(景福寺)
景福寺は、鳥取藩池田家家老荒尾志摩守家の菩提寺で、墓地には荒尾家代々の墓のほか、大阪夏の陣で戦死した後藤又兵衛基次とその妻子の墓や島原の乱に出征した藩主佐分利九允の墓など、歴史を物語る墓が多い。
景福寺

後藤又兵衛基次と妻子の墓
島田元旦墓
島田元旦(げんたん)は、安永七年(1778)元旦に生れたことから、画号を元旦と称し、この墓にも「元旦墓」と刻されている。江戸画壇の巨匠谷文兆の実弟で、幼少より御三卿の一つ、田安家に仕え、やがて普請奉行にまでなった。父木修、兄文兆に就いて学問、絵画を学び、十三歳のとき京都で円山応挙に師事し、応挙没後は沈南蘋の画法を極めて江戸に帰った。寛政十一年(1799)、幕府の蝦夷地調査に加わって、測量に従事する傍ら、山水、草木、禽獣、虫魚、原住民の風俗等、絵筆に写し、また土語を採輯して、日本における最初のアイヌ語辞典と称すべき報告書を作成した。帰国後、鳥取藩江戸留守居約島田図書の養子となった。四十二歳のとき、養父が没し、家督を継いで五百石を賜った。天保十一年(1840)、六十三歳にて没。
井上静雄源尚友
井上静雄は、戊辰戦争において小隊司令長官。慶応四年(1868)五月二十六日、箱根で負傷。横浜病院に運ばれたが、六月十二日死亡。

贈正四位 三相両州御軍監中井範五郎正良墓
中井範五郎は天保十一年(1840)の生まれ。永見和十郎は実兄。文久三年(1863)藩命により吉岡正臣らと勝海舟の門に入る。同時に藩の周旋方に任じられたが、同年八月十七日、実兄永見和十郎(明久)とともにいわゆる二十二士の一人として藩の重臣黒部権之介らを京都本圀寺にて暗殺。京都、黒坂、鳥取に幽居ののち、慶応二年(1866)七月、脱走して岡山に潜み、家老伊木忠澄に頼り、大村益次郎に西洋兵学を学んだ。慶応四年(1868)二月、大赦により赦され鳥取藩に復籍。戊辰戦争に参加、東山道先鋒隊に属した。江戸到着後、大総督府監軍となり、五月二十日、箱根の幕軍を攻めようとした時、小田原藩兵によって箱根で殺害された。年二十九。
(JAグリーン千代水店)
農産物を売るJAグリーン千代水店の南側に小さな墓地があり、そこに山口謙之進の墓がある。
山口遊圃(謙之進)之墓
山口謙之進は、諱を正次、守人とも称した。天保九年(1838)の生まれ。父山口虎夫について砲術を学び、文久三年(1863)、藩命により吉田直人、中井範五郎らと大阪に赴き、勝海舟について海防学を学んだ。まもなく大砲鋳造の藩命を受けて京都に赴いた。文久三年(1863)八月十七日、河田左久馬らとともに藩内の守旧派の重臣を斬殺。慶応四年(1868)、赦されて帰藩し、郷里で新たに兵を募って小隊を編成し、司令官となって江戸に赴き皇居を守備した。明治四年(1871)丹後・丹波の農民騒動鎮圧には小隊を率いて出張し、その後も各地の農民騒動を鎮圧した。明治三十三年(1900)、六十三歳で没。墓石の傍らには「嗚呼維新 山口謙之進正次 英傑悠久」と記されている。
(玄忠寺)
玄忠寺の門を入って左手には、鍵屋の辻の仇討で助太刀をした荒木又右衛門の墓がある。

