史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

鳥取 Ⅱ

2016年10月08日 | 鳥取県
(景福寺)
 景福寺は、鳥取藩池田家家老荒尾志摩守家の菩提寺で、墓地には荒尾家代々の墓のほか、大阪夏の陣で戦死した後藤又兵衛基次とその妻子の墓や島原の乱に出征した藩主佐分利九允の墓など、歴史を物語る墓が多い。


景福寺


後藤又兵衛基次と妻子の墓


島田元旦墓

 島田元旦(げんたん)は、安永七年(1778)元旦に生れたことから、画号を元旦と称し、この墓にも「元旦墓」と刻されている。江戸画壇の巨匠谷文兆の実弟で、幼少より御三卿の一つ、田安家に仕え、やがて普請奉行にまでなった。父木修、兄文兆に就いて学問、絵画を学び、十三歳のとき京都で円山応挙に師事し、応挙没後は沈南蘋の画法を極めて江戸に帰った。寛政十一年(1799)、幕府の蝦夷地調査に加わって、測量に従事する傍ら、山水、草木、禽獣、虫魚、原住民の風俗等、絵筆に写し、また土語を採輯して、日本における最初のアイヌ語辞典と称すべき報告書を作成した。帰国後、鳥取藩江戸留守居約島田図書の養子となった。四十二歳のとき、養父が没し、家督を継いで五百石を賜った。天保十一年(1840)、六十三歳にて没。


井上静雄源尚友

 井上静雄は、戊辰戦争において小隊司令長官。慶応四年(1868)五月二十六日、箱根で負傷。横浜病院に運ばれたが、六月十二日死亡。


贈正四位 三相両州御軍監中井範五郎正良墓

 中井範五郎は天保十一年(1840)の生まれ。永見和十郎は実兄。文久三年(1863)藩命により吉岡正臣らと勝海舟の門に入る。同時に藩の周旋方に任じられたが、同年八月十七日、実兄永見和十郎(明久)とともにいわゆる二十二士の一人として藩の重臣黒部権之介らを京都本圀寺にて暗殺。京都、黒坂、鳥取に幽居ののち、慶応二年(1866)七月、脱走して岡山に潜み、家老伊木忠澄に頼り、大村益次郎に西洋兵学を学んだ。慶応四年(1868)二月、大赦により赦され鳥取藩に復籍。戊辰戦争に参加、東山道先鋒隊に属した。江戸到着後、大総督府監軍となり、五月二十日、箱根の幕軍を攻めようとした時、小田原藩兵によって箱根で殺害された。年二十九。

(JAグリーン千代水店)
 農産物を売るJAグリーン千代水店の南側に小さな墓地があり、そこに山口謙之進の墓がある。


山口遊圃(謙之進)之墓

 山口謙之進は、諱を正次、守人とも称した。天保九年(1838)の生まれ。父山口虎夫について砲術を学び、文久三年(1863)、藩命により吉田直人、中井範五郎らと大阪に赴き、勝海舟について海防学を学んだ。まもなく大砲鋳造の藩命を受けて京都に赴いた。文久三年(1863)八月十七日、河田左久馬らとともに藩内の守旧派の重臣を斬殺。慶応四年(1868)、赦されて帰藩し、郷里で新たに兵を募って小隊を編成し、司令官となって江戸に赴き皇居を守備した。明治四年(1871)丹後・丹波の農民騒動鎮圧には小隊を率いて出張し、その後も各地の農民騒動を鎮圧した。明治三十三年(1900)、六十三歳で没。墓石の傍らには「嗚呼維新 山口謙之進正次 英傑悠久」と記されている。

(玄忠寺)
 玄忠寺の門を入って左手には、鍵屋の辻の仇討で助太刀をした荒木又右衛門の墓がある。


玄忠寺


荒木又右衛門の墓


近藤家累代墓(近藤類蔵)

 墓地奥の近藤家累代の墓に近藤類蔵が葬られている。近藤類蔵は、砲隊長として戊辰戦争に出征。慶応四年(1868)七月二十六日、磐城広野にて戦死。

(妙玄寺)


妙玄寺


堀庄次郎墓

 妙玄寺の堀家の墓地に堀庄次郎の墓がある。堀庄次郎は、天保元年(1830)の生まれ。二宮元助、芦川重周に学び、弘化三年(1846)、家を継いで、翌年には十八歳にして学館で講義を行った。同五年(1847)、学館御趣向御用掛、御居間講釈となり、学制改革に尽くした。安政元年(1854)、昵近、藩主池田慶徳に「献芹鄙策二十ヶ条」を上申。安政四年(1857)、江戸詰、同六年(1859)、学校文場学正。万延元年(1860)、諸奉行格、元治元年(1864)、目付役となった。同年の禁門の変に際し、京都にあって鳥取藩の長州藩加担を許さず、八月に帰国。第一次征長の役にあたり、藩の方針である長州出兵を支持推進したと誤解され、沖剛介、増井熊太に襲われ暗殺された。年三十五。

