史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

銀座 Ⅵ

2020年06月27日 | 東京都

(銀座四丁目)

 

成醫会講習所跡

東京慈恵会医科大学発祥之地

 

 銀座4‐4‐2の松屋通り沿いの植栽の中に隠れるように小さな碑が置かれている。この石碑は、明治十四年(1881)、男爵高木兼寛がイギリス医学教授を目的にこの地に成医会講習所を開いたことを記念するものである。成医会講習所は、のちに東京慈恵会医科大学へ発展した。

 

(銀座三丁目)

 

専修大学発祥の地

 

 銀座3‐14‐13の「花山うどん」の店の脇に円形をした小さな石碑がある。専修大学発祥の地碑である。専修大学は、明治十三年(1880)、経済および法律の専修学校として発足したことに始まる。創立メンバーには、相馬永胤、田尻稲次郎、目賀田種太郎、駒井重格らが名を連ねる。

 

明治会堂跡

 

 「花山うどん」の前には中央区教育委員会が建てた説明板が建てられている。この場所には、明治十四年(1881)に福沢諭吉の発案により演説会場「明治会堂」が建てられていた。瓦葺木造二階建て、建坪六百二十平方メートルの擬洋風建築であった。

 当時の演説会場としては、三田の演説館など若干の施設はあったものの、多くの演説は貸席、劇場、料亭などで行われていた。そこで施設の整った演説会場が計画されたのである。会食もできる東京随一の演説会場であり、明治十五年(1882)には立憲改進党の結党式が開かれたほか、明治十六年(1883)には鹿鳴館に先駆けて西洋風の舞踏会も行われた。

 明治会堂は、明治十六年(1883)末、福沢の所有から農商務省の手に渡り、明治十七年(1884)には厚生館と名称を変えたが、明治二十三年(1890)に民間に払い下げられた後、大正十二年(1923)の関東大震災で焼失した。

 

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高尾 Ⅵ

2020年06月27日 | 東京都

(川村家墓地)

 

裏高尾 川村家墓地

 

 来年(令和三年(2021))の大河ドラマの主役は渋沢栄一だという。新札の肖像に渋沢栄一が登場するというニュースも相俟って書店には渋沢栄一関連本が並ぶようになった。

 渋沢栄一は若い頃、挙兵して高崎城を奪い、横浜で外国人を襲撃するという騒動を画策していた。結局その計画は実行されなかったが、同志に八王子出身の真田範之助がいた。

 また若き渋沢栄一が一橋家の平岡円四郎に見いだされ、一橋家に仕えることになったのは有名な話だが、平岡に渋沢栄一、喜作を引き合わせたのが川村恵十郎(正平)といわれる。八王子出身者が大河ドラマに登場するのか今から楽しみである。

 川村は小仏関で代々関所番をつとめた川村家の出身。関所番は川村家のほか、直亮、直文兄弟を生んだ落合家、佐藤家、小野崎家という四家が担当した。

 川村恵十郎は、天保六年(1835)の生まれ。少年の頃より武技を好み、尚武の気性に富んでいた。竹林坊赤松光映に師事、その推輓で川越藩主松平直克に仕え、文久三年(1863)、京都に赴いたが、ついで一橋慶喜に仕えて過人となった。元治元年(1864)六月、一橋家側用人兼番頭の平岡円四郎が水戸藩士に襲撃され斬殺されたが、その場で二人を斬り伏せた。恵十郎も顔面に敵刃を受け、「傷の正平」の異名をとった。晩年の写真が残っているが、顔面に斜めの大きな傷跡が確認できる。このときの功により慶喜より十人頭に取り立てられ、禄二百石を賜った。慶應二年(1866)十二月、慶喜が将軍となると旗本の士として近侍し、慶応四年(1868)一月、鳥羽伏見に敗れて江戸に帰るときも、さらに駿府に隠退するときも、常に慶喜に従った。のち明治政府に仕えて大蔵省、内務省に出仕し、明治六年(1873)、福岡県下に反乱が起こると、林友幸に従って西下し、これを鎮静した。ついで内務卿大久保利通の知遇を得て、明治七年(1874)、大久保が全権弁理大臣として清国に差遣されると、これに随行した。のち宮内省出仕、内閣記録局に勤め、明治十四年(1881)には天皇の東北巡幸に供奉した。官途を退いて後は、日光東照宮禰宜となった。劇作家川村花菱は実子。明治三十年(1897)、年六十三にて没。

 八王子市裏高尾町392‐5の川村家墓地は代々関所番を務めた川村家の墓地である。有刺鉄線で囲われた墓地にどう頑張っても進入することができず、柵の外からでは恵十郎の墓を特定することはできなかった。法名は「忠諤院殿直節純徳居士」。

 

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護国寺 Ⅴ

2020年06月27日 | 東京都

(護国寺つづき)

 

富田家之墓

 

富田家之墓

 

 富田鐵之助の墓を探して、護国寺の墓地を歩き回った。富田家の墓は五つほど見つけたが、鐵之助の墓と特定することはできなかった。

 一つ目の富田家の墓は昭和五十五年(1980)に建てられた比較的新しいもの。二つ目は墓地北側にある立派な墓石ながら、被葬者が誰だか分からない。

 富田鐵之助は、天保六年(1835)、仙台城下に生まれた。父は仙台藩士着座格富田壱岐。安政三年(1856)二十二歳で江戸に出て、勝海舟の塾に入り、蘭学、航海術、砲術を習得した。慶應三年(1867)、アメリカに渡り、翌明治元年(1868)帰朝した。その後、ニューヨーク総理事、清国上海総領事、イギリス公使館一等書記官、大蔵大書記官を歴任し、明治二十一年(1888)、第二代日本銀行総裁となった。しかし、松方大蔵大臣と議合わず翌年職を去った。明治二十三年(1890)、貴族院議員に勅選。翌年には東京府知事となった。明治二十七年(1894)辞した後は、富士紡績会社、横浜火災保険会社の創設などに活躍した。大正五年(1916)、年八十二で没。

 今読み進めている「クララの明治日記」では富田夫人(杉田玄端の娘)が頻繁に出てくる。社交的な女性だったようである。

 

従三位勲三等 下田歌子墓

 

 下田歌子は美濃岩村藩出身の女子教育家、歌人。嘉永七年(1854)の生まれ。明治五年(1872)から明治十二年(1879)まで女官生活を送ったのち、明治十四年(1881)に自宅で桃夭女塾(とうようじょじゅく)を開き、上流家庭の女子の教育に当たった。明治十七年(1884)、宮内省御用掛となり、華族女学校の創設に参画し、明治四十年(1907)まで皇族や華族などの女子教育に携わった。他方で女性大衆への教育を目指して、明治三十一年(1898)には帝国婦人協会を結成し、翌年には同会付属実践女学校(現・実践女子大学)を創立した。また愛国婦人会や処女会中央部など、女性の国家的自覚を求める社会活動にも活躍する一方で、著作活動も活発に展開した。昭和十一年(1936)、八十二歳で没。

 

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