史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

山鹿 菊鹿

2016年04月17日 | 熊本県
(あんずの丘)
 山鹿市菊鹿町のあんずの丘は、とにかく広い公園で、そこにアスレチック用具や子供用の遊具などが設置されており、県外からの来客も多い。あんずの丘の南の小高い山の上に長野家の墓地がある。K氏、E氏とともに付近を探して、発見することができた。


長野濬平之墓


顕彰 長野濬平先生


讃長野濬平老

 長野濬平(しゅんぺい)は、文政六年(1823)、現在の熊本県山鹿市菊鹿町に生まれた。桑陰と号した。藩校時習館教授近藤淡泉の塾に入り、のちに横井小楠に実学を学んだ。弘化四年(1847)、南関に長野塾を開いて子弟を養成した。『養蚕富国論』はその時に著したものである。以来、諸国を歴遊して蚕糸の得失を視察し、桑園の開闢、桑苗の移植、その経営に尽力すると同時に、養蚕試験場を設け、器械製糸場を創立するなど、日本の養蚕製糸の振興に貢献すること少なからず。その間、苦心瘁励二十有七年。その功により緑綬褒章を授与された。明治三十一年(1898)七十五歳にて逝去。


 朝から山鹿の史跡をご案内いただいたK氏とE氏とはここで別れた。平山や椿井の史跡などは自力では絶対に発見できなかったであろう。単なる史跡マニアの旅に半日も付き合っていただき、感謝に耐えない。またお二人の山鹿の史跡に対する情熱にもとても感銘を受けた。こうした地元の方の熱意によって、貴重な史跡が保存維持されていることを改めて痛感した。またお会いできる日を楽しみにしている。

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山鹿 鹿本通

2016年04月17日 | 熊本県
(山鹿市墓地公園)


史跡西南の役協同隊士三人野満顕彰の碑


野満安親 野満富記 墓


野満家累代墓

 山鹿市墓地公園に野満三兄弟の墓がある。
 野満安親と富記兄弟は、従兄弟長太郎とともに植木学校に学び、自由民権思想の宣揚に尽瘁した。明治十年(1877)二月、薩軍起つや、一同集まって参戦の是非を協議したが、議論百出する中、死を賭けた安親の一声で参戦が決まり、協同隊が結成された。二月二十二日、熊本城総攻撃が始まると、安親、富記の兄弟は、まっさきに城壁に取り付き奮戦。「我らの死にざまを見よ」と叫ぶと、兄弟互いにその名を連呼しつつ、弾丸雨中の中、壮烈な戦死を遂げた。
 野満長太郎は、沈毅にして胆略があった。協同隊の幹部として各地を転戦したが、八月十七日、薩軍の解体宣言を受けて降伏した。投獄されたが、二年余にして放免され、爾来郷党の指導者として推重された。野満兄弟の一つおいて左の墓に合葬されている(周囲は野満家の墓がいくつもあって、どれに長太郎が葬られているのか簡単に特定ができない。K氏が縁者の方に連絡をとっていただき、ようやく判明した)。

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山鹿 西牧

2016年04月17日 | 熊本県
(西牧)


西南の役 薩軍熊本隊 安田兄弟顕彰之碑

 西牧地区は保多田や椿井よりさらに南に位置する。その墓地に安田兄弟の顕彰碑がある(墓はない)。
 三月十八日の佐伯の戦いは、激戦の中の激戦といわれる。この日の未明、実兄安田嘉七郎は田原坂付近七本原において篠原国幹の旗下の大隊長崎村唯雄の下にあって奮戦苦闘の末、銃弾に倒れた。二月二十六日に寺田にて戦死した実弟野田琢磨とともにこの地に葬られた。
 安田弾八は、戦後自宅に帰った。明治十八年(1885)五月、西牧村村会議員に就き、明治三十六年(1903)、六十五歳で死去。

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山鹿 川辺

2016年04月17日 | 熊本県
(保多田阿蘇神社)


保多田阿蘇神社

 保多田阿蘇神社前の空間が、官軍が繃帯所を置いた場所である。軍夫として従軍した松本万次郎氏(当時十九歳)、坂本道博氏(当時十四歳)が無事に帰郷し、昭和初期までその頃のことを村の方々に語り残した、官軍が野戦病院とした場所である。


