史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

根岸

2017年05月13日 | 神奈川県
(三渓園)


三渓園

 この日、横浜は雨だった。しかし、花の盛りはこの週末を逃すと、あと一年待たなくてはいけない。意を決して三渓園を訪ねることにした。
 三渓園へは、JR根岸駅からバスで十分。本牧というバス停で下車すれば、あとは歩いて七~八分である。
 三渓園は、明治末から大正にかけて製糸・生糸貿易で財を成した横浜の実業家・原三渓(富太郎)が築いた壮大な庭園である。京都や鎌倉から移築された十七棟の歴史的建造物や、四季折々の自然を活かした庭が見どころである。雨で足元はぬかるみ、ズボンの裾は泥で汚れてしまった。やはり良い天気の日に訪ねたい。


松風閣

 この場所は明治初年に原善三郎が購入し、明治二十年代に山上に松風閣を建てたことに始まる。富太郎が三渓園として造園に着手したのは、善三郎が亡くなった明治三十二年(1899)以降のことである。
 原善三郎が別荘として建てた松風閣は、伊藤博文により命名されたもの。大正十二年(1923)の関東大震災により倒壊、焼失した。今、わずかにその残骸を見ることがきできる。

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日野 Ⅴ

2017年05月13日 | 東京都
(大昌寺 つづき)

 馬場家先祖代々の墓に、馬場平助が合葬されている。馬場平助は、日野宿で荒物商を営む傍ら、天然理心流を学んだ。八坂神社の奉納額にも名を連ねている。文久三年(1863)、浪士組に参加して上洛したが東帰し、新徴組に加わった。江戸警備に活躍後、慶応四年(1868)には庄内戦争に参加した。明治十九年(1886)没。
 弟・馬場市次郎は、慶応三年(1867)十二月十五日、八王子宿壺伊勢屋事件に参加して戦死した。二十五歳。傍らの墓碑にその名前を確認することができる。


馬場家先祖代々之墓(馬場平助・市次郎の墓)

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立川 砂川

2017年05月13日 | 東京都
(流泉寺)


流泉寺

 西武新宿線武蔵砂川駅から徒歩で十分。流泉寺は、意外なほど広い墓地を持つ寺である。その墓地で、ひらすら「山崎家の墓」を一つひとつ確かめて、山崎兼助の墓を特定した。


先譽勇進信士(山崎兼助の墓)

 山崎兼助は、慶應三年(1867)十二月十五日に八王子で起こった壺伊勢屋事件において、佐藤彦五郎の配下の一人として壺伊勢屋を襲撃し、そこで負った背中の傷が原因で、十八日に亡くなった。一説に岡っ引きだったという。山崎兼助は、日野の大昌寺に葬られたが、その後その墓の行方は分からなくなっていた。最近になって砂川の流泉寺にあることが判明した。なお墓石側面には「俗名 山崎兼補」と刻まれている。


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八王子 Ⅸ

2017年05月13日 | 東京都
(伊勢屋)


伊勢屋

 慶應三年(1867)十二月十四日、甲府城を乗っ取ることを目的とした浪士団(首領は上田修理)が、三田の薩摩藩邸を出立し、翌日八王子に到着した。彼らは妓楼の壺伊勢屋孝右衛門方に宿泊した。その数十二名と記録される。それにしてもわずか十名程度で城を乗っ取ろうなど、豪胆というか無謀というか…。結果からいうと、やはり無謀だったのであろう。韮山代官江川太郎左衛門の送り込んだ密偵であった原宗四郎は、浪士の一部を壺伊勢の向いの柳瀬屋に誘い出し、浪士団の分断に成功した。直ちに日野宿の佐藤彦五郎に通報し、彦五郎は追手を連れて壺伊勢を襲った。激しい戦闘となり、浪士側は六名が死亡、日野側も二人が命を落とした。
 当時、壺伊勢は甲州街道沿いの浅川に面した場所にあったとされる。伊勢屋は今、呉服屋と和菓子屋として、商店街で営業を続けている。伊勢屋のマークが壺型をしているのが、辛うじて「壺伊勢」を偲ぶよすがとなっている。


壺伊勢

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