玄忠寺

荒木又右衛門の墓
近藤家累代墓(近藤類蔵)
墓地奥の近藤家累代の墓に近藤類蔵が葬られている。近藤類蔵は、砲隊長として戊辰戦争に出征。慶応四年(1868)七月二十六日、磐城広野にて戦死。
(妙玄寺)
妙玄寺
堀庄次郎墓
妙玄寺の堀家の墓地に堀庄次郎の墓がある。堀庄次郎は、天保元年(1830)の生まれ。二宮元助、芦川重周に学び、弘化三年(1846)、家を継いで、翌年には十八歳にして学館で講義を行った。同五年(1847)、学館御趣向御用掛、御居間講釈となり、学制改革に尽くした。安政元年(1854)、昵近、藩主池田慶徳に「献芹鄙策二十ヶ条」を上申。安政四年(1857)、江戸詰、同六年(1859)、学校文場学正。万延元年(1860)、諸奉行格、元治元年(1864)、目付役となった。同年の禁門の変に際し、京都にあって鳥取藩の長州藩加担を許さず、八月に帰国。第一次征長の役にあたり、藩の方針である長州出兵を支持推進したと誤解され、沖剛介、増井熊太に襲われ暗殺された。年三十五。
(広徳寺)
広徳寺
伊藤猪吉は、戊辰戦争に河田左久馬隊砲手として出征。佐分利鉄次郎隊に属した。慶応四年(1868)五月十五日、江戸上野山で負傷。同月二十四日、横浜病院で死亡。
伊藤猪吉墓
(池田家墓所)
池田光仲墓
池田家墓所
池田家墓所には、初代光仲以下十一代慶栄に至る歴代藩主と夫人等の墓碑のほか、寄進された多数の石燈籠が整然と並ぶ。藩主の墓碑は、いずれも亀趺円頭型の重厚なものである。
没年と見ると、八代藩主斉稷(なりとし)が天保元年(1830)に四十三歳で没して以降、九代斉訓(なりみち)、十代慶行(よしゆき)、十一代慶栄(よしたか)は、いずれも十一歳、十七歳、十七歳の若年で急死している。幕府の仲介により、嘉永三年(1850)水戸徳川家より慶徳(慶喜の兄弟)を藩主に迎え入れることになった。このことが鳥取藩を幕末の複雑な政局に巻き込まれる原因となった。
栄岳院殿穆雲光澤大居士之塔(池田慶栄墓)
池田慶栄(よしたか)は、嘉永元年(1848)、僅か十七歳で急逝した前藩主慶行の後継として、幕府より加賀中納言前田斉泰の二男喬心丸を藩主とし、これに分知家壱岐守仲律の娘延子を娶せるよう指示があった。国表では根耳に水の驚きであったが、鳥取池田家としては初めて他家より藩主を迎えることになった。喬心丸は、嘉永二年(1849)将軍家慶の前で元服の儀式を行い、従四位侍従に任じられ、将軍の一字を賜って慶栄と名乗った。嘉永三年(1850)、藩主となって初めて国入りが許可され、帰国の途についたが、京都伏見藩邸で病気に罹り急死した。前藩主と同じく十七歳の若さであった。鳥取藩士が慶栄の養子を喜ばす、毒殺したなどという噂が流れ、慶栄の母である前田家の溶姫(将軍家斉の娘)などはそれを信じていたという。
最後の鳥取藩主池田慶徳(よしのり)は、水戸斉昭の五男五郎麿。異腹弟七郎麿はのちの十五代将軍慶喜である。池田慶栄が急死すると、幕府は慶徳に命じて、嘉永三年(1850)家督を相続した。慶徳は父斉昭の天保の改革をモデルにして、藩政改革に乗り出した。安政元年(1854)、幕府が日米和親条約を締結したことに対して、当時十八歳であった慶徳は、攘夷の立場から遺憾の意を表明する意見書を提出し、攘夷論者として知られることになった。一方、実弟慶喜が徳川家を継いで十五代将軍となると、慶徳は、攘夷であり佐幕という微妙な立場に置かれた。藩主の政治的不安定さは、藩内の政治バランスにも影響が及んだ。本圀寺事件やその後の報復事件など、藩内抗争が続発したが、藩主は両派を統制しきれなかった。慶応四年(1868)七月、鳥取藩は明治天皇の東京行幸供奉を命じられた。これを機に慶徳は上洛して、直接新政府と連絡を取るようになり、明治二年(1869)には新政府の議定に任じられた。明治十年(1877)八月、明治天皇の還幸を神戸まで奉送する際、肺炎にかかり京都で逝去。最初、東京の弘福寺に葬られ、のちに多磨霊園に改葬されたが、平成十五年(2003)、鳥取市大雲院に改葬された。
実は今回大雲院まで行ったのだが、慶徳の墓の撮影はできなかった。次回の課題である。
景福寺は、鳥取藩池田家家老荒尾志摩守家の菩提寺で、墓地には荒尾家代々の墓のほか、大阪夏の陣で戦死した後藤又兵衛基次とその妻子の墓や島原の乱に出征した藩主佐分利九允の墓など、歴史を物語る墓が多い。

