史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

日野

2016年10月14日 | 鳥取県
(泉龍寺)


泉龍寺

 本圀寺にて重臣黒部権之介らを斬った因藩二十士は、黒坂(現・日野町黒坂)泉龍寺に幽閉された。今も二十士の遺品や遺墨が保存され、平成二十五年(2013)、本圀寺事件から百五十年を記念して、本堂前に「平成維新碑」が建てられている。


平成維新碑

 平成維新碑の前に置かれているピストルは、ベルギー製のルフォショーという拳銃で、河田左久馬が所持していたものである。


供養碑

 平成維新碑の前には、玄武岩の六方石二十八柱が置かれている。それぞれ尊攘派二十二士と討たれた側の佐幕派重臣五名の名前が刻まれている。

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松江

2016年10月14日 | 島根県
(松江城)


松江城

 久し振りの島根県である。これまで四十七都道府県を踏破した私であるが、全ての県庁所在地を歩き、残すは松江だけとなった。前日、鳥取県の米子に宿をとり、早朝松江に向かった。
 松江城は、現存する十二の天守のうちの一つ。これで「現存十二天守」の踏破も達成した。日本百名城の一つに数えられ、国宝にも指定されている。派手さはないが、質朴重厚な城である。


堀尾吉晴像

 松江城は、関ヶ原の合戦で武功をたてた堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が慶長五年(1600)に出雲・隠岐両国に封じられた。慶長十二年(1607)から足かけ五年を費やして築城された。完成は慶長十六年(1611)。堀尾忠氏は慶長九年(1604)に急死したが、父堀尾吉晴が築城工事を引き継いだ。松江城前には、工事を指揮する吉晴の銅像が建てられている。
 堀尾吉晴が死去すると嗣子がなかったため、京極氏に引き継がれたが、やはり嗣子がなく断絶。その後、松平氏が十代続いて松江藩を治めた。
 松江藩主松平氏は、徳川家康の二男結城秀康の子、松平直政を祖とする。第七代藩主治郷は、不昧という名を持つ茶人としても有名であった。
 幕末の藩主は、十代松平定安。親藩であり佐幕色の強い藩であり、長州征伐にも出兵した。しかし、大政奉還後、藩論を勤王に転換した。しかし、不明瞭な態度が官軍の疑惑を招き、慶応四年(1868)、山陰道鎮撫使西園寺公望が松江・浜田藩の調査に来た際、たまたま松江藩の軍艦八雲丸が鎮撫使滞陣地近くの丹後宮津に寄港したため、「其意不審」として捕えられた。この頃、上洛した定安が山陰道を通って西下していた鎮撫使一行を迎えても挨拶もせず通過したという事件が重なった。いずれも、事情を知らずに起こった偶発的事件であったが、松江藩の立場は非常に苦しいものとなり、苦心の末、苦境を切り抜けることになった。


興雲館

 松江神社横の白亜の洋館は、明治三十六年(1903)、松江市工芸品陳列所として建てられた建物である。明治天皇の行在所として使用する目的でつくられたため、装飾・彫刻を多用した華麗な仕上げとなっている。明治天皇の巡行は実現しなかったが、その後皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰道行啓にあたって旅館として利用された。


西南戦争碑

 興雲閣の前に建つ円形の碑は、松江と西南戦争の関わりを記したもの。明治十九年(1886)、当時の島根県知事籠手田安定(平戸藩士。維新後は、滋賀県知事や島根県知事等地方官を歴任)が浄財を募り、明治二十一年(1888)に建立されたものである。

(武家屋敷)
 松江城の北側に、二百石から六百石の中級武士の屋敷が並ぶ武家屋敷があった。今も昔ながらの屋敷が残されている。


武家屋敷

(小泉八雲記念館)
 武家屋敷の並びに小泉八雲の旧居跡と記念館がある。
 小泉八雲(アイルランド名ラフカディオ・ハーン)は、英語教師として松江に赴任し、セツ夫人と結婚した後、かねてからの念願であった武家屋敷を求めて、この屋敷を借りて暮らした。当時この屋敷は旧松江藩士根岸家の持ち家で、あるじ干夫は簸川郡(現・出雲市)の郡長に任命され任地に赴任していたため、たまたま空き家であった。


