を率いて岩村に入ると兵力が逆転した。十五日より再び鍋田攻撃を開始し、一進一退が続いたが、二十日に田原坂が陥落すると、いよいよ官軍の勢いが増し、二十一日には右翼は菊池川を渡って小原・志々岐に進み、中央は本道から、左翼は平山・城村から総攻撃を開始し、遂に山鹿に達した。敗れた薩軍は山鹿を放棄して撤退した。永野原は、三月中旬にかけて激戦となった場所である。

豊前街道 永ノ原

西南の役古戦場跡
(郡境碑)
玉名郡(現・和水町)と山鹿の境に郡境碑が建てられている。これより東が山鹿市となる。

従是西北玉名郡