景福寺

後藤又兵衛基次と妻子の墓

島田元旦墓
島田元旦(げんたん)は、安永七年(1778)元旦に生れたことから、画号を元旦と称し、この墓にも「元旦墓」と刻されている。江戸画壇の巨匠谷文兆の実弟で、幼少より御三卿の一つ、田安家に仕え、やがて普請奉行にまでなった。父木修、兄文兆に就いて学問、絵画を学び、十三歳のとき京都で円山応挙に師事し、応挙没後は沈南蘋の画法を極めて江戸に帰った。寛政十一年(1799)、幕府の蝦夷地調査に加わって、測量に従事する傍ら、山水、草木、禽獣、虫魚、原住民の風俗等、絵筆に写し、また土語を採輯して、日本における最初のアイヌ語辞典と称すべき報告書を作成した。帰国後、鳥取藩江戸留守居約島田図書の養子となった。四十二歳のとき、養父が没し、家督を継いで五百石を賜った。天保十一年(1840)、六十三歳にて没。

井上静雄源尚友
井上静雄は、戊辰戦争において小隊司令長官。慶応四年(1868)五月二十六日、箱根で負傷。横浜病院に運ばれたが、六月十二日死亡。

贈正四位 三相両州御軍監中井範五郎正良墓
中井範五郎は天保十一年(1840)の生まれ。永見和十郎は実兄。文久三年(1863)藩命により吉岡正臣らと勝海舟の門に入る。同時に藩の周旋方に任じられたが、同年八月十七日、実兄永見和十郎(明久)とともにいわゆる二十二士の一人として藩の重臣黒部権之介らを京都本圀寺にて暗殺。京都、黒坂、鳥取に幽居ののち、慶応二年(1866)七月、脱走して岡山に潜み、家老伊木忠澄に頼り、大村益次郎に西洋兵学を学んだ。慶応四年(1868)二月、大赦により赦され鳥取藩に復籍。戊辰戦争に参加、東山道先鋒隊に属した。江戸到着後、大総督府監軍となり、五月二十日、箱根の幕軍を攻めようとした時、小田原藩兵によって箱根で殺害された。年二十九。
(JAグリーン千代水店)
農産物を売るJAグリーン千代水店の南側に小さな墓地があり、そこに山口謙之進の墓がある。

山口遊圃(謙之進)之墓
山口謙之進は、諱を正次、守人とも称した。天保九年(1838)の生まれ。父山口虎夫について砲術を学び、文久三年(1863)、藩命により吉田直人、中井範五郎らと大阪に赴き、勝海舟について海防学を学んだ。まもなく大砲鋳造の藩命を受けて京都に赴いた。文久三年(1863)八月十七日、河田左久馬らとともに藩内の守旧派の重臣を斬殺。慶応四年(1868)、赦されて帰藩し、郷里で新たに兵を募って小隊を編成し、司令官となって江戸に赴き皇居を守備した。明治四年(1871)丹後・丹波の農民騒動鎮圧には小隊を率いて出張し、その後も各地の農民騒動を鎮圧した。明治三十三年(1900)、六十三歳で没。墓石の傍らには「嗚呼維新 山口謙之進正次 英傑悠久」と記されている。
(玄忠寺)
玄忠寺の門を入って左手には、鍵屋の辻の仇討で助太刀をした荒木又右衛門の墓がある。

玄忠寺

荒木又右衛門の墓

近藤家累代墓(近藤類蔵)
墓地奥の近藤家累代の墓に近藤類蔵が葬られている。近藤類蔵は、砲隊長として戊辰戦争に出征。慶応四年(1868)七月二十六日、磐城広野にて戦死。
(妙玄寺)

