史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

上中里 Ⅱ

2017年05月06日 | 東京都
(円勝寺)


円勝寺


勇進院剛譽浄心居士(佐藤元次郎の墓)

 円勝寺は芝増上寺の末寺である。慶応四年(1868)五月十五日の上野戦争の際、落ち延びて来た彰義隊士を迎え、庫裏の下に畳二畳ほどの穴を掘って匿ったとの言い伝えが残る。

 墓地に佐藤元次郎(もとじろう)の墓がある。佐藤元次郎は、彰義隊士。御数寄屋御坊主伊佐三悦の二男に生まれた。佐藤は、彰義隊入隊の際に名乗った仮姓と思われる。慶応四年(1868)の上野戦争で戦死。行年は不詳。墓碑には慶應四年(1868)閏四月七日となっている。

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石川町 Ⅶ

2017年05月06日 | 神奈川県

(横浜外人墓地つづき)
 ようやく桜の開花の報が届く季節となった。まだ肌寒い日が続いているが、一年振りに横浜外国人墓地を歩くことにした。まだシドモアの墓の前の桜の蕾は固かった。

 シモンズは、明治三十一年(1898)七月、カナダ太平洋鉄道会社所有の小蒸気船と帆走中の日本の小貨物船の衝突により、メソジスト・エピスコバル教会の女性宣教師シモンズが死去した。シモンズが来日したのは、明治二十二年(1889)の四月のことで、初め長崎の活水女学校で美術などを教え、四年後に横浜に移って伝道者養成のための美会神学校や日曜学校で教えた。この年の夏、他の宣教師とともに休暇で帰国することになったが、仕事が残っていたので、遅らせることにして先に帰国する宣教師を見送った帰りに事故に遭った。


Susan Higgins

 ヒギンスは、明治十一年(1878)来日。コレル女史の始めた少女のための学校を引き継いだが、不幸にして来日九か月目で病のため死去した。彼女を記念して集められた基金がアメリカから届き、聖経女学校(のちの青山学院大学の前身の一つ)の建設に役立った。


Margaret Tate Kinnear Ballagh

 バラ夫人は、文久元年(1861)十一月、来日。まだ二十歳という若い宣教師であった。夫も同じく宣教師で、八歳年上であった。
 バラ夫妻は、当初ヘボン邸、ついでアメリカ領事館に間借りしていたが、元治元年(1864)初頭、ブラウンと共同で横浜に土地を取得した。この場所はのちに横浜ユニオン教会の要地となった。バラの日本語教師をしていた医師矢野隆仙(玄隆)は、やがてキリスト教に興味を抱くようになり、バラは矢野とともに中国語訳聖書の和訳を始めた。矢野はやがて信仰を告白し、ヘボン立会のもと、バラにより洗礼を受けた。その頃、ヘボンは英語塾を開いていた。門下に林董(のちの外務大臣)、高橋是清(のちの総理大臣)がいる。バラ夫人は、ヘボン不在時には代理で英語教師を務めていたという。維新後にはバラ塾と呼ばれる英語塾を開き、英語や聖書を教えた。バラ塾には押川正義、本多庸一、熊野雄七、植村正久、山本秀煌らが集まり、いずれもバラから洗礼を受けた。彼らはブラウン塾に移り、我が国のプロテスタント教会の指導者に成長していった。バラ夫人は明治四十二年(1909)、六十九歳で死去。バラはその後も伝道を続け大正八年(1919)帰国。再来日を望みつつ、翌年八十六歳の生涯を閉じた。


Joseph Leimert
Thomas Bryan
John H. Barker

 明治五年(1872)八月二十四日、横浜構内でアメリカ号が炎上する事件が起きた。アメリカ号は当時最大の木造蒸気船であった。この前年の十二月、岩倉使節団をサンフランシスコに運んだのもアメリカ号であった。横浜に到着したアメリカ号では、積荷を下すとともに、香港向けの貨物を積み込んだが、その際大量の石炭が積み込まれたことが事故を大きくした。その日の夜十一時頃、船員が積荷の干し草から出火しているのを発見。ただちに消防ポンプで消化にあたったが、火の勢いが強く、燃え広がるばかりであった。船員は消火を諦め、ボートを降ろして乗客の救出を図ったが、ボートに乗れなかった乗客は海に飛び込んだため溺死者も出たという。犠牲者数は六十名を越えた。
 ここに葬られているのは、この事故の犠牲となった三人の船員である。ライマートは操舵室監視員、ブライアンはコック長、バーカーは機関室倉庫係であった。


Edward Cornes
Alida Cornes
Edward D. Cornes

 コーンズ一家の墓である。コーンズは宣教師で、フルベッキの推薦により大学南校で英語を教えていた。一家は、明治三年(1870)八月一日、旅客船シティ・オブ・エド号の汽缶の破裂によって即死した。この事故で日本人の即死者は十一人、負傷者のうち重傷の六十二人がのちに死亡した。外国人の乗員、乗客十二人のうち即死はコーンズ一家四名を含む五名。コーンズ夫妻は、一歳半くらいの長男エドワード、二男ハリー(生後三か月)とイギリス人の子守りと日本人の子守りの六人で横浜に向かうところであった。このうち、コーンズ夫妻と長男、イギリス人の子守りが犠牲となり、赤ん坊であったハリーだけが生き残った。


