(妻女山)
妻女山からの眺望
朝四時に起床。一階に降りたらリビングの水槽の中の金魚が死んでいた。子供たちがまだ幼稚園の頃、金魚すくいで入手したのもので、いつしかフナみたいな大きさになった。正確には分からないが最低でも十五年は生きていた。死因はほぼ老衰であろう。
さすがに早朝の高速道路は快調である。約二時間半で最初の目的地である妻女山山頂(標高411メートル)に行き着くことができた。
妻女山は、その昔川中島の合戦で、上杉謙信が陣を置いたとされる場所で、山頂からは武田信玄が築いた海津城や川中島を見渡すことができる。
この場所に明治二年(1869)、松代藩主真田幸民の発案で、戊辰戦争で戦死した松代藩士五十二名を祀るために招魂社が建立された。その後、日清・日露、太平洋戦争に至る郷土の戦没者を合祀している。
松代招魂社
戊辰戦没者の墓標
社殿の背後には軍夫を含む松代藩戊辰戦没者の墓標が並べられている。この場所は、幕末松代藩が銃撃隊の訓練を行った場所であり、その縁でここに招魂社の立地に選ばれたという。
松代藩戦没者招魂碑
招魂碑は、小松宮彰仁親王篆額、山県有朋撰文により明治二十九年(1896)に建立されたものである。
(西楽寺)
西楽寺の住所は松代町西条。松代町でもかなり外れになるが、松代藩初代藩主真田信之の三男で慶安元年(1648)に死去した真田信重の霊屋がある。この霊屋は信重の没後間もなく建立されたものらしい。
西楽寺
真田信重霊屋
松代藩士の墓
(藤田金蔵 増田将曹)
本堂脇に藤田金蔵と増田将曹という二人の松代藩士の墓が並んで置かれている。
藤田金蔵は、銃兵卒。三番小隊。西条村の出。慶應四年(1868)六月二十一日、越後三仏生村にて負傷。のち死亡。四十一歳。
増田将曹は城下士。五番狙撃隊。慶応四年(1868)、六月二十日、越後久田村にて負傷。のち死。二十二歳。
松代町内の戦没藩士の墓石の特徴としては、側面に戦死地などが記録されていること、台座に「遺體」「埋分骨」等々、埋葬方法が明記されている点にある。西楽寺の墓石には、両方とも「遺體」と刻まれている。
(法泉寺)
法泉寺
同じく西条にある法泉寺には、やはり戊辰戦争で戦死した松代藩士佐々木作治と禰津千馬之介の墓がある。
松代藩佐々木作治高照墓
佐々木作治は銃兵卒。一番小隊。慶應四年(1868)七月二十六日、越後陣ヶ峰にて戦死。三十六歳。墓側面には辞世だろうか、流麗な文字で刻まれているが、残念ながら読み取れない。
松代藩禰津千馬之介墓
佐々木作治の墓のすぐ近くに禰津千馬之介の墓がある。禰津千馬之介は城下士。司令士加勢。慶応四年(1868)、七月二十九日、越後宮内村にて戦死。三十二歳。
(蓮乗寺つづき)
松代藩山本庫野之助墓
山本庫之助は銃卒。五番小隊。明治元年(1868)九月十一日、会津熊倉村にて戦死。二十六歳。
和田家累代之墓
和田家累代の墓に、和田(旧姓横田)英(えい)が眠る。和田英は、安政四年(1857)、松代藩士横田数馬の家に生まれ、十七歳のとき、松代藩副区長だった父の勧めで伝習工女として富岡製糸場で器械製糸技術を習得。帰郷して日本初の民間蒸気器械製糸場、埴科郡西条村の六工社の教師となり、技術指導に当たった。修業当時に記した「富岡日記」は、明治の先進的女性の記録として知られる。昭和四年(1929)、七十二歳で没。
(長国寺つづき)
戊辰戦没者の墓を訪ねて、再び長国寺の墓地を歩いた。墓に気を取られて縁石を踏み外し、スネを擦りむいてしまった。思わず悲鳴を上げそうになるほどの激痛でありました。
なかなか発見できずに墓地内をウロウロしていると、墓地の掃除に訪れた方に「何かお探しですか」と訊かれた。この方は寺の墓の生き字引のような方であった。「藤井家の墓はすぐそこと向う側の二か所、海野家はその左側」と実に正確に教えていただいた。本当に助かった。
松代藩森山熊之助墓
森山熊之助は城下士。七番狙撃隊。慶応四年(1868)七月二十五日、越後与板原村にて戦死。三十四歳。
松代藩藤井芳郎墓
藤井芳郎は士分。司令士加勢。明治元年(1868)九月十一日、会津熊倉村にて戦死。三十一歳。
松代藩海野寛男墓
海野寛男は六番狙撃隊長。慶応四年(1868)七月二十六日、越後妙見にて負傷。十月二十九日、松代病院にて死亡。三十四歳。
(願行寺つづき)
松代藩三輪六十郎墓
三輪六十郎は城下士。六番狙撃隊。明治元年(1868)九月十一日、会津熊倉村にて負傷。十月二十九日、五泉病院にて死亡、三十四歳。