史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

養父 Ⅳ

2016年10月07日 | 兵庫県
(山田風太郎記念館)


山田風太郎記念館

 国道9号線を和田山から鳥取方面に走っていると、養父市街地を過ぎたところに山田風太郎記念館がある。山田風太郎は、大正十一年(1922)一月四日、養父市関宮に生まれた。代々続く医者の家系で、実父もこの地で病院を開業していた。当人も東京医科大学を卒業したが、医者は志さず作家としてデビューした。その後の活躍は広く知られる通りである。「魔群の通過」や「警視庁草紙」など幕末維新に題材をとった小説も多い。
 ここを通過したのが朝の六時半だったもので、当然ながら開館時間前であったため、館内の見学はまたの機会に譲り先を急いだ。

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山東

2016年10月07日 | 兵庫県

(楽音寺)


楽音寺

 いわゆるお盆のシーズンの週末ということもあって、どう考えても渋滞が予想されたので、早朝三時半に京都の実家を出た。ところが ――― 世の中の皆さんの考えることは同じで ――― 名神高速から中国自動車道に入る吹田ジャンクションではもう渋滞が始まっており、考えが甘かったことを思い知らされた。
 しかし、振り返れば渋滞らしい渋滞にあったのはこれだけで、あとは順調にドライブを続けてほぼ二時間後には第一目的地である朝来市山東町に到着した。


淨邦院風雲勁節居士墓(小山六郎の墓)

 楽音寺本堂の前に小山六郎の墓と「志士の碑」と題する顕彰碑がある。
 小山(こやま)六郎は、村役人の子に生まれ、初め六郎右衛門と称した。文久三年(1863)、北垣晋太郎、平野國臣らが但馬農兵組織化を始めると、これに参加し本多小太郎(素行)と美作に赴いて同志を糾合した。生野挙兵においては、節制方を担当した。破陣の後、逃れて長州に走り、遊撃隊に属して俗論政府と戦ったが、眼を病んで失明し、慶応四年(1868)帰郷した。山陰道鎮撫総督西園寺公望が来ると、苗字帯刀を赦された。従軍を請うたが、眼疾のため赦されなかった。明治四年(1871)、生野県が廃され、豊岡県が設置されたが、人民は新法に服せず、六郎は鋭意調停を図っていたが、同年十二月、新政府の有司専制・開明的諸政策に反対する上奏文を県庁に提出し、その帰途轎中にて割腹自決した。年三十七。


志士之碑

(向大道共同墓地)
 大月西交差点を数百メートル西に行くと、向大道共同墓地がある。驚いたことに、六十区画あるこの墓地の五十以上は小山姓である。この共同墓地の西側に「志士之墓」と書かれた石碑が置かれており、そこを上ると藪の中に小山六郎の墓がある。楽音寺本堂前の「志士の碑」に記載されている「事績は宝珠峠の碑に伝えられ」とあるのが、この墓碑のことであろう。


小山喜昌之墓

 喜昌は小山六郎の諱である。

(山東町郷土資料館)
 山東町郷土資料館は、南北朝時代から続く町内有数の土豪であった山崎邸を借り整備したものである。山崎家からは、応仁の乱、京都村雲合戦(1467)で名を挙げた与布土又三郎や生野義挙で農兵組立に尽力した山崎甚兵衛(誠蔵)らを出した。
 説明によれば、母屋の各所に生野義挙に参加した農民が幕府の処分を恐れて打ちこわしに来た際の傷跡が残ると記されているが、どこにその傷跡があるのか確認できなかった。ここを訪れたのが未だ早朝六時前だったこともあり、尋ねるにも誰も周りにいなかった。


百笑茶屋 喜古里

 喜古里は地元で採れた食材を提供するレストランである。

コメント (2)
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醍醐

2016年10月07日 | 京都府
(醍醐寺)
 世界遺産にも登録される醍醐寺は、天暦五年(951)に完成した京都最古の五重塔(国宝)をはじめ、多くの国宝や重要文化財を所蔵している(伏見区醍醐伽藍町)。応仁の乱や文明の乱で、五重塔を残して全て焼失したが、慶長三年(1598)、豊臣秀吉が北政所らを伴って醍醐の花見に訪れたことをきっかけに秀吉の厚い帰依を受けて復興した。三宝院庭園は、華麗にして豪華な桃山時代の庭園である。


醍醐寺仁王門


醍醐寺三宝院

 元治元年(1864)七月、禁門の変の際に醍醐寺三宝院に隠れていた長州藩金剛隊の六名を新選組および見廻組が捕縛した。

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