史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

下鴨神社 Ⅲ

2018年07月06日 | 京都府
(西園寺)


西園寺

 西園寺は、鎌倉時代に藤原公経が衣笠山麓北山第に建立した仏堂に始まる寺院である。同地は室町時代に足利氏の所有に帰したため、移転して天正年間に現在地に移った。
 西園寺には西園寺家の墓地がある。本堂の扁額「西園寺」は、西園寺公望四十四歳の時の書。


西園寺公望書 西園寺
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出町柳 Ⅱ

2018年07月06日 | 京都府
(常林寺)
 通称「萩の寺」常林寺は天正元年(1573)の創建。当時は寺町荒神口にあった。寛文十一年(1671)に寺町の大火により堂宇を悉く焼失した。その後、現在地に移転して、元禄十一年(1698)本堂が再建された(左京区田中下柳町33)。
 幕末、勝海舟が常林寺を京都における常宿として利用した。海舟を訪ねた中岡慎太郎や坂本龍馬も本堂に宿泊したとされる。


常林寺
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久御山

2018年07月06日 | 京都府
(東一口)
 久御山(くみやま)町東一口は、「ひがしいもあらい」と読む。どう頭を捻っても読めない難読地名である。一説に巨椋池に囲まれた場所で、陸続きだったのが「一口」しかなかったからこの地名が付いたとも。「いもあらい」は「忌み祓い」が転じたものだともいわれるが、定説はない。
 山田家住宅は、東一口の漁業権の総帥の家。主屋の規模は当時の三分の一程度に縮小されているものの、書院の間や欄間等に往時の姿をとどめている。長屋門は当家の玄関を飾るにふさわしい重厚なもので、総欅の扉がもち、軒の塗り籠め仕上げ、出格子やその小屋根など、いずれも雄渾な造りである。


山田家住宅

(華台寺)
 明治四十五年(1912)、当時の御牧村村長山田與四五朗の遺徳を顕彰するために菩提寺である華台寺の門前に石碑が建てられた。撰文は衆議員議員奥繁三郎。篆額は西園寺公望。奥は山田村長のもと、御牧小学校の教育を務め、のちに政治家となり西園寺のもとで立憲政友会の幹事長の職を務め、衆議員議員にもなった人物である。


華台寺


山田翁頌徳碑


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大宮 Ⅴ

2018年07月06日 | 京都府
(武信稲荷神社)
 六角獄舎の近くに武信稲荷神社がある。この神社は、平安時代この近くにあった藤原氏の学問所勧学院と医療施設延命院の守護社として、右大臣藤原良相によって創建されたと伝えられている。


武信稲荷神社


武信稲荷のエノキ

 境内に、平重盛が安芸宮島の厳島神社から苗木を移し植えたという伝承を持つ巨大な榎がある。幕末、龍馬の妻おりょうの父が捕えられ六角獄舎に収容されていた。龍馬とおりょうは共に何度も訪れたが、龍馬自身も追われる身であり、面会はかなわなかった。そこでこの大木に上って様子を探ったという。その後、命を狙われた龍馬は身を隠すことになり、おりょうは龍馬の身を案じていた。かつて二人で何度も訪れたことのある武信稲荷の榎のことを思い出し、そこを訪れたところ、そこに龍馬独特の字で「龍」の字が彫られていた。これで龍馬が今も生きていて、そして京都にいることを知ったというのである。

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