小泉八雲記念館


小泉八雲胸像

(月照寺)


月照寺

 月照寺は、もと洞雲寺と称したが、松平直政が生母月照院の霊牌を安置するため、寛文四年(1664)、改称復興したものである。以来、松江藩主松平家の菩提所ならびに念佛道場として、江戸時代二百年間、尊崇を受けて来た。
 境内の松平家墓所には、九代にわたる藩主の廟が整然と鎮座している。歴代藩主および夫人の奉献した宝物を展示する宝物殿もある。
 私が月照寺を訪れたのはまだ拝観時間前で境内に入ることは叶わなかった。


雷電の碑

 門前には雷電之碑がある。雷電は天明八年(1788)、二十二歳のとき、松江藩主松平治郷(不昧公)にお抱え力士として召し抱えられ、不昧公より雷電為右衛門の名前を賜った。二十一年間、三十四場所の土俵生活で、二百五十八戦のうち負けたのはわずかに十回で、その勝率は古今の相撲史上第一位である。

(禅慶院)
 鹿島町手結の浦は、因藩二十士のうち詫間樊六以下五名が、本圀寺事件で暗殺された黒部権之介や早川卓之丞の遺族らによって斬殺された場所である。禅慶院の本堂裏の坂を上ると、突き当りの小高い場所に彼らの墓がある。


禅慶院


遺蹟保存会の建てた顕彰碑


詫間樊六ほか四士の墓

 ここに葬られているのは、詫間樊六、太田権右衛門、吉田直人、中野治平、中原忠次郎の五名。中原忠次郎は、因藩二十二士ではないが、二十士が橋津から脱出する際に支援した「義人」である。手結に奇港した際、現地の役人に怪しまれたため、交渉の結果、この五人が手結に残り、ほかは長州へ向かうことになった。どういう基準で五人が選ばれたのかはよく分からないが、ここで手結に留まったことが、彼らの命を縮めることになった。黒部権之介らの遺族は、詫間ら五人を討ち取り、報復を果たしたのである。

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境湊

2016年10月14日 | 鳥取県
(境台場跡)


境台場跡

 境湊にも幕末鳥取藩の築造した台場がある。境台場は、文久三年(1863)に構築されたもので、広さ一・四五ヘクタールの地を土塁で囲み、土塁の上に十八斤砲二門、六斤砲一門、五寸法五門が据えられていた。これは同じ年に築かれた藩内の台場の中でも最大かつ厳重に装備されたものであった。弓浜地方の村人を総動員して半年ほどで完成させ、また農兵隊が組織されて守備に当たっていた。南側の土塁の上にある一本の黒松は、境台場が築かれた頃に植えられた際に植えられたものと伝えられ、その姿から「連理の松」と呼ばれている。


連理の松

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米子

2016年10月14日 | 鳥取県
(御台場公園)


淀江台場跡

 淀江台場は、藩内八カ所に設置された台場の一つで、境台場と同じく、松波宏元の設計で、宏元の父である今津村大庄屋松波宏年が土地を無償提供した。文久三年(1863)に完成後、松波が率いる農兵松波隊が守備した。現在残る遺構は、高さ約四メートル、幅約二十四メートル、幅約二十四メートル、長さ六十七メートルという土塁である。
 松波宏年は、慶応二年(1866)の第二次長州征伐、さらに慶応四年(1868)の戊辰戦争でも幕府軍として出征した。

(米子城)


米子城跡

 米子城は、伯耆国守護山名教之の配下の山名宗之によって、標高九〇・五メートルの湊山に応仁年間から文明年間(1467~1487)に築かれたと伝えられる。その後、天正十九年(1591)には、吉川広家が新たに築城を始めたが、関ヶ原の戦後、広家は岩国に転封となり、代わって伯耆十八万石の米子城主となった中村一忠が築城を続け、慶長七年(1602)に完成させた。当時は五重の天守と四重櫓の副天守を備えた威容を誇っていたという。江戸時代に入ると、慶長十五年(1617)には加藤貞泰が入城。その後、池田光政の一族が継いだが、寛永九年(1632)以降は、鳥取藩家老職の荒尾氏が城代として米子城を預かった。明治になって城郭は全て取り壊されたが、往時そのままの石垣を見ることができる。またここから見下ろす米子市街の眺望は素晴らしい。


