(三渓園)
三渓園
この日、横浜は雨だった。しかし、花の盛りはこの週末を逃すと、あと一年待たなくてはいけない。意を決して三渓園を訪ねることにした。
三渓園へは、JR根岸駅からバスで十分。本牧というバス停で下車すれば、あとは歩いて七~八分である。
三渓園は、明治末から大正にかけて製糸・生糸貿易で財を成した横浜の実業家・原三渓(富太郎)が築いた壮大な庭園である。京都や鎌倉から移築された十七棟の歴史的建造物や、四季折々の自然を活かした庭が見どころである。雨で足元はぬかるみ、ズボンの裾は泥で汚れてしまった。やはり良い天気の日に訪ねたい。
松風閣
この場所は明治初年に原善三郎が購入し、明治二十年代に山上に松風閣を建てたことに始まる。富太郎が三渓園として造園に着手したのは、善三郎が亡くなった明治三十二年(1899)以降のことである。
原善三郎が別荘として建てた松風閣は、伊藤博文により命名されたもの。大正十二年(1923)の関東大震災により倒壊、焼失した。今、わずかにその残骸を見ることがきできる。
三渓園
この日、横浜は雨だった。しかし、花の盛りはこの週末を逃すと、あと一年待たなくてはいけない。意を決して三渓園を訪ねることにした。
三渓園へは、JR根岸駅からバスで十分。本牧というバス停で下車すれば、あとは歩いて七~八分である。
三渓園は、明治末から大正にかけて製糸・生糸貿易で財を成した横浜の実業家・原三渓(富太郎)が築いた壮大な庭園である。京都や鎌倉から移築された十七棟の歴史的建造物や、四季折々の自然を活かした庭が見どころである。雨で足元はぬかるみ、ズボンの裾は泥で汚れてしまった。やはり良い天気の日に訪ねたい。
松風閣
この場所は明治初年に原善三郎が購入し、明治二十年代に山上に松風閣を建てたことに始まる。富太郎が三渓園として造園に着手したのは、善三郎が亡くなった明治三十二年(1899)以降のことである。
原善三郎が別荘として建てた松風閣は、伊藤博文により命名されたもの。大正十二年(1923)の関東大震災により倒壊、焼失した。今、わずかにその残骸を見ることがきできる。