史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大津 Ⅲ

2016年10月01日 | 滋賀県
(大津宿本陣跡)
 大津宿は、京都を出て最初の宿場であった。大阪屋嘉右衛門家(大塚本陣)と肥前屋九左衛門家の二軒の本陣と、播磨屋市右衛門の脇本陣を有し、街道筋には多数の旅籠が軒を並べていた。大津は、北国街道と東海道の合流地点でもあり、さらに湖上交通の拠点でもあったことから、宿場町として繁栄を極めた。しかし、現在遺構らしきものは一切残っておらず、大塚本陣の跡地に、明治天皇の休息所として利用されたことを示す聖跡碑が建てられているのみである。


明治天皇聖跡

 文久元年(1861)十月二十一日、江戸に向かう和宮が最初に宿泊したのが大津であった。

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彦根 Ⅳ

2016年10月01日 | 滋賀県
(清涼寺)


長野義言先生之墓

 この日、東近江の鯰江城まで歩き、さらに愛知川宿を探索して十分に疲れていた。そして両足の指にはマメができて歩くたびに痛んだ。彦根駅から清凉寺までの道のりは、いったいどこまで歩けばゴールなのかというほど遠く感じた。数か月前から万歩計を携帯しているが、この日の歩数は三万六千歩を越えた。個人記録更新であった。
 清凉寺でのお目当ては、長野主膳の墓である。墓地を隈なく歩いて、漸く見付けることができた。長野主膳の墓は、清凉寺本堂裏手の墓地の一番高く奥まった場所に、本当にひっそりとたたずんでいる。その横には夫人の墓が寄り添うように建てられている。

(龍潭寺)

 清凉寺を訪ねた後、龍潭寺の墓地で井伊直弼の生母の墓を探した。


要妙院殿瑞宝知誓大姉(井伊直弼の生母の墓)

 井伊直弼の生母は、俗名を君田富子という。美貌の賢婦人として知られ、立ち居振る舞いは優雅、絶世の佳人であったという。藩中の人々は「彦根御前」と呼んだ。文政二年(1819)二月、三十五歳で世を去った。鉄三郎と呼ばれた直弼はまだ五歳であった。天保十二年(1841)、生母の二十三回忌の法要で、墓碑の後ろにあった松の木を見上げ、直弼は亡き母を偲んで歌を残している。

そのかみの 煙とともに消もせで
つれなく立てる 松ぞわびしき

 残らずば 誰をなげきの友と見む
 つれなき松も むつまじきかな


招魂碑

 龍潭寺参道にある招魂碑。何にも解説が付されていないので、何を対象とした石碑なのか不明である。

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愛知川

2016年10月01日 | 滋賀県
(愛知川宿)


中山道 愛知川宿

 愛知川(えちがわ)は中山道の宿場の一つで、やはり文久元年(1861)、和宮東下の際にここで宿泊している。近江鉄道愛知川駅を降りて五~六分西へ行くと、昔の風情を残した街並みに出会う。残念ながら本陣の建物は残っていないが、八幡神社(高札場跡)や問屋跡を示す石碑が建てられている。


竹平楼

 竹平楼は、明治天皇が明治十一年(1878)、北陸東山御巡幸の際、十月十二日と同月二十一日の両度にわたり、小憩をとった場所で、今も邸内には御座所が旧観のまま保存されているという。今も料亭として営業を続けている。

