史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

山鹿 鍋田 Ⅰ

2016年04月17日 | 熊本県
(車坂)
 手元に「西南の役山鹿口の戦蹟探訪」と題する小冊子がある。発行は西南の役山鹿口戦蹟顕彰会。紙数にして数枚というものであるが、山鹿の西南戦争関係史跡を網羅して不足がない。いつかこれを基に山鹿の史跡を訪ねたいという想いをずっと抱いていた。この小冊子が発行されたのが、平成十一年(1999)のことで、私がこれを入手して既に十七年という歳月が経過している。
 当時鹿児島県大口市(現・伊佐市)に勤務していたが、私の西南戦争好きを知った山鹿市出身の部下の女性が、帰省の折、この小冊子を入手して土産代わりにくれたのである。
 地図は添付されているものの、これでは正確な位置は分からない。そこで事前に山鹿市立博物館に連絡を入れ、当日のガイドを依頼したところ、西南の役山鹿口戦跡顕彰会の事務局長E氏を紹介された。連絡を取り合い、当日の朝、市立博物館で落ち合うことになった。当日は、E氏のほか、元山鹿市長(顕彰会顧問)のK氏まで同伴いただき、山鹿の西南戦争関連史跡を隅から隅までご案内いただいた。
 山鹿の史跡は、いずれも分かりにくい場所が多く、とても自力では探し当てるのは難しい。ご両氏のガイドなくして成立しない史跡探訪であった。感謝してもし切れないほどである。


史跡西南の役鍋田戦跡(車坂)


西南の役政府軍の台場跡

 車坂の戦跡碑から坂を昇った中腹に政府軍の台場跡を示す碑がある。表面は変色しているが、辛うじて文字を読み取ることができる。官軍はこの辺りの斜面を利用して薩軍に対して猛射した。街道から入った斜面には、塹壕の跡などが残っているそうだが、とても足を踏み入れられる状態ではなかった。


豊前街道

(鍋田)


史跡西南の役協同隊長平川惟一戦死の地

山鹿の合戦のうち、最激戦区は山鹿の西、鍋田近辺の車坂であった。この地で熊本協同隊隊長平川惟一が戦死している。わずか二十九歳であった。民権を主張した熊本協同隊では、隊長も選挙で選出された。平川は若年ながら人望が厚かった。
平川惟一の戦死の碑の立っている場所は、初代山鹿市長古閑一夫宅の前である。この石碑の背後には、古閑一夫氏の事績を顕彰した石碑も置かれている。また平川惟一戦死碑の台座には、この石碑の建立に貢献した関係者の名前が刻まれている。当時県会議員であった古賀一夫氏らの名前に交じって、同行案内していただいたK氏の名前もある。地域の皆さんの篤志によって史跡が保存維持されていることを実感して感動した。

(山鹿市立博物館)
 山鹿の史跡を巡るには、まず市立博物館を起点にするのが良いだろう。博物館前には、戦没者慰霊碑や飫肥隊慰霊歌碑、西南戦争錦絵、弾痕の碑など、関連史跡が密集している。

 まず目を引くのが西南の役戦歿者慰霊碑とその周囲に建てられた戦没者名を刻んだ記名碑である。山鹿市では、昭和五十五年(1980)から官薩両軍の所縁の人を集めて、毎年この碑の前で慰霊祭を執り行っている。K氏によれば、戦没者名簿については、この地方の官軍墓地を調、山鹿口の戦没者を抽出したという。さらに大分護国神社横の官軍墓地や久留米市の山川招魂社墓地などから名簿を収集した。残念ながら、官軍側と比べて薩軍の戦没者情報が十分集まっておらず、今も追刻中という。関係者の執念と御尽力に頭が下がる想いである。


西南の役
戦没者慰霊碑


飫肥隊慰霊の歌碑

 山鹿口において奮戦したのが飫肥隊である。博物館前に飫肥隊慰霊歌碑が建てられている。側面に刻まれた日南市郷土史会長門川武志氏の歌。

 熱血の心偲ばる飫肥隊士
  御霊安かれ 世紀見守りて


西南の役錦絵

 錦絵は山鹿口の戦闘を描いたものである。桐野利秋や野津道貫といったスターに交じって、戦闘に参加した相撲取りの姿も描かれている。薩軍が相撲取りを従軍させたとの伝聞に基づいたものである。相撲取りは怪力にものいわせて三枚重ねの畳を楯代わりに奮戦したといわれる。


西南之役山鹿口之激戦碑

 平成十年(1998)に西南戦争百二十年を記念して建立された吟詠詩碑で、伊藤秀峰氏の詩吟と、桐野利秋、三浦梧楼の肖像を刻んだものである。


山鹿口・弾痕の碑

 山鹿には激戦を物語る多くの弾痕が残されている。鍋田周辺だけでも、オブサン古墳の閉塞石、年の神墓地などで多くの弾痕が確認されており、それを記念して平成二年(1990)に建てられた碑である。日本全国の史跡石碑を訪ねて来たが、向う側が透けて見える碑を見たのは初めてであった。

コメント
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