(桂宮邸跡)
桂宮邸跡
文久元年(1861)十月二十日、十四代将軍家茂に嫁ぐことになった和宮は、仮御殿の桂宮邸を出発して中山道を江戸へと下向した。和宮が二年近く住んでいた御殿は、明治二十六~七年(1893~4)に二条城の本丸御殿として移築された。
(西園寺邸跡)
つづき
白雲神社
白雲神社の社号扁額は、明治三十八年(1905)、白雲神社七百五十年祭にあたり西園寺公望(当時五十七歳)が揮毫したもの。
白雲神社には、もう一つ西園寺公望が残した書がある。「清而舒」は社務所に架かっているはずだが、いくら探しても見つからない。社務所の女性に聞いてみると、「そこにあります。」と背後を指さした。社務所の中にあった。
「写真を撮らせていただいて宜しいでしょうか」と尋ねると「中のものは簡単には撮影できません」と取り付く島もない。泣く泣く退散することになった。
(相国寺)
つづき
相国寺
西郷吉之助家来 徳嶋仲祐墓
林光院墓地は、施錠されていて立ち入りできないが、実は細身であれば抜けられる小道が通じている。薩軍戦死者の墓の奥には薩摩藩関係者の墓が多数並んでいる。その中に西郷隆盛の従者徳嶋仲祐の墓がある。
文久二年(1862)六月、久光の激怒をかって徳之島に流刑になった際、琉仲為(りゅうなかい)という島の総横目が西郷の身元引受人となった。流刑は厳格な禁錮ではなく、監視される程度であった。仲為の甥、仲祐という十八歳の青年が西郷の面倒をみた。仲祐は一度でよいから京都に行きたいという夢をもっており、それを聞いた西郷は罪が解けた折には必ず京都に連れていくことを約束した。ところが同年八月、藩から沖永良部島への流島を命じられた。西郷が召還されたのは元治元年(1864)二月のことであった。慶應二年(1866)九月、西郷が大目付陸軍掛に任じられると、仲祐も呼び出され西郷とともに上京を果たした。仲祐は西郷の従僕となって諸用で市中を駆け巡った。そんな折、仲祐は京都で急逝した。一説には、西郷と顔立ちや体格が似ていた仲祐は、間違えられて新選組に斬殺されたともいわれる。しかし、この時期に新選組が薩摩藩士を暗殺するというのは不自然であり、真相は不明である。西郷は仲祐の死をひどく悲しみ、寺に「千疋」もの大金を納め、墓碑にも自ら揮毫したといわれる。
相国寺墓地には禁門の変で戦死した長州藩士の慰霊墓がある。広い墓地だが、入って直ぐ左手にあるので、探す手間はない。
長藩士戦亡霊塔
斗米菴若冲居士墓(伊藤若冲の墓)
長州藩戦死者の墓の隣には、足利義政らの墓と並んで伊藤若冲(1716~1800)の墓がある。私はまったく絵心はないが、それでも若冲の絵には惹かれるものがある。若冲は動植物を好んで描いたが、自然の造形・色彩への衝撃が作品製作の動機になっているのではないか、と勝手に想像している。私も魚や貝殻が大好きだが、突き詰めて考えると、想像を絶するフォルムや配色を見るたびに脱帽するのである。いかに優秀なデザイナーでも自然にはとてもかなわないだろう。
(養源院)
相国寺の塔頭の一つ、養源院は戊辰戦争時に薩摩藩野戦病院となったという。
養源院