史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

御所 Ⅸ

2020年01月04日 | 京都府

(桂宮邸跡)

 

桂宮邸跡 

 

 文久元年(1861)十月二十日、十四代将軍家茂に嫁ぐことになった和宮は、仮御殿の桂宮邸を出発して中山道を江戸へと下向した。和宮が二年近く住んでいた御殿は、明治二十六~七年(1893~4)に二条城の本丸御殿として移築された。

 

(西園寺邸跡)

つづき

 

                     

白雲神社

 

 白雲神社の社号扁額は、明治三十八年(1905)、白雲神社七百五十年祭にあたり西園寺公望(当時五十七歳)が揮毫したもの。

 

 白雲神社には、もう一つ西園寺公望が残した書がある。「清而舒」は社務所に架かっているはずだが、いくら探しても見つからない。社務所の女性に聞いてみると、「そこにあります。」と背後を指さした。社務所の中にあった。

 「写真を撮らせていただいて宜しいでしょうか」と尋ねると「中のものは簡単には撮影できません」と取り付く島もない。泣く泣く退散することになった。

 

(相国寺)

つづき

 

相国寺

 

  

西郷吉之助家来 徳嶋仲祐墓

 

 林光院墓地は、施錠されていて立ち入りできないが、実は細身であれば抜けられる小道が通じている。薩軍戦死者の墓の奥には薩摩藩関係者の墓が多数並んでいる。その中に西郷隆盛の従者徳嶋仲祐の墓がある。

 文久二年(1862)六月、久光の激怒をかって徳之島に流刑になった際、琉仲為(りゅうなかい)という島の総横目が西郷の身元引受人となった。流刑は厳格な禁錮ではなく、監視される程度であった。仲為の甥、仲祐という十八歳の青年が西郷の面倒をみた。仲祐は一度でよいから京都に行きたいという夢をもっており、それを聞いた西郷は罪が解けた折には必ず京都に連れていくことを約束した。ところが同年八月、藩から沖永良部島への流島を命じられた。西郷が召還されたのは元治元年(1864)二月のことであった。慶應二年(1866)九月、西郷が大目付陸軍掛に任じられると、仲祐も呼び出され西郷とともに上京を果たした。仲祐は西郷の従僕となって諸用で市中を駆け巡った。そんな折、仲祐は京都で急逝した。一説には、西郷と顔立ちや体格が似ていた仲祐は、間違えられて新選組に斬殺されたともいわれる。しかし、この時期に新選組が薩摩藩士を暗殺するというのは不自然であり、真相は不明である。西郷は仲祐の死をひどく悲しみ、寺に「千疋」もの大金を納め、墓碑にも自ら揮毫したといわれる。

 

 相国寺墓地には禁門の変で戦死した長州藩士の慰霊墓がある。広い墓地だが、入って直ぐ左手にあるので、探す手間はない。

 

 

長藩士戦亡霊塔

 

 

斗米菴若冲居士墓(伊藤若冲の墓)

 

 長州藩戦死者の墓の隣には、足利義政らの墓と並んで伊藤若冲(1716~1800)の墓がある。私はまったく絵心はないが、それでも若冲の絵には惹かれるものがある。若冲は動植物を好んで描いたが、自然の造形・色彩への衝撃が作品製作の動機になっているのではないか、と勝手に想像している。私も魚や貝殻が大好きだが、突き詰めて考えると、想像を絶するフォルムや配色を見るたびに脱帽するのである。いかに優秀なデザイナーでも自然にはとてもかなわないだろう。

 

(養源院)

 相国寺の塔頭の一つ、養源院は戊辰戦争時に薩摩藩野戦病院となったという。

 

 養源院

 

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嵐山 Ⅲ

2020年01月04日 | 京都府

(寿寧院)

 

                       

寿寧院

 

 天龍寺塔頭の一つ、寿寧院の墓地に平成十七年(2005)六月、八瀬西林寺から当寺墓地に改葬された際に楢崎将作と坂本龍子(西村ツル)の顕彰碑がが建てられた。

 

倶會一處(西村家の墓)

 

 

楢崎将作 坂本龍子(西村ツル) 顕彰碑

 

 楢崎将作は、お龍の実父。青蓮院の侍医であり、勤王家。頼三樹三郎、梁川星厳、池内大学らと親交があり、数多くの志士を援助した。安政の大獄で投獄され、出獄後、文久二年(1862)六月二十日、病死。行年五十。