西南の役 官軍仮繃帯所跡


史跡西南の役官軍仮繃帯所跡

(椿井 徳永三兄弟の墓)
 畑の中に椿井村出身の徳永三兄弟の墓がある。


史跡西南の役協同隊士徳永三兄弟顕彰の碑

 徳永三兄弟は、徳永熊七、佐茂子の子として生まれた。徳永家は旧家で、旧藩時代は庄屋をつとめ、長男慎太郎は明治七年(1874)二十九歳の若さで大六区十一小区の副戸長に選任されている。自由民権を標榜する植木学校に学び、民権運動の先頭にたって活動し、西南戦争が起こると、二兄弟を率いて、民権派の同志とともに協同隊に投じて戦い、三兄弟とも戦死した。


徳永重蔵の墓


徳永慎太郎 政次之墓

 徳永慎太郎 五月二十四日戦死 於水俣郷釘野村 享年三十二
 徳永政次 四月九日戦死 於菊池郡城山 享年二十四
 徳永重蔵 十一月二十三日死亡 於鍋田にて重傷を負い死没 享年二十九

(椿井激戦の地)


史跡 椿井方面激戦の地

 椿井は、山鹿口の戦いでは西南端に位置し、鍋田と菰田の中間に当たる。また、椿井~六枝、椿井~麻生野道が通り、豊前街道や車坂を側面から攻撃する戦略上の要地であった。官薩両軍とも精鋭を派遣して本集落を奪取するために、取りつ取られつの攻防戦が行われた。「椿井方面激戦の地」の木柱の周りには古い墓石が置かれているが、激戦を物語る弾痕が残っている。

(正泉寺)


正泉寺


史跡西南の役正泉寺戦跡


弾痕

 三月三日、官軍の一隊は、菰田の渡しから椿井の間に転々と堡塁を築いて薩軍を迎撃した。官軍は、東京一聯隊一個小隊と大阪八聯隊一個中隊で、正泉寺並びにその周辺に陣を敷いていた。薩軍は、鍋田から麻生野を通って近づき、台地方面から激しく攻め立てた。数時間の激戦ののち、官軍は菰田方面に退いた。正泉寺にはこの時の弾痕が壁や柱、墓地の墓石にのこっている。柱の弾痕には、白いペンキで印がされており、見つけやすい。

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山鹿 平山

2016年04月17日 | 熊本県
(平山温泉)


西南の役平山本営跡

 K氏によれば平山温泉は、黒川温泉や湯布院に並んで、九州で人気の温泉だという。私は平山温泉ではなく、市内のビジネスホテルに宿泊したが、そこの泉質もヌルヌルとしたアルカリ泉で、所謂「美肌の湯」である。平山は官軍の南関本営と山鹿の中間地点に当たり、二月二十五日から三月二十二日まで官軍の陣営が置かれた。それが湯山の牛島順蔵宅であったといわれる。これも平山温泉街の一角であるが、K氏、E氏の案内なくして行き着けなかったであろう。

(薩軍仮繃帯所跡)


西南の役 薩軍仮繃帯所跡

 笹原の路傍に薩軍仮繃帯所跡の木柱が建てられている。かなり文字は読みづらい。
 この地域でも官薩両軍の攻防戦が繰り広げられた。今田房男氏の祖母テキさん(明治十年当時十三歳)の話によれば、この付近一帯は薩軍の宿泊所となり、今田家は繃帯所となった。

(平山城址)


平山城址

 平山地区での戦闘は、第三次、第四次の戦いがもっとも激しく、官軍の戦死者は三十二名、家屋の毀損三十一戸を数えた。岩村の本隊に対士、平山には支隊が置かれ、要所には陣地が築かれた。平山城跡はその一つである。写真は城址に至る入口であるが、城址にはここから十分ほど登る必要がある。三月十二日の第三次戦は、早朝四時半より始まり、平山の官軍の一面隊は小群村より城村に進撃し、薩軍の陣を奪ったが、側面から薩軍の攻撃を受け、夜になって平山に戻った。

(堂ヶ原口)


旧街道(至十町)堂が原口
史蹟 西南の役台場跡

 堂ヶ原口は、もはや山鹿市の北端に近い。木柱は根元から折れてしまっているが、記述によればここを通る道は、十町(現・和水町)へ通じる旧街道のようである。
 ここから東に一・五キロメートルの山の中に薩軍の台場があったそうである。



