史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「司馬遼太郎に日本人を学ぶ」 森史朗著 文春新書

2016年05月06日 | 書評
今年は司馬遼太郎先生の没後二十年となる。「司馬遼太郎、急死」の報に触れた日のことは、昨日のことのように覚えているが、あれからもう二十年が経ったのかというのが実感である。それにしても、没後二十年を経て、未だに人気が高く、関連本が次々と出版される作家は、司馬遼太郎をおいていない。
筆者は、長年司馬遼太郎の担当編集者として近しく接した方で、この本でも数多くの裏話を披露している。
この本は、若い世代から「司馬さんの作品を何から読めばいいのか」という問いへの答え、つまり「膨大な作品の山をきりくずす、一つの方法を提示しよう」というのが執筆の動機となっている。言わば「作品ガイド」というわけである。
 本書では「燃えよ剣」「竜馬がゆく」「最後の将軍」「世に棲む日日」「翔ぶが如く」を紹介する。この選考、順番に特に異論はないが、個人的に残念なのは傑作「胡蝶の夢」「北斗の人」が入っていないこと。まったく言及がないのは少々不満である。とにかく司馬作品はどれを読んでも面白い。つべこべ言わずにそれでも良いから読むことをお勧めしたい。
さて、本書後半では司馬遼太郎先生が何故ノモンハン事件の執筆を断念したのか、何故昭和の戦争のことを書かなかったのかを解説している。司馬遼太郎先生は生前ノモンハン事件について「書いたら死んでしまう」と話していたという。同じようなことを「ノモンハン」を週刊文春史上に連載した五味川純平は「あまりに愚劣な戦闘」「いったいどれだけの兵士が死んでいったのか」「ところが作戦を強行した参謀たちは生き残り、処断されてもそれは形式だけで、また返り咲く」「こんな破廉恥な奴らがいるのか、と思うと、腹が立つし夜も眠られない」と語ったという。恐らく司馬先生も同じ想いだっただろう。
司馬先生が「ノモンハンや太平洋戦争を書いた小説を読み、その時代の日本を読者として受け止めてみたかった」とは、司馬先生の知人である元筑波大学教授青木彰元の言である。
しかし、ノモンハン事件や太平洋戦争を題材とした小説は、読者が求めているような「痛快で感動的な」作品には成りえないだろう。私は司馬先生が書かなかった方が良かったような気がしている。
実は最近枕元に「この国のかたち」を置いて、睡眠の前に少しずつ読んでいる。司馬先生はこの本で繰り返し昭和の軍閥の愚行、統帥権の問題を説いている。司馬先生の主張はこの本を読めば良く分かる。これで十分ではないか。

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「豊前幕末傑人列伝」 三浦尚司著 海鳥社

2016年05月06日 | 書評
豊前というのは、現在の地名でいうと福岡県北九州市の一部(小倉辺り)から行橋市、みやこ町、豊前市、さらに大分県の中津市や宇佐市まで広がる地域である。さして広いともいえないこの地域から幕末傑人が巣立っていった背景には、蔵春園という私塾が大きな役割を果たした。蔵春園は、文政七年(1824)、恒遠醒窓によって上毛郡薬師寺村(現・豊前市)に開設された漢学塾で、醒窓の死後、その子精斎が継承し、明治二十八年(1895)までの七十年以上にわたって多くの人材を輩出した。本書で紹介されている人物は、いずれも多かれ少なかれ蔵春園で薫陶を受けた者である。
筆頭に紹介されている白石廉作は、有名な白石正一郎の弟である。奇兵隊に属していたが、文久三年(1863)、河上弥市らとともに生野に走って挙兵。こと破れて自刃したという人物である。また、同じ長州人では、海防僧として知られる月性も蔵春園に学んでいる。
本書では、ほかにも農政の振興に業績を挙げた曽木墨荘、巨万の富を惜しげもなく学校や病院の建設など社会事業に投じた豪商小今井潤治、矢方池築造に命をかけた高橋庄蔵ら、蔵春園における教育を受け、社会に貢献した人物に触れている。彼らの私財をなげうってでも社会に貢献しようという事績や情熱を通して、蔵春園における教育がどういうものだったかを伺い知ることができよう。恒遠醒窓は、若い頃、広瀬淡窓の咸宜園で学んでいる。咸宜園も、大村益次郎や高野長英、上野彦馬、長三州、清浦圭吾などの個性を生んだ。醒窓も当然咸宜園における教育の影響を強く受けた。咸宜園から蔵春園に至る系譜から、多くの人材が育ったことを見ると、改めて教育の重要性を痛感する。著者は「多くの知識を吸収することを最優先する考え方よりも、人間教育に重きを置いた私塾の思想を現在の社会によみがえらせる必要がある」と説く。そのことに全く異存はないが、私塾で行われていた教育とはどんなものだろうか。

