史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

前橋 Ⅴ

2019年03月09日 | 群馬県
(都丸邸)


都丸邸

 小栗上野介忠順が権田村観音山に用水を引き建築にかかったが主の死により未完に終わった屋敷が、前橋市総社町に移築されて現存している。
 周辺は「都丸」姓の表札を掲げる家が多く、その中から旧小栗屋敷を探し当てるのは少々骨が折れる。高崎市の出している「偉人小栗上野介」というパンフレットに掲載されている写真と照らしてこれで間違いないと思う。

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高崎 Ⅵ

2019年03月09日 | 群馬県
(阿弥陀堂 田口家墓地)


阿弥陀堂


真仙得忠居士 藤庭偕忠居士 金光照忠居士
(小栗父子の家臣の墓)

 小栗又一の墓の横にある父子の家臣の墓を写真に収めるため、再度阿弥陀堂を訪問した。ここに葬られているのは、沓掛藤五郎、多田金之助、塚本真彦の三名。いずれも慶應四年(1868)閏四月七日、又一とともに斬首された。

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甘楽

2019年03月09日 | 群馬県
(楽山園)
 楽山園は、織田信長の次男信雄がこの地に城下町を築いた際に造った庭園である。


名勝楽山園


楽山園


御殿跡

 楽山園は典型的な池泉回遊式庭園である。池を中心に中島や築山を配置し、起伏ある地形を作りだしている。一見すると手入れの行き届いたゴルフ場のようでもある。
 庭園に隣接した場所に御殿(藩邸跡)がある。今、建造物は残っていないが、かつてここで小幡藩の政務が執られていた。
 小幡藩は、元和元年(1615)天下統一を成し遂げた徳川家康が、織田宗家を継いだ織田信雄に大和宇陀三万石と小幡二万石を与えたことがその始まりで、その翌年、信雄の四男信良が仮陣屋に入り藩政が開始された。織田家の藩政は八代百五十二年続いたが、明和四年(1767)、小幡藩の内紛(山県大弐の明和事件)により織田家が出羽高畠に移封され、代わって親藩である松平忠恒がこの地に入った。以来、四代にわたって松平家の統治が続き、明治維新を迎えた。
 幕末の藩主は松平忠恕(ただゆき)。幕府の奏者番や寺社奉行といった重職を歴任したが、戊辰戦争では早くから新政府への恭順を表明した。維新後は知藩事に任じられたが、廃藩置県により免職。明治三十五年(1902)、七十八歳で没した。

(食い違い廓)


食い違い廓

 甘楽の街には城下町の風情が色濃く感じられる。楽山園近くの山田家主屋の東南側には食い違い廓と呼ばれる石垣が残されている。この奇妙な石垣は、戦時の防衛のため造られたといわれるが、下級武士が上級武士と出会うのを避けるためのものとも言われている。

(松平家大奥)
 食い違い廓のある山田家のちょうど向い側に松平家大奥があった。今は江戸後期に築造された庭園が残されているのみである。大奥には奥方と何人かの腰元が住んでいたといわれる。幕末、ペリーが来航した際、将軍が江戸城大奥の女官たち十五~十六人を親藩である小幡藩のこの屋敷に疎開させたと伝えられている。


松平家大奥庭園

(中小路)
 中小路は織田氏の統治時代に造られた道路で、道幅は十三~十四メートルもある。車の無い時代にこのような広い道路を作ったのは、全国的に珍しい。中小路沿いにある書院造りの屋敷や石垣は、城下町時代の面影を今に伝えるものである。写真左手の大きな屋敷は、小幡藩の勘定奉行も務めた高橋家もの。無患子(ムクロジ)の巨木が中小路を見下ろしている。


中小路

(大手門)


甘楽町歴史民俗資料館


大手門礎石

 陣屋の内と外を分ける場所に門が設けられた。陣屋の正面にあたる場所には、大手門が置かれた。現在、ここにあった四脚門は残っていないが、門を支えた礎石が残されている。
 大手門近くには甘楽町歴史民俗資料館が開設されている。建物は大正十五年(1926)に甘楽社小幡組製糸工場の繭工場として建設されたレンガ造り二階建て、瓦葺きのものである。
 織田信雄の肖像画や書状などのほか、この地域で養蚕に使われていた道具類も展示されている。入館料二百円。

