史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

日暮里 ⅡⅩⅧ

2019年03月02日 | 東京都
(一乗寺)
 一乗寺まで来ると地下鉄千代田線根津駅が近い(台東区谷中1‐6‐1)。本堂前に江戸中期の儒学者太田錦城の墓がある

 太田錦城の名は元貞、字は公幹、才佐と称した。錦城は号である。加賀国大聖寺に生まれ、当時の大儒皆川淇園、山本北山に折衷派を学んだが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、一家の学を建てた。晩年に至り、一時京畿に遊び、三河国吉田藩に仕えたが、加賀国金沢藩から賓師として招かれ、三百石を給された。文政八年(1825)、六十一歳にて没。「九経談」「春草堂詩集」「鳳鳴集」など非常に多くの著述がある。


一乗寺


錦城太田先生之墓

(法蔵院)


法蔵院

 森まゆみ著「彰義隊遺聞」(新潮文庫)によれば、法蔵院に彰義隊士有賀庫三郎の墓があるという(台東区谷中1‐6‐26)。墓地には有賀家の墓が三基ほどあったが、いずれも彰義隊士のものとは特定できなかった。

 有賀庫三郎は、上野戦争の後、市内に潜伏し、慶応四年(1868)八月十九日、榎本艦隊に加わり品川を出帆、箱館に向かったが、暴風雨に遭って乗っていた三嘉保丸が沈没、命からがら九十九里浜に上陸した。箱館に向かって奥州街道を陸路青森まで行ったが、海峡を渡る船がなく、そのうち五稜郭は降伏、また江戸に戻ったという。庫三郎は下谷金杉下町に蟄居して、毎日上野を望み、同志の慰霊に余生を送った。

(大圓寺)


大圓寺

 これも森まゆみの「彰義隊遺聞」から。上野戦争前夜、五月初旬のことである。官軍の酔っ払いと彰義隊士西村賢八郎と関規矩守とが谷中三崎町ですれ違った。両者は斬り合いとなり、薩摩藩士三人は斬殺された。彼らの遺体は近くの大圓寺まで運ばれそこに埋葬されたという(台東区谷中3‐1‐2)。
 鹿児島側の記録は少し違っている。斬殺された三名は、有吉庄之丞、湯地次右衛門、有馬早八郎。いずれも小銃第三隊に属する薩摩藩士で、斥候として出たところを襲われ、一人は敵に手傷を負わせて斬り伏せられ、もう一人は深手を負って切腹、残る一人も切腹しようとしたところを鉄砲で打たれて死んだとされている。


三崎坂

 大圓寺前の緩やかな坂が三崎(さんさき)坂である。諸説あるが、この地が駒込、田端、谷中の三つの高台に向かうためこう呼ばれるようになったといわれる。

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青山霊園 補遺 Ⅸ

2019年03月02日 | 東京都
(青山霊園 つづき)


小宮山綏介君墓

小宮山南梁は有名な風軒の孫。水戸藩士。幼名造酒之介。南梁は号。明治以降は綏介(やすすけ)を名乗った。幕末期の藩内の激しい政争には巻き込まれず、祖父の死後も膨大な著作と豊富な史料、書簡、書籍に接し学問研鑚を深めた。元治元年(1864)の天狗・諸生の乱の後、召し出されて大御番格弘道館助教を経て、東扱郡奉行に就任した。その間、学者の目で冷静に藩内外で起こる出来事を記録したのが「南梁年録」で、現在も水戸藩政史研究の基礎的史料となっている。維新後も大蔵省、東京府へ出仕。明治二十三年(1890)には「古事類苑」編集委員に任じられ、学者として活躍を続けた。明治二十九年(1896)、東京で没。六十八歳。(1種ロ19号5側)


永田熊吉之墓

先日、大河ドラマ「西郷どん」の最終回が放映されたところである。番組の終わりに「西郷どん紀行」と称して、ドラマ所縁の史跡が紹介されるが、そこで青山霊園の(大河ドラマではタレント塚地武雅が演じた)永田熊吉の墓が紹介された。画面に映ったのはほんの数秒であり、青山霊園のどこにあるかというところまでは分からなかった。
通院のため休みをとった日、早速青山霊園を訪ねた。霊園の事務所で場所を尋ねると、地図を渡された。そこに永田熊吉だけでなく、西郷糸子や川路家、有村家の墓の場所が記載されていた。大河ドラマの影響で青山霊園を訪ねる人も増えているということだろう。

永田熊吉は西郷家に代々仕える使用人。隆盛が生まれたときからその成長を見守った。西南戦争後は西郷従道家で庭師として雇われた。墓石によれば、明治三十三年(1900)、六十六歳で死去。傍らには妻袈裟の墓もある。袈裟は明治二十二年(1889)、五十六歳にて没している。


正五位勲四等松野礀墓(右)
松野Craraの墓(左)

松野礀は弘化四年(1847)長州美祢郡大田の生まれ。明治三年(1870)、北白川宮に随行してドイツに渡り、高等森林学校にて林学を学び、明治八年(1875)帰国して内務省に迎えられ、初の林業技術者として林業行政に携わった。技術者養成の必要性を痛感し、林業試験研究の端緒となる樹木試験場を創設した。さらに東京大学林学科の前身である山林学校を設立し、初代校長として人材育成に貢献した。山林局の要職を歴任後、明治三十八年(1905)目黒に設立された林業試験場の初代場長となった。明治四十一年(1908)五月、六十一歳にて没。
妻クララは1853年ドイツ・ベルリンの生まれ。日本人男性とドイツ人女性の正式な国際結婚第一号といわれる。明治九年(1876)、我が国で最初の官立幼稚園(東京女子師範学校附属幼稚園)の主任保母としてフレーベルの幼児教育法を導入し、指導にあたった。またピアノ奏法の指導にも先駆的役割を果たした。昭和六年(1931)没。


松野礀顕彰碑
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田町 Ⅶ

2019年03月02日 | 東京都
(綱町三井倶楽部)
 綱町三井倶楽部(港区三田2‐3‐7)は、大正二年(1913)にイギリス人建築家所サイア・コンドルの設計で建てられた、ネオ・バロック風の建物である。コンドルは明治十年(1877)に来日し、鹿鳴館、銀座煉瓦街をはじめ、幾多の建築に携わり、日本の近代化に貢献した。この建物は、三井家の賓客接待用として建てられたもので、室内装飾や家具などに優美な装飾が見られる。建物の背後には広い庭園もあるという。平成二十年(2008)には、門も建築当時の姿に復元された。


綱町三井倶楽部

 三井倶楽部から隣接するオーストラリア大使館の敷地は、江戸時代には佐土原藩島津家や、会津藩保科家の屋敷があった場所で、かつては前面道路に面したところに大名屋敷の建物を模した、近代に建てられた長屋もあったという。

 つい先日取引先のオーストラリア系企業のパーティーに招かれ、オーストラリア大使館の敷地に入る機会を得た。庭園を取り囲むように建物が建てられている。庭園は藩邸時代の名残かもしれない。

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