(宝塔寺)
宝塔寺
文久三年(1863)八月の禁門の変の際、御所付近における戦闘が始まる数時間前、深草周辺で武力衝突があった。当時、伏見街道守備の任にあたっていた大垣藩は、伏見に駐屯していた長州藩兵が夜半に進軍するとの報に接し、宝塔寺に一隊を集めた。八月十九日の午前一時頃、伏見街道を北上する長州藩福原越後隊は、大垣藩兵と遭遇した。会津、桑名、彦根藩からも応援が駆け付け、隊長福原越後が被弾落馬したこともあり、長州藩兵は入洛を果たせず伏見藩邸に引き返した。
亡洋山本先生之墓
宝塔寺墓地には、本草学者山本亡洋を産んだ山本家の墓地や、大丸創業者下村家の墓地、孝明天皇の侍医をつとめた伊良子家の墓などがある。
宝塔寺
文久三年(1863)八月の禁門の変の際、御所付近における戦闘が始まる数時間前、深草周辺で武力衝突があった。当時、伏見街道守備の任にあたっていた大垣藩は、伏見に駐屯していた長州藩兵が夜半に進軍するとの報に接し、宝塔寺に一隊を集めた。八月十九日の午前一時頃、伏見街道を北上する長州藩福原越後隊は、大垣藩兵と遭遇した。会津、桑名、彦根藩からも応援が駆け付け、隊長福原越後が被弾落馬したこともあり、長州藩兵は入洛を果たせず伏見藩邸に引き返した。
亡洋山本先生之墓
宝塔寺墓地には、本草学者山本亡洋を産んだ山本家の墓地や、大丸創業者下村家の墓地、孝明天皇の侍医をつとめた伊良子家の墓などがある。