史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

川崎 Ⅱ

2017年05月20日 | 神奈川県
(川崎大師)


川崎大師(平間寺)

 文久二年(1862)の生麦事件で薩摩藩の大名行列と交錯したイギリス人の四名は、ボートで神奈川まで行き、そこで馬を借りて東海道に出て、生麦村を通過して川崎に進む予定であった。茶屋で休憩してから川崎大師を見物して戻るというコースは、当時「ザ・アベニュー」と呼ばれて外国人に人気が高かった。アベニューとは「並木通り」を意味し、東海道の並木道を指している。街道筋には宿屋や土産物屋が並び賑やかであった。並木の合間から所々富士山が見えた。反対側には、紺碧の海と白い帆を膨らませた船が快走していた。横浜から約二十五マイルという絶好の遠出コースであった。
 彼らが目指した川崎大師(平間寺)は、大治三年(1128)の開創。古くから「厄除けの大師さま」として知られ、広い境内に今も大勢の人たちが集まる。

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大森 Ⅳ

2017年05月20日 | 東京都
(蘇峰公園)


蘇峰公園

JR京浜東北線大森駅から徒歩で約十五分。尾崎士郎記念館のすぐ近くに徳富蘇峰旧宅跡を公園化した蘇峰公園がある(大田区山王1‐41‐21)。
 蘇峰がこの地に居宅を構えていたのは、大正十三年(1924)から昭和十八年(1943)の約二十年間。蘇峰は邸宅を山王草堂と名付けて、執筆活動に専念した。
 邸内には、蘇峰の収集した和漢の書籍十万冊を収蔵した成簣堂文庫や山王草堂が建築中に書斎として建てられた一枝庵、蘇峰の二男萬熊の住居として建てられた牛後庵などもあったが、現在は残っておらず、推定される場所に碑が建てられているのみである。


蘇峰菅原正敬(銅像台座)

 邸内には蘇峰の胸像が置かれていた台座が残っている。この胸像は、戦時中に供出されたため、今は台座のみとなっている。


山王草堂胸像前にて(昭和四年)


徳富蘇峰胸像


山王草堂記念館
蘇峰の書斎を再現したもの

 蘇峰公園内の大田区立山王草堂記念館では、蘇峰ゆかりの資料を保存・公開している。蘇峰は多作の作家としてギネス・ブックにも記録されている。中でも大正七年(1918)、五十六歳のときに着手し、昭和二十七年(1952)、九十歳で完成した「近世日本国民史」は蘇峰の代表作といわれる。
 蘇峰は勝海舟とも深い交流があった。記念館には「蘇峰と海舟」というコーナーが設けられている。
 蘇峰の弟蘆花とは、主義主張の違いから長く絶縁状態が続いていた。昭和二年(1927)蘇峰六十五歳のとき、蘆花が静養先の伊香保で危篤となったとき、両者は久しぶりに再会を果たした。平和主義を貫く蘆花と日本の軍事強化を後押しした蘇峰とは、水と油ほど主張が違った。その蘇峰が日本の敗戦まで生き抜き、軍国主義の崩壊まで見届けたのは、皮肉としか言いようがない。蘇峰は終戦とともに、一切の公職、栄誉を辞退したというが、彼の心中は大きな失望で占められていたに違いない。
 蘇峰は昭和三十二年(1957)、熱海伊豆山晩晴草堂にて逝去。九十五歳。
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芦花公園

2017年05月20日 | 東京都
(蘆花恒春園)


徳富蘆花旧宅


蘆花恒春園

 最寄りの駅は、京王線芦花公園駅である。駅名は「芦花」であるが、その名のもととなった公園名は「蘆花」である(世田谷区粕谷1‐20‐1)。
 蘆花恒春園は、文豪徳富蘆花(健次郎)が明治四十年(1907)、四十歳のときから二十年間を過ごした場所である。名の由来は、台湾の南端の恒春に因む。蘆花はこの地名を気にいり「永久に若い」という意味を込めて自宅に転用した。園内には、蘆花の作品や遺品を展示する蘆花記念館や、かつて蘆花が起居した茅屋、愛子夫人が蘆花の没後、居住した住宅などが移築・展示されている。蘆花はこの地で晴耕雨読の生活を送ったといわれる。昭和二年(1927)、病気療養のために転地した伊香保で死去した。五十八歳であった。
 徳富蘆花の代表作といえば、「不如帰」が有名であるが、個人的には関寛斎の晩年の姿を描いた小編を含む「みみずのたはこと」の作者として記憶に刻まれている。蘆花は「みみずのたはこと」をこの地で執筆し、大正二年(1913)、発表した。


梅花書屋
白鶴翁筆

 梅花書屋は、蘆花が明治四十二年(1909)に松沢町北沢(現・世田谷区)に売屋があるとの情報を得て、早速見に行って手付を渡し、手に入れた建物である。室内に掲げられている横額は薩摩の書家鮫島白鶴翁の筆によるものであり、蘆花の父徳富一敬から譲られたものである。白鶴は、西郷隆盛の書の師である。


徳富蘆花夫妻之墓

 恒春園に隣接した場所に徳富蘆花夫妻の墓がある。墓碑は、兄徳富蘇峰の筆による。墓誌は、蘆花死去の直後、やはり蘇峰によって漢文で記され、石盤に刻まれてこの墓に納められている。

(粕谷共同墓地)
 蘆花恒春園内に墓地があり、その入口付近に下曽根信守の墓がある。下曽根信守は、千歳教会堂に務めた牧師で、千歳村の人々に厚く信頼され、最期は皆に看取られたとされる。蘆花は「みみずのたはごと」の中で下曽根牧師への追悼を述べている。


故下曽根信守墓

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