(多磨霊園つづき)
本多庸一之墓
本多庸一は、嘉永元年(1848)、弘前藩士本多久元の長男に生まれた。稽古館に学び、維新に際しては菊池九郎らとともに奥羽列藩同盟のために奔走したが、のち藩論が変ずると脱藩して庄内藩に走った。明治元年(1868)の末、脱藩の罪を赦されて弘前に戻った。明治三年(1870)、弘前藩より選ばれて、英語学習のために横浜に派遣されてブラウン塾に学んだ。明治五年(1872)基督教に入信し、帰郷して東奥義塾の塾長となって弘前教会開設に当った。継いで民権運動を指導し、明治十五年(1882)には青森県議会議長となった。その後、伝道に専心し、青山学院長、日本メソジスト教会初代監督となり、日本プロテスタント伝道の代表的人物として重きを成した。広島、長崎に伝道中、明治四十五年(1912)長崎で没した。年六十五。【4区1種35側】
百敗院泡沫頑蘇居士(徳富蘇峰の墓)
淇水先生墓(徳富一敬の墓)
徳富家の墓域に徳富蘇峰の墓と並んで、蘇峰・蘆花の父、徳富一敬(淇水)の墓がある。
徳富一敬(いっけい)は、文政五年(1822)、惣庄屋徳富美信の長男に生まれた。横井小楠門下の秀才であり、熊本藩政改革の中心人物であった。十五歳の時、熊本に出、時習館で勉学を修めた。天保十三年(1842)、父の病気のため惣庄屋代役として新地開拓で功をたてた。弘化二年(1845)、小楠の門に入り、物質的にも小楠を支援した。留学七年、帰省して室学主義の民政を行った。明治三年(1870)、熊本県庁に召され奉行所書記・録事兼務・民政小属を経て大属として活躍。明治六年(1873)、辞職。野にあって教育に活躍した。大正三年(1914)、年九十三にて没。【6区1種8側】

本多庸一之墓
本多庸一は、嘉永元年(1848)、弘前藩士本多久元の長男に生まれた。稽古館に学び、維新に際しては菊池九郎らとともに奥羽列藩同盟のために奔走したが、のち藩論が変ずると脱藩して庄内藩に走った。明治元年(1868)の末、脱藩の罪を赦されて弘前に戻った。明治三年(1870)、弘前藩より選ばれて、英語学習のために横浜に派遣されてブラウン塾に学んだ。明治五年(1872)基督教に入信し、帰郷して東奥義塾の塾長となって弘前教会開設に当った。継いで民権運動を指導し、明治十五年(1882)には青森県議会議長となった。その後、伝道に専心し、青山学院長、日本メソジスト教会初代監督となり、日本プロテスタント伝道の代表的人物として重きを成した。広島、長崎に伝道中、明治四十五年(1912)長崎で没した。年六十五。【4区1種35側】

百敗院泡沫頑蘇居士(徳富蘇峰の墓)

淇水先生墓(徳富一敬の墓)
徳富家の墓域に徳富蘇峰の墓と並んで、蘇峰・蘆花の父、徳富一敬(淇水)の墓がある。
徳富一敬(いっけい)は、文政五年(1822)、惣庄屋徳富美信の長男に生まれた。横井小楠門下の秀才であり、熊本藩政改革の中心人物であった。十五歳の時、熊本に出、時習館で勉学を修めた。天保十三年(1842)、父の病気のため惣庄屋代役として新地開拓で功をたてた。弘化二年(1845)、小楠の門に入り、物質的にも小楠を支援した。留学七年、帰省して室学主義の民政を行った。明治三年(1870)、熊本県庁に召され奉行所書記・録事兼務・民政小属を経て大属として活躍。明治六年(1873)、辞職。野にあって教育に活躍した。大正三年(1914)、年九十三にて没。【6区1種8側】