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東近江

2016年10月01日 | 滋賀県
(鯰江城跡)
 鯰江城の最寄り駅は近江鉄道の八日市駅である。JR近江八幡駅から近江鉄道に乗り換えると、三十分ほどで八日市駅に行き着く。
 ここでレンタサイクルを調達する予定で、下調べもしてきたのだが、その自転車屋さんのシャッターが下りたままであったのは誤算であった。この街には路線バスが走っていない。市が運営する循環バスを時折見かける程度で、これも旅人にはとても実用的とはいえない。迷わず歩くことにした。
 鯰江まで片道歩いて一時間。往復で二時間。この日の気温は三十五度を超えた。太陽から身を隠す日陰もなく、非常に過酷な史跡探訪の旅であった。
 鯰江城は、鯰江郷の豪族であった鯰江氏によって築城された中世の城である。戦国時代に織田信長の近江平定により天正元年(1573)に落城した。現在、城跡地に小さな石碑があるだけであるが、その横に丹羽正雄の顕彰碑が建っている。この石碑を見るためにここまで往復したのである。


史蹟 鯰江城阯


丹羽正雄之碑

 丹羽正雄は、天保四年(1833)、近江国鯰江に生まれた。父はこの地で農業を営む福田市右衛門。馬淵俊斎に医を学んでいたが、「天下の脈をとりたい」と発奮して速水橘園に儒学を学び、しばしば京都に出かけて梅田雲浜、平野國臣、頼三樹三郎らと交わり、尊攘を唱え兵法剣術を修めた。長沼流の長剣に「尊王攘夷赤心報国佐々成之佩刀」と刻んでいた(佐々成之は丹羽正雄の変名)。万延元年(1860)、三条家の世臣丹羽豊後守正庸の養子となり、筑前介、ついで出雲守を称した。三条実美の七卿落ちに従って長州に下ったが、元治元年(1864)三条から密奏を頼まれて河村李興と変名して上洛。伏見三栖院で幕吏に捕えられ、同年七月、禁門の変の際に六角獄舎にて斬られた。

 八日市駅に戻ってくると、朝シャッターを下ろしていた自転車屋は開いていた。営業開始時間は午前九時からと書いてあったが、私は今朝九時にこの店の前にいたのだが、結果から言えばもう少し我慢すれば良かったのだろう。「待つのが嫌い」という性分が災いした。

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碧南

2016年10月01日 | 愛知県
(貞照院)


貞照院

 碧南市へは東海道線刈谷で乗り換えて、名鉄線で三十分。碧南中央駅で下車する。事前調査では駅前で自転車を借りることができるはずであったが、実際に行ってみるとそれらしいものは影すら見つけられなかった。市が運営している無料の循環バスもあるらしいが、一日に四本しか走っておらず、あまり実用的ではない。
 太陽が遠慮会釈なく照り付けるが、覚悟を決めて歩き始めた。


正五位山中先生墓

 貞照院には山中静逸(信天翁)の墓がある。墓地は、寺の境内の道をはさんで向かい側にあり、その道路側に山中家の墓域がある。

 山中信天翁は諱を献、雅号は信天翁のほか、静逸、対嵐山房、二水間人など。文政五年(1822)の生まれ。実家は東浦村の大地主で、沼津藩御用達の家であった。父山中七左衛門有功も文人・画家であった。篠崎小竹。斎藤拙堂らに学び、安政年間に上京して梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎らと交わった。安政の大獄後、修学院村に隠れ住んで岩倉具視と接触した。慶応四年(1868)二月、徴士内国事務局判事に任じられた。東幸御用掛、桃生県(のち石巻県)知事、登米県知事、伏見・閑院・白川各宮家令等を歴任。明治四年(1871)六月、官職を辞して京都嵐山に隠棲し、詩賦書画をこととした。明治十八年(1885)、六十四歳で死去。

 同じ墓所には父山中子敏(有功)の墓もある。


子敏先生墓

(神明社)
 神明社は、どこにでもありそうな神社であるが、本殿の傍らに山中信天翁の顕彰碑が建てられている。この神社の近所は、気のせいか山中姓の家が多いが、恐らくその中の一つに信天翁の縁者もあるのだろう。


神明社


信天翁山中先生之碑

(康順寺)


康順寺

 康順寺の最寄り駅は名鉄北新川駅である。この駅にも貸自転車も路線バスもなく、片道三十分、ひたすら歩くしかない。


静照院殿前對州釋昇覺大居士(本多忠鵬の墓)