妙玄寺

堀庄次郎墓
妙玄寺の堀家の墓地に堀庄次郎の墓がある。堀庄次郎は、天保元年(1830)の生まれ。二宮元助、芦川重周に学び、弘化三年(1846)、家を継いで、翌年には十八歳にして学館で講義を行った。同五年(1847)、学館御趣向御用掛、御居間講釈となり、学制改革に尽くした。安政元年(1854)、昵近、藩主池田慶徳に「献芹鄙策二十ヶ条」を上申。安政四年(1857)、江戸詰、同六年(1859)、学校文場学正。万延元年(1860)、諸奉行格、元治元年(1864)、目付役となった。同年の禁門の変に際し、京都にあって鳥取藩の長州藩加担を許さず、八月に帰国。第一次征長の役にあたり、藩の方針である長州出兵を支持推進したと誤解され、沖剛介、増井熊太に襲われ暗殺された。年三十五。
(広徳寺)

広徳寺
伊藤猪吉は、戊辰戦争に河田左久馬隊砲手として出征。佐分利鉄次郎隊に属した。慶応四年(1868)五月十五日、江戸上野山で負傷。同月二十四日、横浜病院で死亡。

伊藤猪吉墓
(池田家墓所)

池田光仲墓

池田家墓所
池田家墓所には、初代光仲以下十一代慶栄に至る歴代藩主と夫人等の墓碑のほか、寄進された多数の石燈籠が整然と並ぶ。藩主の墓碑は、いずれも亀趺円頭型の重厚なものである。
没年と見ると、八代藩主斉稷(なりとし)が天保元年(1830)に四十三歳で没して以降、九代斉訓(なりみち)、十代慶行(よしゆき)、十一代慶栄(よしたか)は、いずれも十一歳、十七歳、十七歳の若年で急死している。幕府の仲介により、嘉永三年(1850)水戸徳川家より慶徳(慶喜の兄弟)を藩主に迎え入れることになった。このことが鳥取藩を幕末の複雑な政局に巻き込まれる原因となった。

栄岳院殿穆雲光澤大居士之塔(池田慶栄墓)
池田慶栄(よしたか)は、嘉永元年(1848)、僅か十七歳で急逝した前藩主慶行の後継として、幕府より加賀中納言前田斉泰の二男喬心丸を藩主とし、これに分知家壱岐守仲律の娘延子を娶せるよう指示があった。国表では根耳に水の驚きであったが、鳥取池田家としては初めて他家より藩主を迎えることになった。喬心丸は、嘉永二年(1849)将軍家慶の前で元服の儀式を行い、従四位侍従に任じられ、将軍の一字を賜って慶栄と名乗った。嘉永三年(1850)、藩主となって初めて国入りが許可され、帰国の途についたが、京都伏見藩邸で病気に罹り急死した。前藩主と同じく十七歳の若さであった。鳥取藩士が慶栄の養子を喜ばす、毒殺したなどという噂が流れ、慶栄の母である前田家の溶姫(将軍家斉の娘)などはそれを信じていたという。
最後の鳥取藩主池田慶徳(よしのり)は、水戸斉昭の五男五郎麿。異腹弟七郎麿はのちの十五代将軍慶喜である。池田慶栄が急死すると、幕府は慶徳に命じて、嘉永三年(1850)家督を相続した。慶徳は父斉昭の天保の改革をモデルにして、藩政改革に乗り出した。安政元年(1854)、幕府が日米和親条約を締結したことに対して、当時十八歳であった慶徳は、攘夷の立場から遺憾の意を表明する意見書を提出し、攘夷論者として知られることになった。一方、実弟慶喜が徳川家を継いで十五代将軍となると、慶徳は、攘夷であり佐幕という微妙な立場に置かれた。藩主の政治的不安定さは、藩内の政治バランスにも影響が及んだ。本圀寺事件やその後の報復事件など、藩内抗争が続発したが、藩主は両派を統制しきれなかった。慶応四年(1868)七月、鳥取藩は明治天皇の東京行幸供奉を命じられた。これを機に慶徳は上洛して、直接新政府と連絡を取るようになり、明治二年(1869)には新政府の議定に任じられた。明治十年(1877)八月、明治天皇の還幸を神戸まで奉送する際、肺炎にかかり京都で逝去。最初、東京の弘福寺に葬られ、のちに多磨霊園に改葬されたが、平成十五年(2003)、鳥取市大雲院に改葬された。
実は今回大雲院まで行ったのだが、慶徳の墓の撮影はできなかった。次回の課題である。