 E氏が「多分、あちらの山の中に台場があった」と語る、そちらの方面の風景を参考として掲載しておく。


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山鹿 杉

2016年04月17日 | 熊本県
(日輪寺)
 山鹿口の戦闘において、北は正円寺山、南は志々岐・長岩まで、その戦線は約五キロメートルに及んだ。日輪寺は、薩軍の最重要拠点として、北方戦線の見張り所、指揮所が置かれた。


日輪寺


西南の役 薩軍の北方拠点日輪寺

 日輪寺墓地には、押川仙太郎の顕彰碑と薩軍三人の墓がある。


西南の役 押川仙太郎顕彰之碑

 押川仙太郎は、鹿児島出身とされるが、出生地等は不明。東京警視庁巡査隊二小隊長として従軍し、山鹿口の戦いにも参加した。薩軍が山鹿から撤退した後、路傍に打ち捨てられた三名の薩兵の遺体を見た。押川仙太郎は、三名の鎮魂供養のために墓碑の建立を里人に依頼し、走り書きの碑文と金銭を託した。
 歳月の経過とともに薩軍兵士の墓もその存在を忘れられていたが、墓地整理の際、故池田敬次郎氏が発見して自家の墓所に引き取って供養を続けた。平成十年(1998)、杉村の各位の厚情により日輪寺墓地に改葬された。その際、押川仙太郎の顕彰碑も建立された。


官賊無 鎮魂色即是空
(薩軍戦死者三名之墓)

 側面には、「天下国家ヲ論ス 賊名ヲ捨テ迷ワズ 魂ヨ郷里ニ帰レ 押川仙太郎」と記されている。
 この墓に葬られている薩軍三名は、
 上野清吉 二番大隊二小隊 鹿児島 山郷
 山上雄太郎 二番大隊二小隊 鹿児島宮之城
 山内治三郎 四番大隊二小隊 鹿児島国分

(山鹿稲荷神社)


山鹿稲荷神社


奉納 西南の役百年記念

 杉の稲荷神社の鳥居横には西南の役百年を記念した石碑が建てられている。

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山鹿 津留

2016年04月17日 | 熊本県
(正円寺)
 鍋田方面における激戦が開始されると、小倉十四聯隊の後続部隊が続々集結し、正円寺前で野営を始めた。二月二十八日には、寺内乃木少佐のもとで作戦会議が開かれた。その中で正円寺に包帯所開設が決定し、六月四日の包帯所解散まで多くの傷病兵の看護に充てられた。その間、二度にわたり薩軍の襲撃を受けた。野村忍介の攻撃放火により居家、渡り廊下を全焼したが、本堂への類焼は免れた。本堂の柱には、官軍が放った銃弾の痕が残っている。


正円寺


史跡 西南之役官軍包帯所跡

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山鹿 上吉田

2016年04月17日 | 熊本県
(万行寺)


万行寺


西南之役 官軍・薩軍宿陣之跡

 上吉田の万行寺の門前に官薩両軍がこの寺に宿陣したことを示す木柱が建てられている。
 薩軍が山鹿に至ったのは二月二十五日。杉、石、鍋田、城、志々岐、小原の諸村に展開して戦闘を繰り広げた。しかし、利あらず三月二十一日、隈府鳥栖辺りまで撤退した。その間、薩軍六十~七十名が宿陣した。薩軍が退散した後、三月二十五日より二十八日まで官軍の一中隊が宿陣した(「万行寺過去帳」より)。
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山鹿

2016年04月17日 | 熊本県
(山鹿官軍墓地)
 この墓地には、山鹿口の戦いで奮戦し、鍋田や岩村で戦死した官軍将兵と、菊池郡下で戦死した将兵合わせて百五十三柱が葬られている。かつて一人ひとりの墓碑があったが、老人福祉センターの建設に伴い、現在のように一カ所に集められた。戦没者の氏名が分からなくなるのを憂えた山鹿口戦蹟顕彰会員の努力により、記名碑が合祀碑の前に建設された。