 坂本龍子は龍馬の死後、横須賀で西村松兵衛に嫁ぎ、明治三十九年(1906)一月十五日、横須賀にて死去。行年六十六。遺言に従い、夫松兵衛は妻の分骨を京の龍馬墓と西林寺楢崎家墓に埋葬した。

 

 顕彰碑には、龍馬が伏見から江戸に向かった際にお龍が贈った歌が刻まれている。

 

 又あふと思ふ心をしるべにて

 道なき世にも出づる旅かな

 

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鳴滝 Ⅲ

2020年01月04日 | 京都府

(三寶寺)

 つづき

 

 三寶寺には、今城家の墓所があり、今城重子ほか一族の墓がある。

 

                       

常行院殿妙修重子日淳大姉(今城重子の墓)

 

 今城重子は文政十一年(1828)の生まれ。父は権大納言今城定章(さだあや)。嘉永元年(1848)、内侍御雇として出仕。名を婦喜と賜った。ついで嘉永三年(1850)四月、衛門内侍となり、万延元年(1860)十二月、従五位下に叙せられ、少将内侍となった。孝明天皇の側近にあって重きをなし、なかんずく和宮の降嫁に際しては斡旋の労により幕府より職禄を増されたが、のちにそのことが尊攘派の公家・志士らを刺激し、四奸二嬪の一人として排撃されるに至り、文久二年(1862)七月、宮中より退出させられ、ついで辞官・隠居・洛中居住禁止の処分を受けて太秦村に閉居謹慎し、さらに翌年二月、落飾を命じられた。慶應四年(1868)七月、許されて旧位に復した。明治三十四年(1901)、七十四歳で没したが、死去に際し正五位叙された。

 

 

従三位 藤原媋子墓(今城媋子の墓)

 

 今城家の墓地の奥に夭折した常寂光院の墓があり、それに寄り添うように、今城媋子(たつこ)の墓がある。

 今城媋子は文化六年(1809)の生まれ。父は権中納言今城定成。文政六年(1823)、仁孝天皇の後宮に仕え、翌年には掌侍となり、天保三年(1832)四月、皇子常寂光院を出産。この月、従五位下に叙された。文政九年(1826)閏四月より一年間里邸に退出を命じられたが、七月別勅により帰還した。文政十三年(1830)十二月、従五位上に叙された。弘化三年(1846)正月、仁孝天皇崩御により翌年宮中を退き、薙髪して孝順院と号した。安政元年(1854)四月、その召使の失火により内裏が類焼したので、七月責任を問われて遠慮・閉門を命じられた。明治八年(1875)、年六十七で没。

 

 

常寂光院の墓

 

 

霊明院殿の墓

 

 霊明院も常寂光院と同じく今城媋子の子。仁孝天皇の皇子である。

 

 昭和四十六年(1971)に今城家子孫によって建立された慰霊碑。常寂光院や霊明院の名前も刻まれている。

 

 

當山に鎮まれる諸家の霊

 

 

今城家の墓域

 

 

今城家の墓域 

 

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鞍馬口 Ⅲ

2020年01月04日 | 京都府

謹賀新年

 

(薩長同盟所縁之地)

 

                       

薩長同盟所縁之地

 

 地下鉄鞍馬口駅下車してすぐの場所に、平成二十九年(2017)、薩長同盟所縁之地と記した石碑が建てられた。別の側面には、「近衛家別邸 御花畑御屋敷跡」「小松帯刀寓居趾」とある。この石碑の建立と合わせて、一条戻り橋付近にあった石碑は撤去されたそうである。

 この場所はかつて近衛家の別邸御花畑御屋敷があり、幕末には島津家が借り受け、家老小松帯刀の寓居として使用されていた。南北約五十五メートル、東西約百四十メートルという広大な屋敷だったと伝えられている。

 慶応二年(1866)一月、長州から上洛した桂小五郎らはこの地に宿泊し、坂本龍馬立ち合いのもと、小松帯刀、西郷隆盛らと会見して、いわゆる薩長同盟が締結された。

 最近、町田明広先生は薩長同盟という軍事同盟的な呼称ではなく「小松・木戸覚書」に名称を変更することを提唱されている。テレビドラマなどでは薩摩藩の代表は西郷隆盛と決まっているが、実際には家老職にあって、実権を握っている久光の意向を受けた小松帯刀がこの場にいたことが重要な意味を持っている。そういう意味でも「小松・木戸覚書」と称するのは説得力がある。

 

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