(内裏)

建礼門
母の手術の日となった。私も長男として立ち会うことにした。朝九時半に母が手術室に運ばれたのを見届けると、二時間ほど外を歩いた。
府立医大病院から御所は歩いて数分。私の記憶によれば、内裏と呼ばれる旧皇居は自由に見学出来たように思うが、いつしか春秋の限られた時期のみ見学が許されるようになった。今年(平成二十八年)の夏から通年公開されることになったとの情報を入手したので、この機会に参観することにした。
平日ということもあってか、訪問者は外国人が多かったが、幕末の政局の舞台となったこの場所は、日本人こそ見ておかなければならない。

清所門
内裏への入場は、西側の清所門から入る。ここで荷物検査を受け、入門証を受け取る。右手に宜秋門を見ながら南下すると、諸大夫の間に出会う。諸大夫の間は、参内した者の控えの間で、格の高い順に「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と襖絵に因んで呼ばれた。虎の間、鶴の間を使用する者は御車寄から参入したが、桜の間を使用する者は、左手の沓脱石から入った。
諸大夫の間
紫宸殿を取り囲むように朱色の回廊で仕切られている。紫宸殿の両側に月華門、日華門が向い合い、正面には承明門(じょめいもん)が建てられている。

承明門
紫宸殿は、京都御所において最も格式の高い正殿であり、即位礼などの重要な儀式もここで行われた。現存する建物は、安政二年(1855)の造営であるが、平安時代の復古様式で建てられている。慶応四年(1868)の「五箇条のご誓文」の舞台になったのもこの建物で、明治、大正、昭和の三代の天皇の即位礼もここで行われた。

紫宸殿

清涼殿
清涼殿は、平安時代中期以降、天皇の日常のお住まいとして定着した御殿であり、政事・神事などの重要な儀式もここで行われた。天正従八年(1590)に御常御殿にお住まいが移ってからは、主に儀式の際に使用された。伝統的な儀式を行うために、平安中期の建築空間や調度が古制に則って伝えられている。

小御所
慶応三年(1867)の小御所会議が開かれた小御所である。現在の建物は昭和二十九年(1954)に焼失し、昭和三十三年(1958)に復元されたものである。

御池庭
小御所の前にある美しい日本庭園は御池庭である。小御所の北には、御学問所がある。

御学問所
御学問所は、慶長十八年(1613)に清涼殿から独立した御殿で、御読書始めや和歌の会などの学芸のほか、対面にも用いられた。慶応三年(1867)、ここで明治天皇が親王・諸臣を引見し、勅諭を下して王政復古の大号令を発した。
御学問所から北に進むと、御常御殿がある。その前には御内庭が続く。
御内庭

御三間
御三間(おみま)は宝永六年(1709)に御常御殿の一部が独立したもので、七夕などの内向きの行事に使用された。万延元年(1860)、祐宮(のちの明治天皇)が八歳のとき、成長を願う儀式「深曽木(ふかそぎ)」がここで行われた。
内裏の見学はここまで。風がなく、暑い日であった。汗びっしょりであった。
(縣井)
縣井
昔この井戸のそばに縣宮(あがたのみや)という社があり、地方官吏として出世を願う者は、井戸の水で身を清めて祈願し、宮中にのぼったといわれる。この付近は、江戸時代まで五摂家の一つ一條家の敷地内となっており、この井戸水を明治天皇の皇后となった一條美子の産湯にも使われたという。
(冷泉家)
御所の北、同志社大学の敷地内に冷泉家が残されている。冷泉家は、鎌倉時代から続く家で、代々近衛中将に任官された羽林家の一つ。歌道を家業としている。藤原俊成、定家以来の国宝・重文総点五万点の典籍・古文書を今に伝え、唯一の公家住宅遺構である家屋と合わせて財団法人冷泉時雨亭文庫として保存されている。住宅は、普段は非公開であるが、たまに公開される。
幕末の当主は、冷泉為理(ためただ)。文政七年(1824)に為全の子に生まれ、弘化二年(1845)、左近衛少将に任じられ、嘉永二年(1849)中将、同年従三位に昇り、安政三年(1856)、参議となった。同五年(1857)、日米通商条約の勅許問題が起こると朝議がわきかえり、現任の大・中納言、参議の一員として外交処置につき勅問に与った。同六年(1859)、権中納言に進み、慶応元年(1865)、正二位に叙された。明治元年(1868)の即位の大礼に際して宣命使の大役を負い、新儀によって高声に即位の詔を宣読した。これは大政復古の真義を天下に周知する趣旨のものであった。その後、多病のため明治八年(1875)、家督を二男為紀に譲った。為紀は明治十七年(1884)、伯爵を授けられた。明治十八年(1885)、年六十二で没。

