史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

伏見 Ⅷ

2016年05月07日 | 京都府
(宝塔寺)


宝塔寺

 文久三年(1863)八月の禁門の変の際、御所付近における戦闘が始まる数時間前、深草周辺で武力衝突があった。当時、伏見街道守備の任にあたっていた大垣藩は、伏見に駐屯していた長州藩兵が夜半に進軍するとの報に接し、宝塔寺に一隊を集めた。八月十九日の午前一時頃、伏見街道を北上する長州藩福原越後隊は、大垣藩兵と遭遇した。会津、桑名、彦根藩からも応援が駆け付け、隊長福原越後が被弾落馬したこともあり、長州藩兵は入洛を果たせず伏見藩邸に引き返した。


亡洋山本先生之墓

 宝塔寺墓地には、本草学者山本亡洋を産んだ山本家の墓地や、大丸創業者下村家の墓地、孝明天皇の侍医をつとめた伊良子家の墓などがある。

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五条西洞院

2016年05月07日 | 京都府
(山本亡洋讀書室舊蹟)


山本亡洋讀書室舊蹟

 山本亡洋(1778~1859)は、本草学者で薬草園を備えた読書室を開いて門弟の指導にあたったという人物である。平成二十六年(2014)二月、この読書室から大量の史料が発見され、注目を集めた。中には、戊辰戦争の際、江戸総攻撃の延期を求めた皇女和宮の哀訴状や、最後の将軍、徳川慶喜の同様の哀訴状なども含まれている。いずれも筆跡や包み紙の記述から直筆のものであることが確認されている。岩倉具視が西南戦争で使った暗号表も発見されている。当時、東京にいた岩倉は、電報や暗号表を使って、九州の戦地や大阪の大久保利通から情報を集めていた。その秘密通信文六十一通も見つかっている(徳川宗英著「徳川家が見た幕末の怪」より)。

(下京図書館)


明治天皇行幸之地

 新町通り松原を下った下京図書館は、かつて修徳小学校があった場所で、そう言われてみると何となく小学校らしい雰囲気が残る。この場所には、明治二年(1869)には町会所を兼ねた我が国最初の町組立下京第一四番組小学校が設立された。明治七年(1874)に修徳小学校と改称されている。明治十年(1877)には明治天皇が臨幸され、そのことを記念した石碑が建てられている。

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