Charles Wirgman

 ワーグマンの墓は、典型的な家型である。ワーグマンはイギリス・ロンドンの出身。「絵入りロンドン・ニュース」から日本に派遣されワーグマンが来日したのは、文久元年(1861)四月。到着したのは長崎であった。初代総領事オールコックに同行して陸路江戸まで旅をし、その際のスケッチはオールコックの「大君の都」に収録されている。江戸に着いた翌日の夜、イギリス公使館が置かれていた東禅寺が水戸浪士に襲撃される事件に遭遇し、その時描いたスケッチは、「絵入りロンドン・ニュース」のスクープとなった。横浜に落ち着いたワーグマンは、漫画雑誌「ジャパン・パンチ」の刊行を始めた。一時帰国したため「ジャパン・パンチ」も中断したが、再来日とともに写真家ベアトと共同のスタジオを開いた。元治元年(1864)八月にはイギリス軍艦ユーリアラス号に搭乗し、四か国連合艦隊による下関砲撃に従軍している。慶応元年(1865)には「ジャパン・パンチ」を再開し、明治二十年(1887)までの二十五年にわたって刊行されることになった。ワーグマンは高橋由一、五姓田芳松など我が国黎明期の日本洋画界を担う画家を育てた。「ジャパン・パンチ」は日本人の手になる風刺漫画にも大きな影響を与えた。明治二十一年(1888)、イギリスに帰国して展覧会を開いた。再び日本に戻った頃には精神を患っており、闘病生活ののち、明治二十四年(1891)、五十八歳で死去した。


Mary Anne Verbeck
Bernard Verbeck

 フルベッキの子女の墓である。大隈重信や副島種臣、陸奥宗光、前島密、さらには横井小楠の甥、横井左平太、太平兄弟や岩倉具視の子息岩倉具定、具経兄弟などがフルベッキの教えを受けている。フルベッキは来日以来、マリア夫人との間に七男四女をもうけたが、そのうち四女メアリーと六男バーナードはいずれも生後約半年で死去し、横浜外人墓地に眠っている。


下関戦争戦没者記念碑

 イギリス招魂記念碑の傍らに、小学校のゴミ焼却炉のような恰好をしたモニュメントがある。元治元年(1864)の四か国連合艦隊による下関砲撃は、連合艦隊の勝利に終わったが、この戦闘でイギリス軍八名、フランス軍二名の戦死者が出た。イギリス軍人戦死者の慰霊のため、イギリス軍人墓域にこの記念碑が建立された。


Walter Raymond Hallowell Carew

 明治二十五年(1892)、ウォルター・カリューは、横浜ユナイテッド・クラブとして来日した。十五歳年下の妻イーデスとの間に長男ベンジャミンをもうけ、子供のために家庭教師としてジェイコブを雇った。ウォルターは日本レース・クラブの書記やモスキート・ヨット・クラブの初代理事を務めた。イーデスはテニスや乗馬を楽しみ、アマチュア演劇のスターでもあった。傍目には人も羨むような居留地の上流階級の生活を謳歌していた。ところが、明治二十九年(1896)十月、ウォルターは急死。遺体を解剖すると、すべての臓器、特に肝臓から砒素が検出された。裁判が開かれ、イーデスが砒素を含む薬剤を大量に購入していたことや、ウォルターに薬を飲ませるチャンスがあったのはイーデスだけだったことから、イーデスに嫌疑がかけられた。裁判が進むにつれ、ウォルターが止痛剤として砒素を服用していたことや、イーデスと若い銀行員との間で交わされた恋文の存在、アニー・リュークという謎の女性の名前が浮上するなど、事件はミステリアスかつスキャンダラスなものとなり、居留地の人たちの耳目を集めた。陪審員は全員一致でイーデスの絞首刑の判決を下す。英照皇太后(孝明天皇妃)の逝去に伴う大赦令が発せられ、終身重労働刑に減刑され、香港植民地刑務所に送られることになった。さらに1910年、ジョージ五世の即位に伴う大赦によって、イーデスは釈放されるまで十四年間を獄中で過ごした。1958年、イーデスはディナス・クロスという海辺の小さな村で、九十歳の生涯を閉じた。
 カリューは本当にイーデスに毒殺されたのか。結局、真相は今も歴史の闇の中である。元サンデー毎日の記者村岡隆夫氏が、カリューの裁判からイーデスの生涯まで執拗に追った「横浜・山手の出来事」というノン・フィクションが刊行されているらしい。次に読んでみることにしたい。
 カリューの墓は、外人墓地の南東角(1区)にある。通常の公開ルートにないため、この写真は外から撮影したもの。このとき石段を踏み外した拍子に鉄柵で膝を強打した。しばらく身動きできないくらいの激痛であった。


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御所 Ⅶ

2017年05月06日 | 京都府
(梨木神社)
 御所の東に隣接している梨木神社は、三条実美とその父、実万が祀られている。ここは三条家の旧屋敷跡に当たる。


梨木神社


宝祚之隆当与天壌無窮者矣



頌徳碑

 三条実美の顕彰碑である。実美の死後、明治二十五年(1892)、有栖川熾仁親王の篆額、京都府知事北垣国道の選ならびに書で建立されたものである。

(十津川屋敷跡地)


十津川屋敷跡地

 ちょうと新島襄邸の裏側辺りに十津川屋敷跡地を示す石碑がある(下切通上ル新烏丸頭町191‐1)
 文久三年(1863)八月、寺町通り三条下ルの円福寺に十津川郷屯所を定め、郷士およそ二百名で御所守衛の任に就いた。屯所はこの後諸所に移ったが、御所に近い場所に屋敷を希望し、元治元年(1864)十一月、現在石碑の立つ新烏丸切通シに十津川屋敷を建設することになった。完成は慶應元年(1865)四月松であった。
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