(広徳寺)


広徳寺

 伊藤猪吉は、戊辰戦争に河田左久馬隊砲手として出征。佐分利鉄次郎隊に属した。慶応四年(1868)五月十五日、江戸上野山で負傷。同月二十四日、横浜病院で死亡。


伊藤猪吉墓

(池田家墓所)


池田光仲墓


池田家墓所

 池田家墓所には、初代光仲以下十一代慶栄に至る歴代藩主と夫人等の墓碑のほか、寄進された多数の石燈籠が整然と並ぶ。藩主の墓碑は、いずれも亀趺円頭型の重厚なものである。
没年と見ると、八代藩主斉稷(なりとし)が天保元年(1830)に四十三歳で没して以降、九代斉訓(なりみち)、十代慶行(よしゆき)、十一代慶栄(よしたか)は、いずれも十一歳、十七歳、十七歳の若年で急死している。幕府の仲介により、嘉永三年(1850)水戸徳川家より慶徳(慶喜の兄弟)を藩主に迎え入れることになった。このことが鳥取藩を幕末の複雑な政局に巻き込まれる原因となった。


栄岳院殿穆雲光澤大居士之塔(池田慶栄墓)

 池田慶栄(よしたか)は、嘉永元年(1848)、僅か十七歳で急逝した前藩主慶行の後継として、幕府より加賀中納言前田斉泰の二男喬心丸を藩主とし、これに分知家壱岐守仲律の娘延子を娶せるよう指示があった。国表では根耳に水の驚きであったが、鳥取池田家としては初めて他家より藩主を迎えることになった。喬心丸は、嘉永二年(1849)将軍家慶の前で元服の儀式を行い、従四位侍従に任じられ、将軍の一字を賜って慶栄と名乗った。嘉永三年(1850)、藩主となって初めて国入りが許可され、帰国の途についたが、京都伏見藩邸で病気に罹り急死した。前藩主と同じく十七歳の若さであった。鳥取藩士が慶栄の養子を喜ばす、毒殺したなどという噂が流れ、慶栄の母である前田家の溶姫(将軍家斉の娘)などはそれを信じていたという。

 最後の鳥取藩主池田慶徳(よしのり)は、水戸斉昭の五男五郎麿。異腹弟七郎麿はのちの十五代将軍慶喜である。池田慶栄が急死すると、幕府は慶徳に命じて、嘉永三年(1850)家督を相続した。慶徳は父斉昭の天保の改革をモデルにして、藩政改革に乗り出した。安政元年(1854)、幕府が日米和親条約を締結したことに対して、当時十八歳であった慶徳は、攘夷の立場から遺憾の意を表明する意見書を提出し、攘夷論者として知られることになった。一方、実弟慶喜が徳川家を継いで十五代将軍となると、慶徳は、攘夷であり佐幕という微妙な立場に置かれた。藩主の政治的不安定さは、藩内の政治バランスにも影響が及んだ。本圀寺事件やその後の報復事件など、藩内抗争が続発したが、藩主は両派を統制しきれなかった。慶応四年(1868)七月、鳥取藩は明治天皇の東京行幸供奉を命じられた。これを機に慶徳は上洛して、直接新政府と連絡を取るようになり、明治二年(1869)には新政府の議定に任じられた。明治十年(1877)八月、明治天皇の還幸を神戸まで奉送する際、肺炎にかかり京都で逝去。最初、東京の弘福寺に葬られ、のちに多磨霊園に改葬されたが、平成十五年(2003)、鳥取市大雲院に改葬された。
 実は今回大雲院まで行ったのだが、慶徳の墓の撮影はできなかった。次回の課題である。

