史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

芝公園 Ⅳ

2016年05月21日 | 東京都
(日本女子会館)


和宮像

 「銅像歴史散歩」(墨威宏著 ちくま新書)によれば、芝の日本女子会館に和宮像があるという。事前に日本女子会館に連絡をしておけば、見学させてもらえる。昼休みに日本女子会館まで往復して、和宮像を拝見してきた。
 この和宮像は、神戸の篤志家で、県会議員なども務めた中村直吉氏が、日本女子会館の創立時に寄贈したものである。日本で最初の宿泊を伴う女子の研修施設として日本女子会館が建てられたのは戦前昭和十二年(1937)のことであるが、その後昭和四十九年(1974)に現在の建物に建て替えられた。その際に和宮像は移設され、現在も事務所に置かれている。
 中村直吉氏は二宮尊徳を尊崇しており、神戸周辺で三十体以上もの二宮尊徳像を寄付したという。和宮像も「日本女性の鑑」として数体が作成され、そのうちの一つが日本女子会館に寄贈されたということらしい。

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新宿 Ⅳ

2016年05月21日 | 東京都
(花園神社)


花園神社

 新宿区新宿5‐17‐3の花園神社は、江戸時代以前からあったという記録が残っているが、寛政年間(1624~1644)に尾張藩下屋敷の庭の一部であった現在地に遷座した。庭にはたくさんの花が咲き乱れており、このため花園神社と呼ばれるようになったといわれる。

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上野 Ⅷ

2016年05月21日 | 東京都
(水月ホテル鴎外荘)


森鴎外居住之跡

 森鴎外は、明治二十二年(1889)、時の海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの場所に移り住んだ。屋敷は今もこのホテルの中庭に残されている。この頃、鴎外は「於母影(おもかげ)」を発表し、文学評論「しがらみ草子」を創刊、さらに「舞姫」を「国民之友」に発表するなど充実した文学活動を展開していた。一方、軍医としては陸軍二等軍医正に就任し、陸軍軍医学校教官としても活躍するなど充実した時期を迎えていた。しかし、私生活では長男於菟(おと)が生まれた直後、登志子と離婚し、明治二十三年(1890)、千駄木に転居した。
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浅草 Ⅴ

2016年05月21日 | 東京都
(願流寺)


願流寺

 願流寺には柳河春三(しゅんさん)の墓がある(台東区西浅草1‐2‐16)。墓碑は宇都宮三郎の書。


柳河春蔭先生之墓

 柳河春三は天保三年(1832)、尾張国名古屋に生まれた。墓に刻まれている春蔭は諱。ほかに朝陽、暾とも。蘭学を伊藤圭介、上田帯刀に学び、医を業とし、安政五年(1858)、和歌山藩寄合医師。英仏語にも通じ、元治元年(1864)、開成所教授となり、国学、和歌書の分野にも造詣が深かった。文久三年(1863)から開成所の洋学者たちが、横浜の英字新聞を「日本貿易新聞」「日本新聞」などの題下に翻訳して、当路者の参考に供し、のちにはその控本を回覧する会訳社も組織されたが、この仕事の中心になったのが柳河春三であった。慶応三年(1867)創刊の「西洋雑誌」は日本における最初の雑誌であり、翌年発刊された「中外新聞」は日本人の手になる純日本新聞の嚆矢であった。明治二年(1869)、新政府により大学少博士に任じられたが、まもなく免職となった。つとに仮名文字論者でもあり、洋学者たちとの交流範囲の広さとともに多芸多才の人であった。明治三年(1870)、年三十九にて死去。

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永田町

2016年05月21日 | 東京都
(参議院議長公邸)


華族女學校遺蹟碑

 参議院議長公邸の門前に華族女学校遺跡碑が建てられている(千代田区永田町2‐18‐2)。
 華族女学校は、現・学習院中、高等科の前身で、明治二十二年(1889)から大正七年(1918)に青山に移転するまでこの地にあった。女子学習院が現在の牛込戸山に移転したのは第二次世界大戦後のことである。

(衆議員議長公邸)


東京女学館発祥の地

 明治十九年(1886)、当時あまり顧みられることがなかった女子高等教育の必要性を痛感した内閣総理大臣伊藤博文が創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会」がつくられた。創立委員には、伊藤博文のほか、渋澤栄一、岩崎彌之助、外山正一ら、当時の政財官界の有力者によって構成されていた。その翌年、北白川能久親王を会長に戴き、女子教育奨励会が発足した。明治二十一年(1888)、同会が「諸外国の人々と対等に交際できる国際性を備えた、知性豊かな気品ある女性の育成」を目指して永田町御用邸雲州屋敷に設立したのが東京女学館である(千代田区永田町2‐18‐1)。現在、衆議員議長公邸があるこの場所は、当時雲州屋敷(越前松平系の旧松平出羽守邸。のちに閑院宮邸)であった。その後、虎ノ門、さらに現在地の広尾に移転した。

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