(川崎大師)

川崎大師(平間寺)
文久二年(1862)の生麦事件で薩摩藩の大名行列と交錯したイギリス人の四名は、ボートで神奈川まで行き、そこで馬を借りて東海道に出て、生麦村を通過して川崎に進む予定であった。茶屋で休憩してから川崎大師を見物して戻るというコースは、当時「ザ・アベニュー」と呼ばれて外国人に人気が高かった。アベニューとは「並木通り」を意味し、東海道の並木道を指している。街道筋には宿屋や土産物屋が並び賑やかであった。並木の合間から所々富士山が見えた。反対側には、紺碧の海と白い帆を膨らませた船が快走していた。横浜から約二十五マイルという絶好の遠出コースであった。
彼らが目指した川崎大師(平間寺)は、大治三年(1128)の開創。古くから「厄除けの大師さま」として知られ、広い境内に今も大勢の人たちが集まる。

川崎大師(平間寺)
文久二年(1862)の生麦事件で薩摩藩の大名行列と交錯したイギリス人の四名は、ボートで神奈川まで行き、そこで馬を借りて東海道に出て、生麦村を通過して川崎に進む予定であった。茶屋で休憩してから川崎大師を見物して戻るというコースは、当時「ザ・アベニュー」と呼ばれて外国人に人気が高かった。アベニューとは「並木通り」を意味し、東海道の並木道を指している。街道筋には宿屋や土産物屋が並び賑やかであった。並木の合間から所々富士山が見えた。反対側には、紺碧の海と白い帆を膨らませた船が快走していた。横浜から約二十五マイルという絶好の遠出コースであった。
彼らが目指した川崎大師(平間寺)は、大治三年(1128)の開創。古くから「厄除けの大師さま」として知られ、広い境内に今も大勢の人たちが集まる。