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鳥取 Ⅰ

2016年10月08日 | 鳥取県
 これまで全国四十七都道府県を踏破したと広言している私であるが、実は鳥取県の史跡は一つも探訪できていなかった。鳥取県を避けてきたわけでもないのだが、京都の実家からだとどうしても宿泊が必要になるので、なかなか鳥取県の史跡探訪に踏み切れなかったというだけである。
 今回、お盆に帰省したのを機に、鳥取県史跡探訪を敢行することにした。早朝三時半に京都を出て、途中兵庫県朝来市山東町の史跡に立ち寄った後、国道9号線をひたすら北上する。第一目的地である岩美町の浦富海岸に着いたのは、午前七時半のことであった。
 鳥取に来たのは、昭和四十七年(1972)以来である。このときは家族といとこの家族で、浜村温泉(鳥取県鳥取市)に宿泊し、翌日鳥取駅経由で関西に帰るというスケジュールであった。古いアルバムに残る記録によれば、このとき浦富海岸や鳥取砂丘を見学したことになっているが、ほとんど記憶にない。唯一覚えているのは、当時八歳だった弟がホテル内で迷子になり、従業員に部屋まで連れて来られたことだけである。
 ともかく私にとって四十五年振りの鳥取県ということになり、四十七都道府県のうち、最も足が遠ざかっていた場所である。鳥取県を訪問することで、ようやく四十七都道府県の史跡を訪ねたことになる。パズルにたとえると最後のピースがはまったような快感である。勿論、訪問すべき史跡は山ほど残っており、私の史跡訪問の旅は、まだまだ終わりが見えない。

(最勝院)


最勝院


適處正墻先生之墓(正墻薫の墓)

 鳥取市内の最初の訪問地は、湯所町の最勝院である。墓地に正墻薫の墓がある。
 正墻薫は、文政元年(1818)元旦、鳥取藩医正墻泰庵の子に生まれた。雅号は適処。少壮より武技を好んで、家業の医を修めず、大阪で藤沢東畡に学び、江戸では佐藤一斎に師事。弘化二年(1845)、江戸昌平黌に入学した。のち大阪で篠崎小竹の塾の塾頭となった。嘉永二年(1849)には姫路仁寿山黌に招かれ、教務を統べた。嘉永六年(1853)、学校吟味役文場掛、この間尚徳館の学制改革に貢献した。文久元年(1863)、内命をおび、正木屋薫蔵と変名し、行商を装って九州諸藩の内情を偵察。元治元年(1864)、学校文場学正、同年九月、藩内の尊攘劇派弾圧により免職。厳重謹慎を命じられ、慶応二年(1866)に赦された。慶応四年(1868)五月、産物会所吟味役となり、桑茶樹栽培を奨励し、大船利渉丸建造に尽くした。明治二年(1869)、学館副寮長、翌三年(1870)、村岡藩の招きに応じ、その学事を総括した。明治六年(1873)には伯耆国久米郡松神村に私塾を開き教育に尽くした。明治九年(1876)、年五十九で没。

(鳥取城)


鳥取城

 鳥取城は、久松山の地形を利用して築城された山城で、その起源は戦国時代の前期まで遡るといわれるが、史上この城を有名にしたのは、天正八年(1580)豊臣秀吉の兵糧攻めであろう。餓死者が続出したため、時の城主吉川経家は自らの命と引き換えに開城を決意した。江戸時代に入ると、池田光政が城主に任じられ、それまで五~六万石規模であった城を三十二万石に相応しい城郭に改めた。現在も残る石垣など城郭の主要な部分はこの頃に完成したものである。
 明治後、城の建物はことごとく取り壊され、残った石垣も昭和十八年(1943)の鳥取大地震で多くが崩落してしまったが、それでも今美しい石垣を見ることができる。仁風閣の前から二ノ丸方面に上ろうとしていると、ボランティアの方に声をかけられ、反対側の鳥取西高校の方から登るように強く勧められた。確かにそこから見上げる石垣は、芸術的といって良いほどの景観である。建物が残っていれば、かなり見事な城郭だったことは想像に難くない。地元の方が、この石垣を見せたい気持ちは分からなくもない。
 あまりに私がそわそわしているものだから、ボランティアの方から「お時間はどれくらいありますか」と聞かれたので、「十分」と答えたところ、
「とんでもない。二の丸に上るだけで片道十分はかかります。ま、自分のペースで行ってください」
と見放されてしまった。結果的に往復で十五分を要した。さすがに往復十分は無理でした。


鳥取城二の丸三階櫓跡

 二ノ丸には江戸時代前期まで藩主が住み、家老らが政治を司る御殿があった。三代藩主池田吉泰のとき、三ノ丸に移され、享保五年(1720)の火災で焼失し、その後、弘化三年(1846)まで再建されなかった。二ノ丸には三階櫓が立ち、元禄五年(1692)に天守櫓が焼失した後は、鳥取城の天守に代わる象徴的建造物であった。そのため享保五年(1720)の火災の約八年後に三階櫓は再建されている。


