(松江城)
松江城
久し振りの島根県である。これまで四十七都道府県を踏破した私であるが、全ての県庁所在地を歩き、残すは松江だけとなった。前日、鳥取県の米子に宿をとり、早朝松江に向かった。
松江城は、現存する十二の天守のうちの一つ。これで「現存十二天守」の踏破も達成した。日本百名城の一つに数えられ、国宝にも指定されている。派手さはないが、質朴重厚な城である。
堀尾吉晴像
松江城は、関ヶ原の合戦で武功をたてた堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が慶長五年(1600)に出雲・隠岐両国に封じられた。慶長十二年(1607)から足かけ五年を費やして築城された。完成は慶長十六年(1611)。堀尾忠氏は慶長九年(1604)に急死したが、父堀尾吉晴が築城工事を引き継いだ。松江城前には、工事を指揮する吉晴の銅像が建てられている。
堀尾吉晴が死去すると嗣子がなかったため、京極氏に引き継がれたが、やはり嗣子がなく断絶。その後、松平氏が十代続いて松江藩を治めた。
松江藩主松平氏は、徳川家康の二男結城秀康の子、松平直政を祖とする。第七代藩主治郷は、不昧という名を持つ茶人としても有名であった。
幕末の藩主は、十代松平定安。親藩であり佐幕色の強い藩であり、長州征伐にも出兵した。しかし、大政奉還後、藩論を勤王に転換した。しかし、不明瞭な態度が官軍の疑惑を招き、慶応四年(1868)、山陰道鎮撫使西園寺公望が松江・浜田藩の調査に来た際、たまたま松江藩の軍艦八雲丸が鎮撫使滞陣地近くの丹後宮津に寄港したため、「其意不審」として捕えられた。この頃、上洛した定安が山陰道を通って西下していた鎮撫使一行を迎えても挨拶もせず通過したという事件が重なった。いずれも、事情を知らずに起こった偶発的事件であったが、松江藩の立場は非常に苦しいものとなり、苦心の末、苦境を切り抜けることになった。
興雲館
松江神社横の白亜の洋館は、明治三十六年(1903)、松江市工芸品陳列所として建てられた建物である。明治天皇の行在所として使用する目的でつくられたため、装飾・彫刻を多用した華麗な仕上げとなっている。明治天皇の巡行は実現しなかったが、その後皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰道行啓にあたって旅館として利用された。
西南戦争碑
興雲閣の前に建つ円形の碑は、松江と西南戦争の関わりを記したもの。明治十九年(1886)、当時の島根県知事籠手田安定(平戸藩士。維新後は、滋賀県知事や島根県知事等地方官を歴任)が浄財を募り、明治二十一年(1888)に建立されたものである。
(武家屋敷)
松江城の北側に、二百石から六百石の中級武士の屋敷が並ぶ武家屋敷があった。今も昔ながらの屋敷が残されている。
武家屋敷
(小泉八雲記念館)
武家屋敷の並びに小泉八雲の旧居跡と記念館がある。
小泉八雲(アイルランド名ラフカディオ・ハーン)は、英語教師として松江に赴任し、セツ夫人と結婚した後、かねてからの念願であった武家屋敷を求めて、この屋敷を借りて暮らした。当時この屋敷は旧松江藩士根岸家の持ち家で、あるじ干夫は簸川郡(現・出雲市)の郡長に任命され任地に赴任していたため、たまたま空き家であった。
小泉八雲記念館
小泉八雲胸像
(月照寺)
月照寺
月照寺は、もと洞雲寺と称したが、松平直政が生母月照院の霊牌を安置するため、寛文四年(1664)、改称復興したものである。以来、松江藩主松平家の菩提所ならびに念佛道場として、江戸時代二百年間、尊崇を受けて来た。
境内の松平家墓所には、九代にわたる藩主の廟が整然と鎮座している。歴代藩主および夫人の奉献した宝物を展示する宝物殿もある。
私が月照寺を訪れたのはまだ拝観時間前で境内に入ることは叶わなかった。
雷電の碑
門前には雷電之碑がある。雷電は天明八年(1788)、二十二歳のとき、松江藩主松平治郷(不昧公)にお抱え力士として召し抱えられ、不昧公より雷電為右衛門の名前を賜った。二十一年間、三十四場所の土俵生活で、二百五十八戦のうち負けたのはわずかに十回で、その勝率は古今の相撲史上第一位である。
(禅慶院)
鹿島町手結の浦は、因藩二十士のうち詫間樊六以下五名が、本圀寺事件で暗殺された黒部権之介や早川卓之丞の遺族らによって斬殺された場所である。禅慶院の本堂裏の坂を上ると、突き当りの小高い場所に彼らの墓がある。
禅慶院
遺蹟保存会の建てた顕彰碑
詫間樊六ほか四士の墓
ここに葬られているのは、詫間樊六、太田権右衛門、吉田直人、中野治平、中原忠次郎の五名。中原忠次郎は、因藩二十二士ではないが、二十士が橋津から脱出する際に支援した「義人」である。手結に奇港した際、現地の役人に怪しまれたため、交渉の結果、この五人が手結に残り、ほかは長州へ向かうことになった。どういう基準で五人が選ばれたのかはよく分からないが、ここで手結に留まったことが、彼らの命を縮めることになった。黒部権之介らの遺族は、詫間ら五人を討ち取り、報復を果たしたのである。