明治十年西南ノ役
官軍墓地


山鹿官軍墓地

(光顕寺)
山鹿口の合戦では宮崎日南の飫肥隊が奮戦した。山鹿市内の光顕寺は飫肥隊の病院になったと伝えられる。


光顕寺


史跡西南之役薩軍飫肥隊病院跡

 飫肥隊は、山鹿に着くと光顕寺を本陣と定め、直ちに戦闘に加わった。最も激戦となった三月十二日と十五日の戦いでは、年の神墓地に陣地を死守して、第二小隊長高橋元安以下数十名の死傷者を出した。死者はこの寺の墓地に葬り、負傷者は本堂で看護された。のちに墓石は故郷に持ち帰られた。

(長源寺)


長源寺


史跡西南之役薩軍野戦病院跡


岡村平助 和田新左衛門 墓

 長源寺には、薩軍の野戦病院が置かれた。負傷して運び込まれここで絶命した者、または戦場で倒れてここで葬られた者、合わせて四十数基の墓があったという。戦後、薩摩から縁者が訪ねてきて遺骨を持ち帰ったため、今では少数の墓石が残されているのみとなっている。

(光専寺)


光専寺

 光専寺は、開戦当初は薩軍の兵站基地として利用され、のち野戦病院となった。本堂に遺体が運び込まれ供養埋葬され、庫裡では負傷者を収容して看護した。また、山鹿での回戦中、山鹿の街では熊本協同隊の有志によって、日本で初めて民権体制が敷かれた。この寺は、民生官となった野満長太郎の檀那寺であったため、寺の一室を借りて同士の会合を開いたと伝えられる。田原坂が落ちると、山鹿の薩軍も隈府(現・菊池市)方面に退却したが、去るに及んで「我々は負けていない」と残念がり、寺の庫裡の天井や鴨居を槍や刀で突き破って、無念の表情を見せたという。その時の傷痕が今も残っているそうである。
 戦闘が激化して傷病兵の数が多くなると、光専寺も野戦病院となった。

(湯の端公園)


西南の役 山鹿口の戦い
薩軍本陣跡

 湯の端公園の少し東側に薩軍本陣跡の説明板が設置されている。薩軍が山鹿に入ったのは、二月二十五日のことであった。三月二十日に田原坂が陥ち、薩軍が撤退するまでの二十四日間、薩軍はここ(当時は梅の井旅館)に本陣を置いた。桐野利秋は戦いの前半ここに滞在していた。三月二十一日には官軍が山鹿に入り、本営をそのまま当地に置いた。
 宮崎滔天の「熊本協同隊」によれば、山鹿の人たちが薩軍を歓迎した様子を描いている。薩軍が山鹿を制圧していた間、この地で我が国最初の民権政治(普通選挙による人民総代の選出)が行われた。しかし、この試みも、薩軍と熊本協同隊の撤退と同時に崩壊した。

 山鹿市街地の史跡は、朝七時前から自力で回った。山鹿口戦蹟顕彰会のK氏、E氏とは当日朝九時に博物館で待ち合わせしたが、それまでに市街地と万行寺(上吉田)、正円寺(津留)、日輪寺、山鹿稲荷神社(杉)を回った。

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山鹿 鍋田 Ⅱ

2016年04月17日 | 熊本県
(山鹿市立博物館つづき)

 やはり博物館の前に江戸時代の民家が移設されている。この民家は、天保十一年(1840)に建築され、昭和五十四年(1979)に現在地に移設されたものである。故松永荘作氏の保有していたもので、後述するように官軍は松永邸に台場を築いて薩軍に応戦したため、この家にも貫通した弾痕が残ることになった。自力で弾痕が確認できなかったので、改めてK氏、E氏に案内していただき、確認することができた。


江戸時代の民家(松永邸)