仁風閣

仁風閣(じんぷうかく)は、明治四十年(1907)五月、時の皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰行啓に際し、宿舎として、もと鳥取藩主池田仲博侯爵によって建てられた洋館である。設計は片山東熊。仁風閣の名は、行啓に随行した東郷平八郎によって命名されたもので、直筆の額が二階ホールに掲げられている。

(興禅寺)


興禅寺

 興禅寺は鳥取藩主池田家の菩提寺であるが、境内に池田家の墓所はない。鍵屋辻の仇討(寛永十一年)で有名な渡辺数馬の墓や疋田流槍術の開祖猪多伊折佐の墓がある。


一岳玄了居士塔(渡辺数馬墓)

 有名な伊賀上野鍵屋辻の仇討は、寛永十一年(1634)の朝、十数名の加勢に守られる河合又五郎との間で闘われた。日本三大仇討の一つに数えられる。事件の発端は、寛永七年(1630)七月、備前池田藩の城下岡山で、藩主忠雄の小姓渡辺源太夫を、又五郎が斬って逐電したことに始まる。事件は池田藩と旗本の不穏な対立にまで発展し、この間、池田藩は鳥取・岡山への国替えを命じられている。姉婿荒木又右衛門の助勢で首尾よく仇を報じた数馬は、寛永十九年(1642)、三十五歳で死去。


猪多伊折佐重良墓

 猪多伊折佐(いだいおりのすけ)は、疋田流眞理開祖と伝えられる。名を重良といった。疋田文五郎景兼について新陰疋田流刀槍二術の極意を相伝。寛永九年(1632)藩祖池田光仲にしたがって、鳥取にきた。四百石の知行をえて、藩士を指導し、門弟は鈴木庄兵衛を初め多数にのぼった。寛永十年(1633)九月、死去。


贈従四位故米子城主荒尾清心齋在原成裕之墓

 渡辺数馬の墓の前をさらに進むと、米子城主荒尾家の墓所がある。
 荒尾成裕は、清心斎と称す。伯父荒尾成緒の養子となり、嘉永四年(1851)、家督を継いで米子城代となった。元治元年(1864)には藩主池田慶徳の代理で上京した。明治十一年(1878)、六十五歳で死去。


(鳥取県庁)


箕浦家武家屋敷門

 県庁の一画に武家屋敷門が移築されている。これはもと御堀端の南澄にあって、二千石の箕浦近江宅の門として使われていたもので、昭和十一年(1936)に現位置に移築保存されたものである。


藩校尚徳館碑

尚徳館は、宝暦七年(1757)、鳥取藩第五代藩主池田重寛によって創設された藩校である。十二代藩主慶徳のときに学制改革が行われ、万延元年(1860)、この尚徳碑が校内に建立された。文武併進を以って尚徳館の教育の理念とすることが記されている。藩校は明治三年(1870)に至るまで百年以上にわたり、鳥取藩教育の中心であった。

(観音院)


観音院


増井熊太先生墓

 観音院の墓地は、急な斜面に作られているが、その最も高いところに増井熊太の墓がある。
 増井熊太は、天保十四年(1843)の生まれ。万延元年(1860)、学校小文場句読方手伝を免じられて江戸に赴き、剣を斎藤弥九郎に学んだ。文久三年(1863)、藩主池田慶徳の養母法隆院に従って帰国。元治元年(1864)禁門の変では、藩に従い宮門を護衛した。当時、鳥取藩は勤王と佐幕の二派が対立していたが、熊太は佐幕派に対抗し、一時謹慎を命じられた。幕府が征長軍を起すと、藩は征長参加を決定。その指導者を堀庄次郎と目して、同年九月、沖剛介とともにこれを暗殺した。その直後、切腹して果てた。二十二歳。

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岩美

2016年10月08日 | 鳥取県
(浦富海岸)


浦富台場跡 お台場公園

 黒船の来航に危機感を募らせた幕府は、各藩に海防の強化を命じた。これを受けて長い海岸線を持つ鳥取藩でも、文久三年(1863)、因・伯海岸の要地に計十一の台場を配備した。現在、このうち五か所(橋津・由良・淀江・境・浦富)の台場跡が残されている。浦富台場には、現大栄町(当時の六尾村)の反射炉で鋳造した鉄製の台場砲四門が配備され、家老鵜殿長道が守備した。台場の築造に当たっては、在方では農民の労役に頼ったが、守備でも農兵(民兵)を組織し、洋式訓練を施した。古い絵図によれば、浦富台場は二か所に分かれていたらしい。文久三年(1863)頃には、庄屋を民兵隊長として郷士に取り立て、苗字帯刀も許したとされる。

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