冷泉家
(同志社女子中学校・高等学校)
二條家邸跡
二条家は五摂家の一つ。現在の同志社女子大学大学院、大学、高等学校、中学校の敷地内に屋敷があった。平成二十六年(2014)、新校舎建設に伴う発掘調査で井戸と地下通路が発見された。

二條家検出の井戸
幕末の当主二条斉敬は、孝明天皇のもとで関白、明治天皇のときには摂政となって、朝廷の舵取りを担った。幕末には会津藩主松平容保を始め、将軍、諸大名が足繁くこの屋敷に通った。
(有栖館)
有栖川宮家は、寛永二年(1625)に創設され、その後約三百年続いた。大正二年(1913)、十代威仁(たけひと)親王の薨去の後、同年創設された高松宮家に継承された。
有栖川宮邸(上京区烏丸下立売西入)は、明治六年(1873)より一時京都裁判所の仮庁舎として使用された後、明治二十四年(1891)三月、現在地に移築され、平成十九年(2007)まで京都地方裁判所所長官舎として使用された。平成二十年(2008)、平安女学院が取得して現在に至っている。普段は非公開であるが、今回帰省中の期間に公開していたため、立ち寄ってみた。
有栖館
有栖館の庭
因みに平安女学院は私の母の母校である。大正九年(1920)、我が国で初めてセーラー服を採用した学校として知られる。有栖川館内にセーラー服が展示されていたが、これを見ても母がセーラー服を着ていた姿は想像できない。
平安女学院のセーラー服

建礼門
母の手術の日となった。私も長男として立ち会うことにした。朝九時半に母が手術室に運ばれたのを見届けると、二時間ほど外を歩いた。
府立医大病院から御所は歩いて数分。私の記憶によれば、内裏と呼ばれる旧皇居は自由に見学出来たように思うが、いつしか春秋の限られた時期のみ見学が許されるようになった。今年(平成二十八年)の夏から通年公開されることになったとの情報を入手したので、この機会に参観することにした。
平日ということもあってか、訪問者は外国人が多かったが、幕末の政局の舞台となったこの場所は、日本人こそ見ておかなければならない。

清所門
内裏への入場は、西側の清所門から入る。ここで荷物検査を受け、入門証を受け取る。右手に宜秋門を見ながら南下すると、諸大夫の間に出会う。諸大夫の間は、参内した者の控えの間で、格の高い順に「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と襖絵に因んで呼ばれた。虎の間、鶴の間を使用する者は御車寄から参入したが、桜の間を使用する者は、左手の沓脱石から入った。

諸大夫の間
紫宸殿を取り囲むように朱色の回廊で仕切られている。紫宸殿の両側に月華門、日華門が向い合い、正面には承明門(じょめいもん)が建てられている。

承明門
紫宸殿は、京都御所において最も格式の高い正殿であり、即位礼などの重要な儀式もここで行われた。現存する建物は、安政二年(1855)の造営であるが、平安時代の復古様式で建てられている。慶応四年(1868)の「五箇条のご誓文」の舞台になったのもこの建物で、明治、大正、昭和の三代の天皇の即位礼もここで行われた。

紫宸殿

清涼殿
清涼殿は、平安時代中期以降、天皇の日常のお住まいとして定着した御殿であり、政事・神事などの重要な儀式もここで行われた。天正従八年(1590)に御常御殿にお住まいが移ってからは、主に儀式の際に使用された。伝統的な儀式を行うために、平安中期の建築空間や調度が古制に則って伝えられている。