(雄川堰)


雄川堰

 小幡の街を流れる雄川堰(おがわぜき)は、開削時期は不明であるが、藩政時代以前から存在していたといわれる。一級河川雄川から引き込んだ大堰があり、そこから取水して陣屋内に張り巡らされた小堰から成っている。古くから生活用水、非常用水、灌漑用水として活用されてきた。雄川堰は江戸時代から受け継がれる貴重な歴史遺産であると同時に、小幡の街並みに風情を添えている。私が訪れた時、楽山園にも雄川堰周辺にもほかに観光客らしき姿はなかった。全国的にはあまり有名とはいえない街であるが、落ち着きのある良い街並みである。もっと注目されて良い。

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安中 Ⅱ

2019年03月09日 | 群馬県
(南窓寺)
 安中市板鼻の南窓寺には算学者、天文学者小野良佐栄重の墓がある。


南窓寺


壽算榮重居士
(小野良佐(りょうすけ)栄重の墓)

 小野良佐は、宝暦十三年(1763)、碓氷郡中野谷村に生まれた。江戸で関流算学者藤田貞資の門下で算学を学び、更には伊能忠敬について天文学を学び、海岸線の測量にも参加した。また、天文、暦術、算術に関する図書の編集にも関係し、寛政九年(1797)には郷土板鼻に和算塾を開き、文化八年(1811)には恩師藤田貞資の遺命により関流数学師範の免許皆伝が伝達され、関流六伝の家元として日本和算数学界の中心的地位を授けられた。「上毛の数学栄重を得て始めて大なり」と称された。天保二年(1831)没す。

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碓氷峠 Ⅱ

2019年03月09日 | 群馬県
(めがね橋)
 碓氷峠を越えて坂本側に降りてくると、めがね橋と呼ばれる巨大な構造物に出会う。正式には「碓氷第三橋梁」といい、国指定重要文化財に指定されている。急勾配でしられる碓氷峠は、路線決定と工事が難航した。軽井沢―直江津間は明治二十一年(1888)に開通していたが、それから五年後の明治二十六年(1893)四月にようやく開業を迎えた。碓氷線には、当時の土木技術の粋を集めて、二十六のトンネルと十八の橋梁が造られたが、なかでもこのめがね橋は二百万個以上のレンガを使用した、国内でも最大のレンガ造アーチ橋である。


めがね橋

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軽井沢

2019年03月09日 | 長野県
(中軽井沢)
 最近は便利になったもので、WEB上のライブカメラを通じて現地の天候など、自宅に居ながらリアルタイムで把握することができる。軽井沢周辺にも小雨は降ったようだが、雪にはなっていないようなので、軽井沢行きを決行した。
 朝四時に起床。八王子から二時間ほどで軽井沢に行き着いた。確かに雪は降っていなかったが、氷点下の寒さに震えた。やはり冬の軽井沢は寒かった。
 もう一つ誤算だったのは、この日の軽井沢の日の出時間が午前七時前であったことであった。しばらく駐車場で明るくなるのを待ったが、結局待ちきれずに薄暗い中で撮影を開始した。


本陣 土屋家

 中軽井沢駅を出た辺りが、中山道の沓掛宿である。本陣を務めた土屋家の表札に「本陣」とあるのが辛うじて宿場町の名残である。
 文久元年(1861)十一月八日、和宮は沓掛宿にて宿泊した。同年十月二十日に京都を出立した和宮一行は、二十三泊を重ねて十一月十五日に江戸に到着した。
 長い時間をかけて和宮の宿泊した中山道の宿場町を訪ねてきたが、ようやくこれで二十三宿場全てを踏破することができた。無茶苦茶寒かったが、人知れず満足感に浸った。


脇本陣蔦屋跡

 本陣土屋家の向い側、八十二銀行の駐車場内に脇本陣蔦屋跡石碑がある。
 もう一つの脇本陣は、旅館桝屋本店として今も営業している。


旅館桝屋本店

 中軽井沢から碓井峠を越えて群馬県安中へ向かった。ところどころ路面が凍結していて、非常に神経を使うドライブであった。やはりこの時期、自動車を運転して長野県に行くというのはお勧めしません。

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