(一乗寺)
一乗寺まで来ると地下鉄千代田線根津駅が近い(台東区谷中1‐6‐1)。本堂前に江戸中期の儒学者太田錦城の墓がある
太田錦城の名は元貞、字は公幹、才佐と称した。錦城は号である。加賀国大聖寺に生まれ、当時の大儒皆川淇園、山本北山に折衷派を学んだが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、一家の学を建てた。晩年に至り、一時京畿に遊び、三河国吉田藩に仕えたが、加賀国金沢藩から賓師として招かれ、三百石を給された。文政八年(1825)、六十一歳にて没。「九経談」「春草堂詩集」「鳳鳴集」など非常に多くの著述がある。
一乗寺
錦城太田先生之墓
(法蔵院)

法蔵院
森まゆみ著「彰義隊遺聞」(新潮文庫)によれば、法蔵院に彰義隊士有賀庫三郎の墓があるという(台東区谷中1‐6‐26)。墓地には有賀家の墓が三基ほどあったが、いずれも彰義隊士のものとは特定できなかった。
有賀庫三郎は、上野戦争の後、市内に潜伏し、慶応四年(1868)八月十九日、榎本艦隊に加わり品川を出帆、箱館に向かったが、暴風雨に遭って乗っていた三嘉保丸が沈没、命からがら九十九里浜に上陸した。箱館に向かって奥州街道を陸路青森まで行ったが、海峡を渡る船がなく、そのうち五稜郭は降伏、また江戸に戻ったという。庫三郎は下谷金杉下町に蟄居して、毎日上野を望み、同志の慰霊に余生を送った。
(大圓寺)
大圓寺
これも森まゆみの「彰義隊遺聞」から。上野戦争前夜、五月初旬のことである。官軍の酔っ払いと彰義隊士西村賢八郎と関規矩守とが谷中三崎町ですれ違った。両者は斬り合いとなり、薩摩藩士三人は斬殺された。彼らの遺体は近くの大圓寺まで運ばれそこに埋葬されたという(台東区谷中3‐1‐2)。
鹿児島側の記録は少し違っている。斬殺された三名は、有吉庄之丞、湯地次右衛門、有馬早八郎。いずれも小銃第三隊に属する薩摩藩士で、斥候として出たところを襲われ、一人は敵に手傷を負わせて斬り伏せられ、もう一人は深手を負って切腹、残る一人も切腹しようとしたところを鉄砲で打たれて死んだとされている。
三崎坂
大圓寺前の緩やかな坂が三崎(さんさき)坂である。諸説あるが、この地が駒込、田端、谷中の三つの高台に向かうためこう呼ばれるようになったといわれる。
一乗寺まで来ると地下鉄千代田線根津駅が近い(台東区谷中1‐6‐1)。本堂前に江戸中期の儒学者太田錦城の墓がある
太田錦城の名は元貞、字は公幹、才佐と称した。錦城は号である。加賀国大聖寺に生まれ、当時の大儒皆川淇園、山本北山に折衷派を学んだが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、一家の学を建てた。晩年に至り、一時京畿に遊び、三河国吉田藩に仕えたが、加賀国金沢藩から賓師として招かれ、三百石を給された。文政八年(1825)、六十一歳にて没。「九経談」「春草堂詩集」「鳳鳴集」など非常に多くの著述がある。

一乗寺

錦城太田先生之墓
(法蔵院)

法蔵院
森まゆみ著「彰義隊遺聞」(新潮文庫)によれば、法蔵院に彰義隊士有賀庫三郎の墓があるという(台東区谷中1‐6‐26)。墓地には有賀家の墓が三基ほどあったが、いずれも彰義隊士のものとは特定できなかった。
有賀庫三郎は、上野戦争の後、市内に潜伏し、慶応四年(1868)八月十九日、榎本艦隊に加わり品川を出帆、箱館に向かったが、暴風雨に遭って乗っていた三嘉保丸が沈没、命からがら九十九里浜に上陸した。箱館に向かって奥州街道を陸路青森まで行ったが、海峡を渡る船がなく、そのうち五稜郭は降伏、また江戸に戻ったという。庫三郎は下谷金杉下町に蟄居して、毎日上野を望み、同志の慰霊に余生を送った。
(大圓寺)

大圓寺
これも森まゆみの「彰義隊遺聞」から。上野戦争前夜、五月初旬のことである。官軍の酔っ払いと彰義隊士西村賢八郎と関規矩守とが谷中三崎町ですれ違った。両者は斬り合いとなり、薩摩藩士三人は斬殺された。彼らの遺体は近くの大圓寺まで運ばれそこに埋葬されたという(台東区谷中3‐1‐2)。
鹿児島側の記録は少し違っている。斬殺された三名は、有吉庄之丞、湯地次右衛門、有馬早八郎。いずれも小銃第三隊に属する薩摩藩士で、斥候として出たところを襲われ、一人は敵に手傷を負わせて斬り伏せられ、もう一人は深手を負って切腹、残る一人も切腹しようとしたところを鉄砲で打たれて死んだとされている。

三崎坂
大圓寺前の緩やかな坂が三崎(さんさき)坂である。諸説あるが、この地が駒込、田端、谷中の三つの高台に向かうためこう呼ばれるようになったといわれる。