(東光寺)
脱走方三名墓を訪ねて、再度東光寺墓地を歩いた。前回東光寺を歩いたのが十年以上前のことであり、即ち十年越しの懸案事項である(といってもさほど頻繁に通い詰めたわけではないが…)。
午前中、市川での野球の練習を終え、野球道具を背負っての探訪となった。とても暑い日で、汗が止まらなかった。
三十分余り墓地を歩き回り、やっと探し当てた。スネほどの高さの小さな墓で、極めて分かりにくい。
源儀院涅槃大哭居士
泰聖院伝寿得道居士
達想院大徳蓮花居士
表面に三名の法名が連刻されているが、何れも姓氏不詳。側面には「慶應四辰閏四月初三日」とあり、脱走方のものと思われる。この墓石は、明治十年(1877)、川端の石屋長十郎と船橋大神宮前のそば屋大和屋平左衛門が協力して建立したものと伝えられる。
このような墓石を発見するには、「何としても探し当てよう」という「熱意」と「必ずあるはず」という「確信」と時間的な「余裕」の三要素が重要だということを実感した。
(広瀬直船堂)
広瀬直船堂
広瀬直船堂は、往時の船橋宿の雰囲気を今に伝えるレトロな和菓子屋である。建物は大正七年(1918)であるが、創業は安政年間に遡るという老舗である。店内には山岡鉄舟の書がかかげてある。
広瀬直船堂
(山岡鉄舟の書)
店内に入ると、ここだけは昭和の空気が流れている。「焼だんご」の支払いをしていると、ちょっと太った子供が勢いよく店内に駆け込んできて、「両替してください」というので、店の人に代わって両替してあげた。この子は店の前のガチャガチャをやりにきたようである。野球道具を詰めた大きなバッグを持った私に「お仕事ですか」と妙に親し気に話しかけてきた。ここには人と人の心の距離を近づける効果があるような気がした。
焼きだんご
ウマイ!
(千葉銀行船橋支店)
明治天皇船橋行在所阯
明治天皇は、陸軍の演習や牧畜耕耘事業の視察を目的として、明治六年(1873)を初めとして、明治四十五年(1912)までに十回、延べ三十五日にわたって千葉県に滞在した。最初の来県は、明治六年(1873)四月二十九日から五月一日まで、近衛隊演習の視察のため大和田原への行幸であった。この時、第一日目に昼食をとったのが、当時の船橋町九日市の旅館業桜屋、山口丈吉宅(現・千葉銀行船橋支店)であった。明治八年(1875)五月、二回目の来県の折にも山口宅に宿泊している。その後もしばしば山口宅を利用され、通算して宿泊十回、昼食五回、小休二回に及んだという。
(山野風の神地蔵様)
山野風の神地蔵様
船橋市の西船一丁目の京成線の踏切の近くに一体の地蔵が祀られている。この石造りの地蔵は、大正五年(1916)の京成線の線路工事で発掘された頭骨を埋葬したもので、江原素六隊の隊士のものと推定されている。当時は墓石もあったらしいが、何者かが持ち去ったため、石の地蔵だけが残されることになった。
脱走方三名墓を訪ねて、再度東光寺墓地を歩いた。前回東光寺を歩いたのが十年以上前のことであり、即ち十年越しの懸案事項である(といってもさほど頻繁に通い詰めたわけではないが…)。
午前中、市川での野球の練習を終え、野球道具を背負っての探訪となった。とても暑い日で、汗が止まらなかった。
三十分余り墓地を歩き回り、やっと探し当てた。スネほどの高さの小さな墓で、極めて分かりにくい。
源儀院涅槃大哭居士
泰聖院伝寿得道居士
達想院大徳蓮花居士
表面に三名の法名が連刻されているが、何れも姓氏不詳。側面には「慶應四辰閏四月初三日」とあり、脱走方のものと思われる。この墓石は、明治十年(1877)、川端の石屋長十郎と船橋大神宮前のそば屋大和屋平左衛門が協力して建立したものと伝えられる。
このような墓石を発見するには、「何としても探し当てよう」という「熱意」と「必ずあるはず」という「確信」と時間的な「余裕」の三要素が重要だということを実感した。
(広瀬直船堂)
広瀬直船堂
広瀬直船堂は、往時の船橋宿の雰囲気を今に伝えるレトロな和菓子屋である。建物は大正七年(1918)であるが、創業は安政年間に遡るという老舗である。店内には山岡鉄舟の書がかかげてある。
広瀬直船堂
(山岡鉄舟の書)
店内に入ると、ここだけは昭和の空気が流れている。「焼だんご」の支払いをしていると、ちょっと太った子供が勢いよく店内に駆け込んできて、「両替してください」というので、店の人に代わって両替してあげた。この子は店の前のガチャガチャをやりにきたようである。野球道具を詰めた大きなバッグを持った私に「お仕事ですか」と妙に親し気に話しかけてきた。ここには人と人の心の距離を近づける効果があるような気がした。
焼きだんご
ウマイ!
(千葉銀行船橋支店)
明治天皇船橋行在所阯
明治天皇は、陸軍の演習や牧畜耕耘事業の視察を目的として、明治六年(1873)を初めとして、明治四十五年(1912)までに十回、延べ三十五日にわたって千葉県に滞在した。最初の来県は、明治六年(1873)四月二十九日から五月一日まで、近衛隊演習の視察のため大和田原への行幸であった。この時、第一日目に昼食をとったのが、当時の船橋町九日市の旅館業桜屋、山口丈吉宅(現・千葉銀行船橋支店)であった。明治八年(1875)五月、二回目の来県の折にも山口宅に宿泊している。その後もしばしば山口宅を利用され、通算して宿泊十回、昼食五回、小休二回に及んだという。
(山野風の神地蔵様)
山野風の神地蔵様
船橋市の西船一丁目の京成線の踏切の近くに一体の地蔵が祀られている。この石造りの地蔵は、大正五年(1916)の京成線の線路工事で発掘された頭骨を埋葬したもので、江原素六隊の隊士のものと推定されている。当時は墓石もあったらしいが、何者かが持ち去ったため、石の地蔵だけが残されることになった。