 康順寺に最後の西端藩主本多忠鵬の墓がある。墓地の最前線にあるので、すぐに見つかる。
 本多忠鵬は、安政四年(1857)、藩主本多忠寛の長子に生まれた。慶応二年(1866)、九歳で二代藩主に就いた。十二歳のとき、西端藩知事、さらに西端県知事となったが、廃藩置県により東京に移り住んだ。明治二十九年(1896)、三十八歳にて死去した。

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豊川

2016年10月01日 | 愛知県
(平井共同墓地)


無縁法界

 平井亀吉の墓から、さらに三十分歩くと、東海道線の西小佐井駅に行き着く。駅の南東、道沿いに共同墓地があり、そこに平井亀吉の子分の墓がある。
 平井亀吉は、清水次郎長の不倶戴天の敵である黒駒の勝蔵と義兄弟の契りを交わしていた。次郎長に追われた勝蔵を自宅に匿っていることが知れ、次郎長一味は密かに亀吉の自宅を襲撃する計画を立てた。それとは知らず、亀吉と勝蔵は二階で酒盛りをしていた。全く油断していた二人は、子分が滅多斬りに遭っているすきに逃げ出し、九死に一生を得たが、このとき落命した子分の合葬墓である。
 墓に刻まれた名前は五名。このうち大岩、治郎吉は勝蔵の子分、勘重、松太郎、種吉は亀吉の子分である。


大林意備大人之墓

 同じ墓地に大林重兵衛意備(もとよし)の墓がある。大林重兵衛は、天保十四年(1843)為當村の竹本四郎左衛門有國の六男に生まれ、文久二年(1862)平井村の大林重兵衛の養子となった。東三河考古学会の先達であり、歌人としても知られた。維新後は地方自治改革に尽力し、初代愛知県会議員にも選出された。大林意備の最大の功績は、明治三十三年(1900)平井村にて縄文時代晩期の稲荷山貝塚を発見したことである。多数の石鏃、石斧、石剣、角器、土偶などが出土したほか、のちには人骨五十体以上が発見され、我が国屈指の縄文時代の遺跡として知られることとなった。大正五年(1916)、七十四歳にて死去。墓石裏面には辞世が記されている。

 いひのこし おもいのこしは なけれとも
 独たひたつ今日そさひしき

(小佐井)
 とても暑い日であったが、最寄り駅の愛知御津駅(東海道線)にはレンタサイクルのような気の利いたものはなく、路線バスもないという場所で、歩いて目的地に向かうしか選択肢はなかった。炎天下をふらふらになりながら歩いて三十分。下佐脇の是願という字にある墓地に平井亀吉の墓がある。


要義院大乗法雲居士(平井亀吉の墓)

 平井亀吉は、通称「雲風の亀吉」。黒駒の勝蔵と兄弟分の仲であった。東三河一帯に勢力を張った博徒の親分であった。その前には江戸大相撲清見潟部屋に入門し、雲風藤八(のち亀吉)という四股名を名乗り、序二段十九枚目で廃業した元力士であった。慶応四年(1868)二月、尾張集義隊を結成してその隊長になった。藩兵が新事態にきちんと対応しないため、尾張ではこうしたやくざの隊や郷士、農民、医者などの庶民隊が生まれた。集義隊は、北越戦争に従軍して秋になって帰ってきた。平井たち幹部はそのまま士族に登用され、隊も藩の正規軍とされたが、のちに政府が平民に格下げしてしまった。亀吉は「そんな馬鹿なことがあるか」と執拗に不服を言い続け、明治十一年(1878)、再び士族に戻った。亀吉は永世禄九石余と金禄五十円余を手にしたという。明治二十六年(1893)没。墓石には誇らしげに「士族 平井亀吉」と刻まれている。

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