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「銅像歴史散歩」 墨威宏著 ちくま新書

2016年05月06日 | 書評
本書の帯に書かれた解説によれば
「明治期に欧米から入ってきた「銅像」文化は日本人に合っていたらしく、日本風にアレンジされて各地に次々に建てられていった。明治期後半には偉人の像、昭和初期には全国の小学校に二宮金次郎像、近年はアニメのキャラクター像なども立ち、第三次ブームと呼べるほど増え続けている。それぞれの銅像の背負っているものを掘り下げていくと、日本の近代史が見えてくる。」
子供の頃に両親を亡くし、貧しい中で働きながら勉学に励んだ、二宮金次郎の少年時代の逸話が、明治期から終戦まで小学校の修身の国定教科書に載っていた。時代の要請にあっていたのだろう。薪を背負って歩きながら本を読む「負薪読書」像は、あっという間に全国に広がった。
ところが、戦争の影が忍び寄るにつれて、全国の小学校に立っていた二宮金次郎像が次々を消えて行った。銅像は敵を討つための大砲の弾となるため、続々と「出征」したのである。戦後再建された銅像もあるが、今も台座だけが残る例も少なくない。戦時に銅像を鋳潰して銃弾に作り替えるという行為は、日本だけで行われたことなのだろうか。
我が国の草創期の銅像を語るとき、高村光雲は欠かせない存在である。東京の三大銅像のうち、皇居外苑の楠木正成像、上野恩賜公園の西郷隆盛像はいずれも光雲の手による。残る一体は靖国神社の大村益次郎像で、こちらは大熊氏広作である。
高村光雲は、息子の高村光太郎に「なかなか見込みのある」事業として銅像会社の設立を持ちかけたという。このころ各地に続々と銅像が建てられていた。昭和三年(1928)発刊の「銅像写真集 偉人の俤」には六百体を超える銅像が掲載されている。西郷像から数えて三十年ほどの間に驚異的なスピードで銅像が増えて行ったことを物語っている。光雲の提案もあながち荒唐無稽な話でもなかったのである。
本書によれば、大河ドラマの放送を機に建てられる銅像も意外と多いという。東京文京区の春日局像は平成元年(1989)の放映された「春日局」を記念して建立されたものというし、平成二十四年(2012)の「平清盛」放送に合わせ、神戸市兵庫区の平野商店街に若き日の平清盛像がお目見えした。
幕末人でいえば、鹿児島に篤姫像、会津若松城に山本八重像、萩に久坂玄瑞像、防府市に楫取素彦像が建てられたという。私は別に銅像マニアというわけではないが、新たに銅像ができたと聞くと、何故だか見に行きたくてウズウズしてしまう。こうして見て回った銅像(石像・木像・陶像なども含む)の数は、数えたわけではないが、多分三百や四百ではきかないはずである。ヒマなときに一度数えてみないといけませんね。
著者はいう。「大河ドラマが変わるたびに銅像は増える。ただし「去年の大河ドラマって何だったっけ?」と聞かれて即答できるのはかなりのフアンだろう。放送が終われば、ドラマは忘れられ、銅像は残る。」と冷静に解説する。確かに銅像を建てるときは、委員会が結成され、多方面から寄附が集められ、華々しく除幕式が開催される。しかし、ひとたび銅像が建立されてしまうと、日々その存在は忘れられる。何故そこに像が立っているのか、そもそも誰なのかすら知る人もいなくなってしまう。手入れもされず、周囲は雑草だらけという銅像も多い。そういう姿を見ると、ちょっと悲しくなってしまう。
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「横浜外国人墓地に眠る人々」 斎藤多喜夫著 有隣堂