小御所
慶応三年(1867)の小御所会議が開かれた小御所である。現在の建物は昭和二十九年(1954)に焼失し、昭和三十三年(1958)に復元されたものである。

御池庭
小御所の前にある美しい日本庭園は御池庭である。小御所の北には、御学問所がある。

御学問所
御学問所は、慶長十八年(1613)に清涼殿から独立した御殿で、御読書始めや和歌の会などの学芸のほか、対面にも用いられた。慶応三年(1867)、ここで明治天皇が親王・諸臣を引見し、勅諭を下して王政復古の大号令を発した。
御学問所から北に進むと、御常御殿がある。その前には御内庭が続く。

御内庭

御三間
御三間(おみま)は宝永六年(1709)に御常御殿の一部が独立したもので、七夕などの内向きの行事に使用された。万延元年(1860)、祐宮(のちの明治天皇)が八歳のとき、成長を願う儀式「深曽木(ふかそぎ)」がここで行われた。
内裏の見学はここまで。風がなく、暑い日であった。汗びっしょりであった。
(縣井)

縣井
昔この井戸のそばに縣宮(あがたのみや)という社があり、地方官吏として出世を願う者は、井戸の水で身を清めて祈願し、宮中にのぼったといわれる。この付近は、江戸時代まで五摂家の一つ一條家の敷地内となっており、この井戸水を明治天皇の皇后となった一條美子の産湯にも使われたという。
(冷泉家)
御所の北、同志社大学の敷地内に冷泉家が残されている。冷泉家は、鎌倉時代から続く家で、代々近衛中将に任官された羽林家の一つ。歌道を家業としている。藤原俊成、定家以来の国宝・重文総点五万点の典籍・古文書を今に伝え、唯一の公家住宅遺構である家屋と合わせて財団法人冷泉時雨亭文庫として保存されている。住宅は、普段は非公開であるが、たまに公開される。
幕末の当主は、冷泉為理(ためただ)。文政七年(1824)に為全の子に生まれ、弘化二年(1845)、左近衛少将に任じられ、嘉永二年(1849)中将、同年従三位に昇り、安政三年(1856)、参議となった。同五年(1857)、日米通商条約の勅許問題が起こると朝議がわきかえり、現任の大・中納言、参議の一員として外交処置につき勅問に与った。同六年(1859)、権中納言に進み、慶応元年(1865)、正二位に叙された。明治元年(1868)の即位の大礼に際して宣命使の大役を負い、新儀によって高声に即位の詔を宣読した。これは大政復古の真義を天下に周知する趣旨のものであった。その後、多病のため明治八年(1875)、家督を二男為紀に譲った。為紀は明治十七年(1884)、伯爵を授けられた。明治十八年(1885)、年六十二で没。

冷泉家
(同志社女子中学校・高等学校)

二條家邸跡
二条家は五摂家の一つ。現在の同志社女子大学大学院、大学、高等学校、中学校の敷地内に屋敷があった。平成二十六年(2014)、新校舎建設に伴う発掘調査で井戸と地下通路が発見された。

二條家検出の井戸
幕末の当主二条斉敬は、孝明天皇のもとで関白、明治天皇のときには摂政となって、朝廷の舵取りを担った。幕末には会津藩主松平容保を始め、将軍、諸大名が足繁くこの屋敷に通った。
(有栖館)
有栖川宮家は、寛永二年(1625)に創設され、その後約三百年続いた。大正二年(1913)、十代威仁(たけひと)親王の薨去の後、同年創設された高松宮家に継承された。
有栖川宮邸(上京区烏丸下立売西入)は、明治六年(1873)より一時京都裁判所の仮庁舎として使用された後、明治二十四年(1891)三月、現在地に移築され、平成十九年(2007)まで京都地方裁判所所長官舎として使用された。平成二十年(2008)、平安女学院が取得して現在に至っている。普段は非公開であるが、今回帰省中の期間に公開していたため、立ち寄ってみた。

有栖館

有栖館の庭
因みに平安女学院は私の母の母校である。大正九年(1920)、我が国で初めてセーラー服を採用した学校として知られる。有栖川館内にセーラー服が展示されていたが、これを見ても母がセーラー服を着ていた姿は想像できない。

平安女学院のセーラー服