米子城


米子市街

(了春寺)
 了春寺は、米子城主荒尾氏の菩提寺である。墓地をいくら探しても荒尾氏の墓地が見つからない。墓参りに来ていた老人に訪ねたところ、本堂前の道を真っ直ぐ行けば、右手にあると教えていただいた。


了春寺

 荒尾家墓地には十五基の墓碑が整然と並ぶ。荒尾氏は、寛永九年(1632)以来、明治維新に至る二百四十年間、米子の城主として勢威を誇った。鳥取藩の首席家老として屋敷は鳥取に持っていたが、墓は米子の了春寺に有した。


荒尾家墓地


舊米子城主在原朝臣荒尾成冨墓

 米子城最後の城主は、米子荒尾氏十一代成冨。慶応三年(1867)家督を相続し、父成裕とともに国事に参政した。慶応四年(1868)、山陰道鎮撫使との折衝では、米子・松江に随行し、同年四月には答礼使として京都に赴いた。明治二十六年(1893)、五十一歳にて死去。すぐ近くに息荒尾成文の墓もある。


村河與一右衛門尉直方墓

 荒尾家墓地の近くに村河直方の墓がある。
 村河直方は、文政七年(1824)に生まれ、嘉永元年(1848)家を継ぎ、米子の藍座・蝋座・木綿座の経営、また人参栽培等に努めた功により、家老職米子荒尾家より家禄百石の加増、新田四町歩、人数召抱の賞を受けた。元治元年(1864)、禁門の変後、長州藩士の帰国を擁護した。征長の役に際しては、一書を米子荒尾家に提出して征長の不可を説いた。そのため藩当局から閉門を命じられたが、中岡慎太郎、河上彦斎らを通じて長州と連絡をとった。慶応三年(1867)、大山寺を中心とする挙兵計画をたてたことが発覚、そのため米子荒尾邸内にて村河氏の一族により暗殺された。年四十四。

(中国電力米子営業所)


中江藤樹先生成長之地

 近江聖人中江藤樹は、幼少の頃、米子城主加藤貞泰に仕えた祖父吉長とともに米子に住み、学問に励んだ。中江藤樹の遺徳を偲び、昭和四十五年(1970)、加茂二丁目のこの一角に碑が建てられた。

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北栄

2016年10月14日 | 鳥取県
(お台場公園)


由良台場跡

 お台場公園は、東京の専売特許ではない。実は鳥取にもお台場公園がある。由良台場周辺は、テニスコートやゲートボール場、遊具広場などを備えた広大な公園となっている。さらに青山剛昌ふるさと館や「道の駅大栄」も隣接しており、私が訪れた時は夏休み中の週末ということもあって、駐車場が満杯になるほどの混雑であった。
お目当てはもちろん由良台場であるが、せっかくなので青山剛昌ふるさと館に立ち寄ってみた。漫画家青山剛昌は、「名探偵コナン」の原作者で、ここ北栄町の出身である。(厳密には境湊だが)水木しげるの出身地である米子では、空港を「米子鬼太郎空港」とネーミングしているが、それに対抗してというわけではないだろうが、鳥取の空港は「鳥取砂丘コナン空港」というのである。実は高校生になる次女が「名探偵コナン」の大フアンで「将来の夢は?」と聞かれると「名探偵」と答えるほどであった(単なる「探偵」ではなくて「名探偵」である)。さすがに高校生になった今は「名探偵」を目指していないが、「名探偵コナン」への愛は変わらない。娘への土産を入手するために、ほんのちょっと立ち寄ったつもりであったが、土産物のショップは一際混雑していた。やっとのことで「コナンせんべい」とキャラクターグッズを購入することができた。


