(佐貫城跡)
佐貫城跡
佐貫城の築城は室町時代にまで遡る。江戸時代に入って、内藤氏が二代にわたって城主となり、その跡を松平氏が継いだが一時廃城となった。その後、元禄年間、五代将軍綱吉の寵愛を受けた柳澤保明(吉保)氏が加増されて城主となった。吉保の転封後、再び廃城となった。宝永七年(1710)、三河刈谷より阿部正鎮が一万六千石で移り、以降、正興、正賀、正實、正簡、正、正身、正恒と続き、維新を迎えた。戊辰戦争に際し、内紛があり、態度決定に時間を要した。最終的には勤王に落ち着いたが、新政府より疑意を持たれることになった。
(安楽寺)
安楽寺
開闡院一乗日松居士(相場助右衛門墓)
演寶院妙義日相大姉(妻 寿美子)
安楽寺に佐貫藩士相場勘右衛門の墓と慰霊碑がある。
相場助右衛門は、文武両道の達人といわれる。文を大槻磐渓に、剣術を斎藤弥九郎の門下で、神道無念流の免許皆伝を得た。佐貫藩主阿部正身、正恒の二代にわたって家老として仕え、特に正身の信任が厚かった。藩主正恒が大坂城御加番を命じられたとき、側用人として随行。在坂中に天下の大勢を知った正恒は、助右衛門の意見を容れて、尊王に傾いた。しかし、このことが引き金となって、慶応四年(1868)四月二十八日、佐貫城大手門にて佐幕派三十二人の襲撃を受け、最期を遂げた。相場家は一家断絶、家族追放という悲劇に見舞われ、妻寿美子は後始末をして二年後に自害して果てた。墓石の背後に慰霊碑が建てられている。
安楽寺は、西南戦争で戦死した佐貫出身の巡査八森良輔の菩提寺でもある。八森良輔の墓が残っていないか探してみたが、見つけることはできなかった。
(飯野神社)
飯野神社
飯野陣屋跡
飯野陣屋は、初代藩主保科弾正忠正貞が、慶安元年(1648)に築造したもので、明治維新に至るまで、十代にわたって藩主の居所として利用された。正貞は、信州高遠上州保科正直の三男で、会津藩は本家に当たる。弘化四年()から嘉永六年(1853)まで会津藩が房総沿岸警備を命じられた際には、名代となって従事している。歴代藩主は、大坂定番、加番や江戸城門番等を務めることが多く、陣屋には代官を置いていた。禄高二万石のうち、飯野周辺は約三千石で、残りは関西地方にあった。
現在、陣屋中心部には飯野神社が鎮座している。往時は約四万坪、陣屋内に本丸、二の丸、三の丸を備えた堂々たる陣屋で「三大陣屋」の一つと称される(残る二つがどこか不明ながら、現存しているのは、飯野陣屋のみだそうな)。周囲を巡る濠は、幅五メートル、底部がV字形の薬研堀で、部分的に往時の姿を留めている。
のちほど調べたところ、三大陣屋とは上総飯野のほか、周防徳山と敦賀のことを指すそうである。
飯野陣屋濠
戊辰戦争に際して、飯野藩も藩論を勤王に統一したが、藩内佐幕派との確執があって手間取った。そのため新政府から疑惑の目で見られることになった。
佐貫城跡
佐貫城の築城は室町時代にまで遡る。江戸時代に入って、内藤氏が二代にわたって城主となり、その跡を松平氏が継いだが一時廃城となった。その後、元禄年間、五代将軍綱吉の寵愛を受けた柳澤保明(吉保)氏が加増されて城主となった。吉保の転封後、再び廃城となった。宝永七年(1710)、三河刈谷より阿部正鎮が一万六千石で移り、以降、正興、正賀、正實、正簡、正、正身、正恒と続き、維新を迎えた。戊辰戦争に際し、内紛があり、態度決定に時間を要した。最終的には勤王に落ち着いたが、新政府より疑意を持たれることになった。
(安楽寺)
安楽寺
開闡院一乗日松居士(相場助右衛門墓)
演寶院妙義日相大姉(妻 寿美子)
安楽寺に佐貫藩士相場勘右衛門の墓と慰霊碑がある。
相場助右衛門は、文武両道の達人といわれる。文を大槻磐渓に、剣術を斎藤弥九郎の門下で、神道無念流の免許皆伝を得た。佐貫藩主阿部正身、正恒の二代にわたって家老として仕え、特に正身の信任が厚かった。藩主正恒が大坂城御加番を命じられたとき、側用人として随行。在坂中に天下の大勢を知った正恒は、助右衛門の意見を容れて、尊王に傾いた。しかし、このことが引き金となって、慶応四年(1868)四月二十八日、佐貫城大手門にて佐幕派三十二人の襲撃を受け、最期を遂げた。相場家は一家断絶、家族追放という悲劇に見舞われ、妻寿美子は後始末をして二年後に自害して果てた。墓石の背後に慰霊碑が建てられている。
安楽寺は、西南戦争で戦死した佐貫出身の巡査八森良輔の菩提寺でもある。八森良輔の墓が残っていないか探してみたが、見つけることはできなかった。
(飯野神社)
飯野神社
飯野陣屋跡
飯野陣屋は、初代藩主保科弾正忠正貞が、慶安元年(1648)に築造したもので、明治維新に至るまで、十代にわたって藩主の居所として利用された。正貞は、信州高遠上州保科正直の三男で、会津藩は本家に当たる。弘化四年()から嘉永六年(1853)まで会津藩が房総沿岸警備を命じられた際には、名代となって従事している。歴代藩主は、大坂定番、加番や江戸城門番等を務めることが多く、陣屋には代官を置いていた。禄高二万石のうち、飯野周辺は約三千石で、残りは関西地方にあった。
現在、陣屋中心部には飯野神社が鎮座している。往時は約四万坪、陣屋内に本丸、二の丸、三の丸を備えた堂々たる陣屋で「三大陣屋」の一つと称される(残る二つがどこか不明ながら、現存しているのは、飯野陣屋のみだそうな)。周囲を巡る濠は、幅五メートル、底部がV字形の薬研堀で、部分的に往時の姿を留めている。
のちほど調べたところ、三大陣屋とは上総飯野のほか、周防徳山と敦賀のことを指すそうである。
飯野陣屋濠
戊辰戦争に際して、飯野藩も藩論を勤王に統一したが、藩内佐幕派との確執があって手間取った。そのため新政府から疑惑の目で見られることになった。