2016年05月06日 | 書評
幕末の日本には、開国と同時に多くの外国人が訪れた。東洋の神秘の国を自分の眼で見てみたいという好奇心旺盛な若者もいたであろう。最後のフロンティアで一攫千金を夢みた山師的な商人もいたと思う。忘れてはいけないのは、この時期の日本というのは、極めて排他的で外国人にとっては危険な国であった。何も悪いことをしていなくても、外国人だというだけで殺傷される物騒な国である。そんな国に身を投じようというのだから、彼らは多かれ少なかれ冒険家の資質を有していたと思われる。実際に凶刃の犠牲となった人たち(生麦事件のリチャードソンや井土ヶ谷事件のカミュら)も外国人墓地に眠っている。
日本に駐在した外国人は、横浜や長崎、神戸、大阪などで居留地を形成し、そこでの生活を強いられた。やがて異国の地で人生を終える者も出てきて、外国人向けの墓地は拡大していった。ここに眠る人たちは、激動の時代を生き、未開の国日本の発展に尽くした、ユニークな外国人が多い。実に四千人を超える外国人が葬られているが、本書では、そのうち百名余が紹介されている。それぞれ「外国人殺傷事件の犠牲となった人々」「外交や国際親善に尽くした人々」「伝道と教育に生涯を捧げた人々」「日本の近代化に貢献した人々」「居留地の貿易と産業を担った人々」「居留地社会を支えた人々」「情報や文化の伝達に寄与した人々」「不慮の死を遂げた人々」「外国人墓地の管理運営に携わった人々」「根岸の丘に眠る人々」に分類して、そのユニークな生涯を紹介している。この本を片手にまた外国人墓地を歩いてみたくなった。

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「幕末戦記 蛤御門の変」 三木敏正著 海文舎印刷

2016年05月06日 | 書評
著者は京都市伏見区深草在住の方で、恐らく自費出版に近い形で本書も刊行されたものと思われる。百ページにも満たない小冊子であるが、うち二十ページが年表に費やされており、本文は八十ページにも満たず、自ずと内容の薄いものになっている。第一部は「禁門の変」、第二部は「伏見深草一本松の戦い」が記述される。ページ数でいえば、第一部が五十ページ以上を占め、第二部は十二ページほどに過ぎない。ただし、本書で本来著者が世に問いたかったのは「話題になることも少ない」「あまり知られていない」深草一本松の戦いのことなのではないだろうか。とすれば、あまりにバランスが悪い印象を受けた。前段の年表は不要なので、もっと深草一本松の戦いについて詳述しても良かったのではなかろうか。
深草というのは有名な伏見稲荷の近く、ちょうど宝塔寺のある周辺である。禁門の変の前夜、この場所で長州藩の福原越後の率いる一隊が、大垣藩兵らと衝突した。福原越後は敵弾を受けて落馬し、これを契機として長州藩軍は敗退を余儀なくされた。本来、福原隊は天龍寺や山崎、八幡方面の兵と連携して、御所を守る会津藩を攻める段取りであったが、これで目算が狂ってしまった。著者は「その勢力が、作戦どおり河原町二条の長州藩邸待機の浪士隊と合流し、堺町御門の戦闘に加わっていれば、御所内の後半戦がどう展開されたであろう」と想像を逞しくしているが、確かに楽しい想像かもしれない(でも、やっぱり結果は変わらないでしょうが…)。
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