弾痕


西南之役
薩軍村田三介戦死之地

 博物館脇の道をオブサン古墳方面に北上すると、右手に村田三助戦死之地の巨大な石碑がある。
 村田三介は、弘化二年(1845)、薩摩藩士枝次彦衛の第三子として鹿児島後迫に生まれた。幼時に村田平右衛門の嗣となりその姓を継ぎ、島津氏に仕えて近習番となった。戊辰戦争では砲兵分隊長として、奥羽の山野を転戦して戦功を挙げたため、若くして砲兵教佐となり、明治五年(1872)には二十七歳の若さで少佐に昇進した。しかし、明治六年(1873)には西郷隆盛の下野に従い職を辞して鹿児島に帰った。明治十年(1877)の西南の役では、五番大隊二番小隊長として熊本に向い、二月二十二日の植木の戦闘において、乃木少佐の率いる官軍を破って、小倉第十四連隊の軍旗を纂奪した。その後、四番大隊長桐野利秋の旗下に入って山鹿口の戦場に向かった。村田三介は鍋田台地における最も重要な拠点を守った。三月十二日の激戦で味方の先頭に立って敵陣を襲うべく、低地を流れる小谷川(花川)を渡ろうとしたところ、敵兵の狙撃にあって戦死を遂げた。その前夜、三介は兵士の禁酒を解いて部下と大いに飲み、宴たけなわに達すると筆をとって、蘇東坡の次の辞言を書き付けた。その時既に三介は死を決していたのかもしれない。

 男児貫心肝 忠義徹骨髄
 直須可談笑 於死生之間

 さらに宮崎八郎の「男子志を立てて」の詩を声高らかに朗詠した。一同はこれを聞いて深く感銘し、ともに死を誓いあったという。
 西南戦争の挙兵前夜、私学校では幹部を集めて今後の方針が議論された。村田三介は、西郷、桐野、篠原の三将に少数の兵をつけて上京して、詰問すべきと主張した。直情型の猛将が多い薩軍にあって、戦略・戦術眼に長けた知将でもあった。

 村田三介戦死の地からほど近いところにオブサン古墳がある。K氏は、山鹿は歴史好きには堪らない魅力のある街だと説く。古くは古墳時代の遺跡から始まり、源平時代、戦国時代それぞれの歴史が刻まれている。確かに、山鹿には古墳群が点在しており、県立装飾古墳館なども開設されている。


オブサン古墳


閉塞石

 西南戦争では、山鹿の高所に位置するオブサン古墳は、官軍の陣地として利用された。この時、石室内の閉塞石をはじめとする多数の石材等が運び出され、前庭部には掩体(身を守るための防御壁)が構築された。そのため石室内の破壊が進んだ。保存されている閉塞石には、当時の弾痕が生々しく残っている。

(岩間間道)


西南の役 岩間間道

 村田三介戦死の地の手前を横切る道は、岩間間道といって、城、大原、唐木谷から岩(和水)方面に抜ける道路で、山鹿口の戦いでは山鹿と南関を結ぶ重要な経路であった。ここでも官薩両軍による激しい攻防戦が展開された。特に三月三日から四日にかけて、南関の官軍を襲わんとして総攻撃をしかけた薩軍と、これを迎え撃つ官軍との戦闘は、岩間間道における最大の激戦となった。


史跡西南之役岩間間道

 村田三介戦死之地から数百メートル西へ行ったところに、岩間間道の石碑がある。側面には解説が刻まれているが、炭が流れてしまって読みにくい。

(年の神墓地)
 年の神墓地(通称坊主山)は、飫肥隊が死力を尽くして戦った戦地である。飫肥隊はこの墓地の墓石を楯にして戦ったと伝えられる。古い墓石には、当時の弾痕が刻まれている。その墓石の数およそ百四十というから、弾痕が飛び交った密度が想像できる。現在、樹木が視界を遮り対峙した官軍の陣地を臨むことはできない。


史跡西南之役薩軍飫肥隊奮戦之地


弾痕の残る墓石

 飫肥隊の総裁は伊東直記。出陣の際は三箇小隊編成であったが、山鹿で四箇小隊に編成変えをしている。

(松永邸)


西南の役 官軍台場跡

 官軍は、松永邸を陣地として年の神墓地の飫肥隊と対峙した。今もここには、松永荘作氏の末裔の方がお住まいであり、しかも進入した途端に犬が凄まじい勢いで吠え掛かるので、とてもでないが、一般人が単独でここを訪れることは困難である。今回、K氏、E氏のご案内により、行き着くことができた。なお、弾痕の残る旧松永邸は市立博物館前に移設されている。
 故松永荘作氏が、祖父から聞き伝えた話によれば「立木はほとんどなぎ倒され、家具・家財には弾丸が打ち込まれ、その恐ろしさに身も震えた」という。

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