史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

川之江 Ⅱ

2020年01月11日 | 愛媛県

(かわのえ西川ふれあい塾)

 JR川之江駅から七~八分北上すると、国道11号線の手前に旧讃岐街道が走っている。郵便局の隣が本陣跡である。

 門には「謹敕之風」という文字が掲げられている。「謹敕之風」は尾藤二洲が近藤篤山の開いた塾のことを評価した言葉で、つつしみ深く自らを戒める良風という意味である。

 

かわのえ西川ふれあい塾

 

「謹敕之風」 篤山塾

 

御本陣跡

 

 実際の近藤篤山塾の位置は、本陣跡から西に二十メートルほど行った場所である。

 

(近藤篤山塾跡)

 

 

近藤篤山塾跡

 

 天明八年(1788)、大阪に出た近藤篤山は、同郷の尾藤二洲から儒学を学び、二洲が江戸に移った後、大阪で塾を開いた。寛政六年(1794)、江戸に移って再び二洲の下で学んだ。寛政九年(1797)、江戸での修学を終えて別子山に戻り、翌寛政十年(1798)、川之江で塾を開いた。川之江の塾は、篤山が伊予小松藩に招かれるまで五年間続いた。

 

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土居

2020年01月11日 | 愛媛県

(近藤篤山生家跡)

 JR予讃線伊予土居駅から十分ほど東に歩くと、近藤篤山生家跡がある。

 近藤篤山は、明和三年(1766)、この地に生まれた。父は高橋甚内。近藤家の元の姓は高橋で、先祖は北九州岩屋城主だったというが、信長・秀吉の時代、島津家に滅ぼされ、この地に流れて定住したと伝えられる。

 

                       

近藤篤山先生生誕之地

 

 

近藤篤山の生家

 

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土浦 Ⅲ

2020年01月11日 | 茨城県

(浄真寺)

 土浦への出張の機会を得たので、約束の時間一時間前の特急で先乗りし、浄真寺を訪ねた。土浦駅から合同庁舎行きのバスに乗って真鍋橋バス停で降りれば、浄真寺は目の前である(土浦市立田町3-28)。

 

 

浄真寺 

 

 浄真寺の墓地は想像以上に広かった。ここで片岡家の墓を探し当てるのは、なかなか容易ではない。十分ほど墓地を歩いて出会うことができた。

 片岡家の墓に高野長英が合葬されている。片岡家の墓の礎石に大きく「神崎屋」と刻まれているが、長英の後見人神崎屋源造家の墓である。佐藤昌介著「高野長英」(岩波新書)によれば、神崎屋源造は、水沢から江戸に出てきた長英が身を寄せた先で、日本橋堀留町で薬種屋を営んでいた。長英が長崎へ遊学した際にも経済的に支援をし、さらに長英が処刑されると遺体を引き取り、密かにこの地に埋葬したといわれる。

 高野長英という人は、相当な自信家で自我の強い人だったようだが、同時に蘭学・蘭語の水準は当代随一でもあった。神崎屋源造が惜しまず経済的支援をしたのも、長英の抜群の学識に惚れ込んだからであろう。

 

 

先祖代々之墓(片岡家の墓)

 

 傍らの墓誌の一番右に「高野長英之霊」とある。

 

 

片岡家先祖代々精霊

高野長英之霊

 

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