青山剛正ふるさと館


台場公園の大砲

 鳥取県内に残る台場跡の中でも、もっとも原型を残しているのが由良台場である。由良台場には七門の大砲が配備されていた。鳥取藩では安政四年(1857)六尾村に二基の反射炉を完成し、その後十年間にわたって約二百門の大砲が製造された。主に藩内八カ所の台場に設置されたが、藩外からの注文にも応じていたという。由良台場公園に展示されている大砲は、砲身三メートル、口径三十五センチ、重量約二トンという、当時最大級のものを復元したものである。
 由良台場は、武信潤太郎の指揮のもと、文久三年(1863)から築造が始められたが、藩財政が窮乏していたため、藩からの出資金無しに工事は進められた。男女問わず、十六歳から五十歳までの農民が動員され、その延べ人数は七万五千余人に及んだとされる。人夫賃等の費用は、中・大庄屋、豪農らの献金によってまかなわれた。翌年完成した台場は、東西一二五メートル、南北八三メートル、周囲に高く土塁を巡らせ、その高さは四・五メートルに及んだ。台場内側は三段になっており、砲座を中段から上段にかけて設け、そこに計四門の大砲が配置されていた。

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湯梨浜

2016年10月14日 | 鳥取県
(西向寺)


西向寺


因藩勤王二十二士之碑

 湯梨浜町松崎の西向寺本堂の前に因藩二十二士之碑が建てられている。幕末の松崎領主和田邦之助が藩内の勤王派を支援していた関係から、昭和二十七年(1952)この場所に建碑されたものである。石碑の前面には因藩の勤王派二十二士の名前が刻まれ、裏面には勤王派の事績が簡単に記されている。この碑文によれば、文久三年(1863)、攘夷親征の大詔が煥発されると、鳥取藩では藩を二派に分かれることになった。当時、在京の勤王派藩士は、君側の奸を除くことを急務と考え、京都本圀寺において黒部権之進ら数名を暗殺した(本圀寺事件)。この後、新庄は金策に出て帰らず、また奥田は自刃したため、彼らを除く二十名を「二十士」とも称する。二十士は鳥取を脱し、長州に逃走を謀ったが、出雲手結の浦にて復仇に遭い、詫間樊六、太田権右衛門、吉田直人、中野治平の四名はそこで討たれた。松江市鹿島町手結の禅慶寺に彼らの墓がある。
碑文に刻まれた二十二士の氏名は以下のとおりである。

河田景與 河田景福 足立正聲 中井範五郎 太田権右衛門 中野治平 詫間樊六 吉田直人 佐善修蔵 奥田萬次郎 加須屋右馬允 伊吹市太郎 清水乙之允 吉岡平之進 加藤助之進 澁谷平蔵 澁谷金蔵 永見和十郎 大西清太 山口謙之進 新庄恒蔵 塩川孝治

(羽合臨海公園)
 日本のハワイである。といっても、常夏の島でもなく、ワイキキのビーチがあるわけでもないが、ここには温泉がある。


橋津台場跡

 鳥取県沿岸の台場跡の二つ目は、橋津台場跡である。羽合臨海公園内にある。
 文久三年(1863)、大阪の天保山砲台を警備していた鳥取藩の警備隊がイギリス船に向けて発砲するという事件が起きた。報復を恐れた藩では、急遽大誠村瀬戸(現・北栄町瀬戸)の竹信潤太郎に相談し、農民の協力を得ることに成功し、由良台場、橋津台場を次々と築造し、同年末までに藩内八箇所の台場が完成した。このうち由良台場はほぼ完全な形で残っているが、浦富、橋津台場はおおよその原形ととどめている。橋津台場は、築造当時の図面が現存していない上に、波の浸食により約三分の一が流出していて本来の形状が長らく不明であったが、明治二十五年頃の図面が見つかり、由良台場と似通った形状であったことが判明している。


明治百年記念 因幡二十士来舩之地

 本圀寺にて黒部権之介らを暗殺した因藩二十士は、その後黒坂の泉龍寺、荒尾家に幽閉されたが、幕府が第二次長州征伐の兵を起すことを知った彼らは脱出して長州へ向かった。彼らは橋津から出航した。この石碑は、明治百年、即ち昭和四十三年(1968)に羽合町によって建立されたものである。


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