(菊池神社)
菊池神社
田原坂、山鹿口における戦闘に敗れた薩軍は、三月二十四日、隈府(現・菊池市)まで後退してここでの守備を決めた。中町に本陣を置き、菊池本城跡や羽手ノ木、赤星口、花房、高塚袈裟、尾原西郷坂、米原、玉祥寺などに陣を敷き、薩隊や熊本協同隊、貴島隊等が守った。四月十日早朝、大津方面に撤退するまで、戦いは熾烈を極め、多くの戦死者を出した。
教育勅語記念碑
(菊池公園)
頼山陽歌碑
菊池公園には文学碑や顕彰碑などが数多く建てられている。頼山陽の歌碑は、筑後川を下った折、南北朝時代に十五代菊池武光が征西将軍懐良親王を奉じ、筑後川で武家方と戦い、勝利を治め九州を平定した情景を漢詩にしたものである。
菊池公園内に官軍墓地がある。菊池方面における官軍戦死者数は三十八名。これに対し、薩軍戦死者は三百名近くになったという。官軍戦死者は、菊池公園内の官軍墓地に葬られたが、薩軍戦死者は渕園墓地の楠の木を墓標として埋葬されたという。
官軍墓地
(西覚寺)
薩軍は、西覚寺を陣地本営とした。門前に「西覚寺本陣跡」と記された石碑が置かれている。また、薩軍は、中町の盆屋や音光寺、広現寺、民家等を宿営所に当てた。
西覚寺
西南ノ役西覚寺本陣跡
(西照寺)
西照寺
薩軍は、西照寺を野戦病院とした。
(西郷公民館)
菊池市の西郷は、西郷隆盛の祖先発祥の地である。ここは、菊池十八外城の一つ、増永城址で、初代城主西郷太郎政隆は、菊池氏初代則隆の子で菊池一族であった。その後裔二十六代西郷九兵衛昌隆のとき、薩摩に移り住んだという記録があり、西郷隆盛は初代から数えて三十二代目となる。
西郷は奄美大島に流罪となった際、「菊池源吾」と名乗ったが、菊池氏との縁に所以したものであった。
西郷南洲先生先祖発祥の地
西郷公民館に建立されている西郷南洲先生先祖発祥之地碑は、昭和二十七年(1952)、徳富蘇峰の筆によるもの。
増永城跡
(渕園団地)
西南の役菊池の戦い・薩軍碑
渕園団地に「西南の役菊池の戦い・薩軍碑」が建てられている。この石碑の近くに「史文」と題した碑が置かれており、菊池における戦闘経緯が述べられている。
(辺田天満宮)
辺田天満宮
辺田天満宮には西南戦争の絵馬が掲げられている。中央に総督有栖川宮。それを取り囲むように十人の官軍幹部の姿が描かれている。
西南戦争絵馬